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成長編 ~ 無垢な少女期 ――
私は物心がついてから港南寮へ入寮するまでの約12年間、
地獄の様な環境の中にいた。
当時既に私を身ごもっていた母・静音から父を奪ってまで
和泉ナツさんが欲しかったのはナツさんの実家の跡継ぎになる男の子。
だけど、ナツさんが授かったのは母と同じ女の子・茉莉江で。
母は父を奪われた心労が祟って、私を出産後僅か1年足らずで亡くなった。
ナツさんは世間体から不承不承、
私を引き取ったけど……
『女の子はいらなかった』
『男なら可愛がったのに』
小さな頃からそう何度も何度も言われ続けてきた。
名前だって父と母が父の絢治と母の静音という名からひと文字ずつ取って
゛絢音゛ってつけてくれたけど、それだってナツさんは気に食わない様子だ。
ナツさんにはもちろん、戸籍上では姉になる茉莉花にだって優しい言葉のひとつもかけてもらった事がない。
(別にあの人たちから優しい言葉が欲しいとは思わないけどね)
でも、柾也のお母さん・温子小母さんと゛おばぁ゛と呼んでいた京都に住む継母方のおばあちゃんだけはいつも私の味方だった。
ナツさん始め、親戚の人達ほぼ全員、茉莉花にばかり優しかった。
それなのに……おばぁはもういない。
もう、5年も前に亡くなってしまった。
面倒な遺言書を残して。
遺言書は本当に簡潔なものだった。
『海外に住む三女・朝へ全ての財産を譲渡する』
日本に住む自分と姉には遺留分以外1円も残さない癖にっ!! と、
継母と伯母(愛実の母)は激怒した。
私を引き取る前から何かと口論が絶えなかったおばぁの事を、ナツさんと伯母は更に憎むようになった。
そのおばぁから、とても可愛がられていた私を、邪魔な存在&いらない子から憎しみの対象にするのはごく自然な成り行きだった。
おかげで私はおばぁが亡くなって以降、ずっと過酷な環境の中にいた。
ダイニングテーブルに私の席はない。
何日かに1度、部屋の前に薄っぺらの食パンが置かれていれば良い方で。
大抵は家族や使用人さん達が寝静まった後、残飯を漁って食べた。
ちゃんとした食事が摂とれるのは学校の給食だけ。
夏休み(Summer break)や冬休み(Winter break)長目のお休みが何より大嫌いだった。
けど、小6までは時々お父さんがお小遣いをくれたし、中学に上がってからは学校に内緒で、お父さんの会社でお手伝い(ソレって結局アルバイト)が出来る様になりちょっとまとまったお金が手に入った。
そのお金でコンビニのレジ前フードを食べている時だけが、その頃の私にとって至福のひとときだった。
でも、後に茉莉花経由でお母さんにバレて、お父さんと一緒にこっぴどく怒られ、せっかく手に入ったまとまったお金もお母さんに全部取り上げられた。
一応、保険・体育の授業での知識はあったけど。
中学の入り初潮を迎えた時 ゛何故、初潮があるのか?゛゛その対応法゛を教えてくれたのも父の会社の医務室に勤務している内科医の先生だった。
ナツさんは何も教えてくれなかった。
授業で使う文房具ですらまともに買ってもらった事はなく。
洋服はフリーマーケットや教会のバザーで買った着古し専門。
可愛くて綺麗な格好をしている茉莉花やクラスメイトが羨ましくて仕方がなかった。
今はそんな自分の身の上を憂うばかりではなく、将来は自分の力で切り拓くモノと理解し、日々それの為の努力を重ねている。
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