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死んで仕舞おう。
そう、提案したのは彼女だった。
彼はその言葉を口に出せないまま、知らない振りをして生きていた。
辛くはなかった。
ようやく僕等の人生に足がつくと思うと、高揚感さえ感じていた。
暁色に染る世界を見ていた。
訳は、特にない。
朝陽が何だか目に刺さって、それから逃げようとする内に意識が醒めて仕舞っただけだった。
世界が眩しくって、自分を殺してばかりの僕の居場所なんて何処にも亡いのだと思う毎日が今日で終わると思い出し、今に至るのだった。
「ねぇ、」
「“あかつき”って漢字、あるじゃん」
「あれ、”日“が“火”になるだけで、日は焼けちゃうんだね」
いつもと同じ、市販のメイプルシロップが塗られたパンを頬張って、言う。
僕はそんな彼女を他所に、珈琲を淹れる。
ひとり、と落ちるくろい液体を見ていると、何だか落ち着く。
創作というのは、クロマトグラフィと等しいと思っている。
ロシアの植物学者(名前は忘れて仕舞ったが。)が発明したもので、僕にはそんな名前よりもあの実験をはっきり憶えていた。
楽しそうに生きる友達、指示無しには動かないコンピュータ、無垢に存在する知性のかけらもない生き物達。
そんな学校という小さな社会の中で、僕だけが意志を持った、誰よりも頭の良い存在だと本気で思っていた。
自我を持って、理性的に世界を認知し、生きていると。
孤独だった。
誰とも本音で接したことなんてなかったし、本音なんて持っていないと思っていたのだから。独りぼっちの世界で生きているに等しかった。
そんな時に見たのが、あの実験。
黒いインクをクロマトグラフィに附け、先端を水に浸ける。
しばらくすると、僕は久しぶりに驚いた。
あの頃の僕は無駄に頭が好かったのだ。
それだけが僕の生き甲斐、アイデンティティだった。
うすあさぎ、蒼、そして紫。
黒は、黒だと思っていた僕が、間違っていたのだ。
「知らなかった」
そう口にすると、人間は笑った。
人の心は、真っ黒。
そのひとつひとつを分解し、抽出して一色ずつ文章にしていく。
それが僕を悟らせた原因である創作だった。
マグカップに溜まった珈琲をごくり、と呑む。
初めて飲んだブラックコーヒーは僕には不味かった。
「結末だけが知りたいなんて、人生なんてないじゃない」
アパートの2階、月明かりの覗く部屋の隅で女は言った。
人生も終着駅だというのに、今日も午前を無駄にした。
毎日が僕にとってそうだった。
結果、あっという間に夜である。
「最初から作品しか見てなかったんだよ、そうじゃない読者なんて稀有だ」
頭の中だけ、溜まったままの黒いインクで書き殴るように僕は言う。
ふう、と息を吐いてから淋しそうに「どんだけ歩いて白鯨描いたと思ってんだか」と
変わらぬ調子で毒を吐く。
白鯨、とは彼女が今まさに連載を続けてきた物語のことで、打ち切るとなった途端、その読者は“結末を教えてくれ”と口々に言った。
その日から、彼女はずっとこうである。
伸び悩んでいたから打ち切りになった訳でも、“これ以上、もう書けないから。”という訳ではない。
今夜、2人で死ぬんだから。
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