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と言っても、まあ、何のおかしなことでもなく、仲の良い夫婦が一緒に寝ただけのこと。言ってみればそれだけのこと。けれど、ええ、たくさんのことがありましたとも。
夫は朝もわたくしにまとわりつき、朝食を手ずから食べさせ、甲斐甲斐しく起きたり立ったりの介助をして、最後に何故かもう一度、わたくしを体力の限界まで追いやったあげくに、ご機嫌よろしく執務に出かけたようですわ。
わたくしは、昼もとうに過ぎた時刻に侍女に起こされ、今夜のために、とあまり見たことのない栄養価の高い食物とやらを勧められました。
少し夫が恨めしくなりますけれど、おおむね、幸せ絶頂の新妻という感じではないでしょうか。
ふう……、ご相談したいと申したのはわたくしですのに、昨夜は申し訳ございませんでした。
もう、率直に申します。とても、つらいのですわ。
今体が思うように動かないことではありません。愛されすぎてつらい、などという勘違い発言でもありませんわよ。
この、順風満帆ライフ。いつ終わりがくるのかと考えてしまうのが、つらいのです。
実は、わたくし、前世があるのです。
まあ驚かれませんのね。そうですわよね、そもそも転生に詳しい方にご相談しているのですもの。
ただ、わたくしの場合、なにひとつ今世に活かされていない前世ですけれどね。
前世のわたしはどこぞの王国の姫だったのですけれど。それはもう、それはもう、波瀾万丈大波小波、何度死んだと思ったか分からないほどの荒波をくぐり抜けて、七転び八起き、最後の最後の、そのまた最後に、ようやく幸せを掴み取ったのでした。
そういえば、結婚はしなかったのかしら。男性との巡り合わせが悪かったのかしら。その辺りは一切記憶がございませんわね。
ともかく、おぎゃあ、と泣いて、あら、生まれ変わったわね、と悟った十六年前のあの日から、今世はいかなる試練が来るや、と気合を入れいたのですけれど。在ったのは穏やかで幸せでしかない日々。
いつか不幸が、どんでん返しがやってくる。
それに備えて再どんでん返しの準備をしていなければ落ち着かない。そう思っていろいろ行動をすればするほど、先見の明がある賢女、と世に評されて、よけいに良い風がびゅうびゅう吹いて、もはや幸せチートでぶっちぎり状態になってしまいましたの。
光が強ければ影も濃い。けれどあるべき影が何もないと。
灯台下暗しと申します。怖い言葉ではありませんこと?知らぬ間に足元に深い穴が空いているのではないかと、気がつけばいつも恐ろしい妄想ばかりしてしまって。
実家が没落するのではないか、父が悪事に手を染めていて、ある日露見するのではないか。
盗賊や政敵に襲われるのではないか、天変地異が起こるのではないか。
レオニードが心変わりするのではないか、親しい人が皆突然そっぽを向くのではないか。
病を得るのではないか、陥れられるのではないか、事故に遭うのではないか。
戦争が激化して国が衰退するのではないか、周辺国が同盟を組んで一挙に攻めてくるのではないか。
果ては、買った壺が呪われているのではないか、ある日死神が現れて国が死に絶える疫を撒くのではないか。
とまあ、ずっと落ち着くことができず怯えて疑って。いつもシクシクと、胃が痛んでおりましたの。
もう、疑うことにも疲れて参りました。
それに、こんなにマイナス思考に振り回される女は、レオニードに呆れられるかもしれません。暗いですもの。薄暗い!
それで、どうしたらこの転生前の人生の影を、今世の人生から払拭できるか、そうみなさまにお尋ねしたかったのです。
けれど……。
実はわたくしの不安は、レオニードには筒抜けだったようで。
昨夜、仔細は記憶が朧なのですけれど、それはもう、なんだか意地悪をされて、わたくし、ぺろっとしゃべってしまったようですの。
レオニードの答えは、変わりませんでした。
悪いことばかり考える根暗だと疎まれる様子もなく、話してくれて嬉しいと、不安を引き受けてあげると、抱き締めてくれましたの。
わたくしの胃は、かつてない安寧の訪れに、一気に沈静化いたしました。完全にストレスのせいでしたのね……。
これほどわたくしを愛してくれるレオニードとの結婚生活が始まったのです。
わたくし、決めました。
前世は前世。今世は今世。今世のこの順調ぶりを、不安がるよりも堪能すべし。と。
とても晴れやかな気持ちですわ。
ご相談をお願いしましたのに、わたくし一人で決めてしまい、申し訳ございません。
でもわたくしが決意できましたのも、みなさまにお話しする機会があってこそ。みなさま、わたくしのお話を聞いてくださって、ありがとう。わたくし、存分に今を生きますわね。
…+*+..+*+..+*+..+*+..+*+…
その後、わたくしは男の子と女の子を出産いたしました。レオニードは浮気もせず、おそらく夫婦仲睦まじい方かと思いますわ。
やがて、初代バビルニア皇帝であられたレオニードのお父様が亡くなられ、レオニードが即位し、バビルニア皇帝レオニード一世と名乗りました。
わたくしは、皇妃となりました。
ええ、あの朝から、わたくしはなるべく穏やかに、たたありがたく幸運を受け止めるよう、心がけて参りました。生臭くなりがちな帝位を継ぐ者、王家の一家でありながら、ごく普通の幸せに満ちた家庭を得て、国を導く為政者の一員として民に寄り添いながらつとめを果たし、生きている意義を感じて、精一杯真剣に人生を歩んでいるつもりです。
まあ、体調の関係などで、どうしても不安が蓄積してはち切れそうな時は、レオニードに寝室で吐き出させられてはおりましたけれど。
さて、運命の神は、そんなわたくしの怠慢を見過ごしてはくださいませんでした。
そう、怠慢です。わたくしの決定は怠慢と責められても仕方のないものだったと、今になって思うのです。
遠い東方の国から突如として襲い来た騎馬の民族が、帝国の領土を飢えた狼のごとき執拗さで攻めてきて、レオニードと、息子ビクトルが、これを迎え撃つために軍を率いて出立することになったのです。
わたくしは、かつては今か今かと待ち構えていた恐るべき不運に、なすすべもなく、ただ気が遠くなる思いでした。
なぜ! わたくしは、疲れたなどと腑抜けたことを言って、不安から目を逸らし、備えることを放棄したのか。
なぜ! わたくしは、ぬるま湯の幸せに浸りきって、そのかけがえのない無形の宝が脆く崩れやすいことを見ないようにしたのか。
打てる手は、あったはずなのに。
なぜ、なぜ、なぜ!!!
不運は、一人ぼっちではやってこない。
東方からの侵略は、前触れに過ぎない。
それを、前世の私は知っていたはずです。
…+*+..+*+..+*+..+*+..+*+…
「皇妃陛下」
火の消えたように静かな皇宮執政宮の玉座の間で、わたくしはただ、静かに座っておりました。
そのわたくしに、無遠慮に声をかけてきたのは、キルケ議員でした。
議員とは元老院の一員です。元老院は、バビルン王国時代からの世襲の組織で、王の助言機関です。助言らしきことはせず、文句ばかり言っている老害の集まりとでも言いたくなる実情ですけれど。
かつてバビルン国内の氏族の長老の総意を宣言する会から始まったものですが、今や、有名無実なのです。幾人かの議員に至っては、その肩書きを悪用して、目が届きにくい地方で犯罪まがいのことをして私腹を肥やす堕落ぶりとか。
あら、堕落している、という点では、警戒心を失っていたわたくしも同じね……。
いけません。つい、自虐してしまいます。
とにかく、キルケ議員という男は、わたくしの敵なのです。
いまだに一定数おります領土拡大派の代表と言ってもよい、戦闘民族の鑑のような壮年の男で、レオニードの穏健路線が気に食わないのでしょう。金の髪と睫毛の目立つ派手な顔立ちで、むやみに自信満々で鼻につきますが、さらに、ことあるごとにわたくしを貶めようとしてきます。
帝国内に、皇妃は慎重が過ぎて優柔不断で臆病者、という悪口が広まったのは、こいつが原因だと、わたくし、知っていますのよ。臆病者は事実ですけれど、悪口を広められるのは、腹が立ちます。
大嫌いな男です。けれど、こうして皇妃であるわたくしの静かな時間を邪魔するほどの、それなりの権力を持っております。
「夫君とご子息が戦地にて奮闘しておられる折のご心痛、お察しいたしますぞ。もしや玉座で居眠りされているのかと、見紛いましたが、ははは、まさかでしょうな」
「まあ」
いつも面倒ですので、これで済ませます。おわかりでしょうか。わたくしが毛嫌いするわけが。この無神経ぶりが。
もしかすると敢えてわたくしを怒らせたいのかもしれませんが、皇妃の反応を簡単に引き出せると思われては困ります。
「皇妃陛下は慎重なお方ですからな。慎重すぎて判断ができないと、誰もが嘆いておりますが、女性の身だ。当然のこと。私めはわかっております。ご不安でしょうとも」
「まあ」
「……なにしろ、今回は蛮族の侵攻だけではないのですから。皇妃殿下のご生家が所領、アンブロシーで、川の堤防が決壊、今年の穀物の収穫が絶望的との知らせがございます」
「まあ」
「……それに、蛮族に荒らされた土地から、流行病の兆しがあるようです。すでに複数の町が汚染されているとか」
「まあ」
「……蛮族が襲ってくるという流言が飛び交い、帝都周辺でも大変な混乱で。それに紛れて、土着の宗教の信徒がこの混乱に乗じて火を放つという噂もあり、人々は疑心暗鬼に陥っております。もしかして、すでに今、この帝都にも火が放たれているやもしれません」
「はあ」
あ、間違えましたわ。
「く……。こんな大変な時に皇妃陛下のお心を煩わせるのもと思いましたが、お耳に入れたいことがございます」
「ほう」
もう、ふた文字ならなんでもいいですわ。
キルケ議員は、なにやら忌々しそうに一人の女性を呼び寄せました。波打つ豊かな金の髪、赤い唇、ばっちりした目、豊満な体。うむむ、弾ける若さ。
「こちら、実は皇帝陛下の寵愛を受けた、エルニーニョという娘。陛下は彼女をお気に召され、山ほどの宝石をお贈りになり、それはもう、入り浸っての愛欲の日々……」
「へえ」
「さぞおつらいとお察しします。が、この非常時、悲しみに暮れるお時間を好きなだけとっていただくわけにはいかないのです。実は私めは、昔から皇妃陛下のことをお慕い申し上げておりました。私めをそばに置いてくだされば、それこそ、身を粉にして、この国難に立ち向かい、蛮族を押し戻し、あなた様をお救い申し上げてみせましょう」
返事をするにも、口が動きません。
呆れてしまいます。
わたくしは、嘆息して、すっと右手の人差し指を横に動かしました。
それだけで、キルケ議員と女性は、飛び出してきた衛兵たちに取り押さえられ、床に押さえつけられます。
「な、なに、なにをするか」
「きゃあ、私を傷つけたら、陛下がお怒りになられますわよ」
愚かしいにも程がありません? キルケが今しがた口にしたのは、皇帝陛下に成り代わろうという、簒奪の意志ですわよ。
けれども確かに、彼らに対して懇切丁寧に説明をしてやる余裕もなさそうです。
キルケの話の全てが嘘だったわけではないようで、慌ただしい気配が玉座の間に近づいてきます。執政宮には、次から次へと、恐ろしい報告をもたらす使者が集まってきているのです。
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