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「不貞の事実は無い」
昼下がり、公爵邸の庭園で開かれていた茶会の席にて。
怒気をはらんだ低音が響く。
ざわっと場の空気が揺れて、向かい合う男と男女、三人の組み合わせへと視線が集中した。
寄り添う男女に対し、いまひとりの黒髪の男は、きっぱりとした眉を怒らせ、青い瞳に苛立ちを浮かべて男女を睨み据えている。
広い肩に厚い胸板、精悍な容貌で、黒の制服に徽章をつけた堂々たる姿。軍部の要職にあるアークライト中将そのひと。
中将の怒声に対し、流行りのドレスを身にまとった妙齢の婦人はほんのりとしおれた様子で「ええ、ええ、そうよね」と呟いた。
落ち込んだ婦人の肩を、隣の男がしっかりと抱き寄せる。明らかにこの場におけるパートナーであり、実際に彼らは夫婦である。グレゴリー伯爵夫妻。
抱き寄せられたまま、伯爵夫人は「ですからね」と言った。
「不貞の事実は、今はありません。でもこれからはどうなるかわからないでしょう? あなたと私」
アークライト中将の顔に、動揺が走った。「な、何を言っているんだ?」という呟きがその口から漏れ出る。すかさず、伯爵が激高した様子で言い放った。
「貴様、よくも私の妻を誘惑したな! 騎士の風上にもおけん、泥棒が!」
「誘惑……!? 私は一切そんなことはしていない。たしかにひと月ほど前、王城で開催された夜会の場で、ハンカチを落としたのを見かけて呼び止め、手渡したことはある。それだけだ。通常業務の範囲内での、ごく普通の会話だ。それ以外に話したことも無いが……?」
言っているうちになにやら不思議な気分になってきたのか、アークライト中将は最終的に語気を弱め、代わりに疑問符をいっぱい浮かべた様子で夫妻を見た。
夫人は、「ええ、ええ。その通りよ」とまたひとしきり認めた後、どこか困った様子で眉をひそめて中将を見つめた。
「たったそれだけのことが、私の中では特別な出来事になってしまったの。最初は気の所為だと思おうとしたわ。だって私、夫のことを愛しているんですもの。だけどね、忘れようと思えば思うほどあなたのことが気になって、もう夜も眠れないくらいで。恋をしてしまったのだと、認めざるを得なかったわ。だからいま、この思いを告げているんです」
「……ええ?」
熱い思いを打ち明けられた中将はといえば、ひたすらに困惑顔。「それはどういう……」と言いかけて口をつぐむ。これ以上説明を続けてもらっても自分は理解できないかもしれない、とその顔にはハッキリと書かれていた。
一方、夫人の横でぷるぷると震えながらその告白を聞いていた伯爵は、「なんてことだッ!!」と荒々しく言い捨てて、手にしていた手袋を地面に叩きつけた。
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