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 書類に記入している時、じゃあ、俺たちは引き継ぎの手続きが済んだら引揚げる、あとは、辛いかもしれないが頑張ってと言われた。  去ってゆく救急隊長の足音を、背中で聞いた。足音が遠ざかるにつれ、込み上げてくるものがあった。  翔一は我慢できなくなり、「あ、あの、俺は」と振り返った。  救急隊長の足音が止まった。  俺は、これからどうすればいいのですか、母を突き飛ばしたことはどうなるのですか、警察には行かないとですよねと訊こうとした。が、なかなか言葉が出てこなかった。思考が堂々巡りをするだけで、立ち尽くしたまま何も話せず、時間だけが過ぎた。  救急隊長は、翔一が何も言わないことに何かを感じたらしかった。翔一の顔を見つめると「大丈夫だ。お母さんのことを看てあげられるのは、君しかいない。だからがんばれ。余計なことは考えないことだ」と頷いた。 「え」と戸惑う翔一に、隊長は再度「大丈夫だ」と言い、翔一の左肩に手を置いた。暖かい手だった。肩にのしかかっていた重荷が、すっと軽くなった気がした。  翔一は、はい、とだけ答えた。  翔一は、「じゃあ」と去って行く救急隊長の背中を見送る。訊こうと思っていたことは言い出せずに終わってしまったが、母親のことを看てやれるのは自分しかいないのだ、しっかりしなくてはならないのだ、今はそれだけを考えようと自分に言い聞かせた。
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