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☆☆彡.。
(昨夜は夢のような出来事だったな――)
注文を受けたジュースを作りながら、昨日のことをつい思い出してしまう。
ふたりきりで過ごすことのできた、最初で最後の夜――好きよと言われただけじゃなく、キスをされて求められた。彼女の口から好きと言われるだけで、僕の理性が蕩けていき、マリカ様がほしくて堪らなくなった。
あのとき雷が鳴らなかったら、最後までシていたかもしれない。
「タイミングよく、雷が鳴ってくれてよかったんだ……」
本来なら僕のようなジュース売りが、気安く触れていい相手じゃない。しかも彼女には結婚相手がいるのに、これ以上の好意を絶対に抱いてはダメだ。それがわかっていても、鼓膜に残っているマリカ様の声が、僕の胸を熱くする。
それを打ち消すように、ひたすらジュースを作り続けた。今日にいたっては、いつもよりお客の入りが多かったので、それが仕事に集中するキッカケとなり、とても助かった。
オーダーを受けてジュースを作り、接客するというループを続けているうちに、閉店時間が近づいた。暗くなってきたこともあり、お客もいないので、もう店じまいしようかと【clause】の札を手にしたら、見慣れたお客がこのタイミングで顔を出した。
「あ、いらっしゃいませ……」
それは、マリカ様のお付の方だった。僕が手にしている閉店を知らせる札を見て、店に入りかけていた足をとめる。
「すみませんっ、もうお店を閉めるところだったんですね」
「いや、その、もうお客様がいないので閉めようかと思っていたところでして。オーダー、受けることができますよ」
慌てて背中に札を隠したら、お付の方は安心した顔で入店した。
「そうでしたか。実はテイクアウトで、レモンジュースを注文しに来たんです」
「わかりました。すぐにお作りしますね」
レモンジュースという単語で、マリカ様にお持ち帰りするのがわかり、すぐに作ろうとカウンターに入った。
「実はマリカ様が、今朝から熱が出てしまって」
お付の方のセリフを耳で捉えた瞬間、手にしたレモンを落としてしまった。
「もしかして……昨夜濡れて帰ってしまったせいで」
「それも原因のひとつだと思うんですが、ここのところお出かけが増えていて、お疲れ気味だったのも事実なんです」
「申し訳ございません。そんなことも知らずに、昨夜マリカ様を馬に乗せて連れ出してしまったから」
僕は落としたレモンをそのままに、お付の方に向かって深々と頭をさげた。
「でもそれは、マリカ様が望んだことです。実家を出てしまったら、もうそんな自由な時間はないでしょうし。ハサン様と過ごすことのできた時間は、とても楽しかったと仰ってました」
恐縮しまくりの僕を見て、お付の方は優しくほほ笑んだ。話しかけやすい雰囲気を作ってくれたことに内心感謝しつつ、気になることを口にしてみる。
「マリカ様の熱は高いのでしょうか?」
「薬をすぐに飲みましたので、午後には下がりました。レモンジュースが飲みたいとワガママを仰られるくらいに、お元気になったんですよ」
「そうですか、それはよかったです……」
あの日の夜はそこまで寒くなかったものの、小雨で体を濡らして体温を下げてしまったせいで、マリカ様に風邪を引かせてしまったことを後悔した。
落としたレモンをやっと拾いあげ、きちんと水洗いしてから、絞りやすいように包丁を入れようとした手を止める。
「あの、僕がマリカ様の住むお屋敷まで伺って、台所を少しだけお借りして、ジュースを作るのはダメでしょうか?」
「えっ?」
「搾りたてのほうが美味しいですし、栄養価も出来たてのほうがいいので、病人にはうってつけかと思いまして」
在り来りすぎることを並べ立ててしまったのは、マリカ様に逢いたかったから。自分の目で見て、大丈夫なのか直接確かめたかったのもある。
「ハサン様さえ良ければ、きっとマリカ様もお喜びになられます。でも……」
お付きの方は語尾にいくに従い、言葉を濁した。
「なんでしょうか?」
「逢ってしまったら、ますます離れがたくなるのではないかと。マリカ様も、ここにはもう行かないと仰ってました」
「くっ!」
(昨日マリカ様は僕に想いを告げて、自らの恋を終わりにしたということなのか。それでも僕は――)
「風邪を引かせてしまったお詫びもしたいのです。お願いします、連れて行っていただけませんか?」
こうして僕のワガママを聞き入れてくださったお付の方に連れられて、マリカ様の住むお屋敷に、こっそりと潜入することになったのだった。
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