波瀾万丈人生に慣れた姫君は順調な今世を信じきれない

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 わたくしは、前世の教訓を、準備できるはずの時間を、活かすことができませんでした。  もはやこの身にできることは、彼らの報告を、居住まいを正して聞くことだけです。 「皇妃殿下! アンブロシーで、大河の堤防が決壊、今年の穀物の収穫が絶望的との知らせがございました!」 「その件! アンブロシーより続報あり、年二回の想定行動訓練のおかげで、農民領民は全員、速やかに高台に逃れ、無事とのことです! なお、今年の収穫は半分終わっており、収穫物は高台にありて、同じく被害を免れたとのこと! 残り半分の小麦は、品種改良を重ねて水害に強くなっているため、収穫量は8、9割の目減りにとどまるのではないかとも! 今年は豊作が見込まれていたため、国内の需要には十分対応できる量が残る見込み!」 「同じくその件! 堤防の決壊部分が不審な壊れ方をしていたこと、またこの数日領内に見慣れない男たちが出没していたことが、民間の警備団員たちから報告があがっております!」  はじめに駆け込んできた者たちは、わたくしの生家で顔馴染みの者たちでした。どの顔も泥に汚れ、そこに涙が流れて大変な有様でしたが、表情は輝くばかりです。それほどに、奇跡的な被害の少なさでした。  ひとりが、一歩前に出て、玉座の下の階に額づきました。 「すべて、皇妃陛下がお輿入れの前に、アンブロシーに根付かせた制度のおかげです。河川氾濫を想定した行動訓練も、品種改良も。また堤防の補強のおかげで浸水の速度も遅く……」 「それに、地元で兵を徴募して、警備団として兼業させることで、治安も大変良くなっております。早晩、堤防決壊の原因などはわかることでしょう。それなのに、兵たちへの支払いは抑えられるのです。その先を見るお力、まさに女神……!」  いえ、それほどのことではございませんが、結婚前の、どんでん返しを恐れてばかりだったわたくしを、少しは誉めてもいいかしら。ひとまずは、よかったですわね。  けれど、一息つく間もありませんでした。泣き伏す彼らを押し退けるようにして、緊迫した様子の官吏が前に出ました。 「皇妃陛下、恐ろしい疫病の兆しが出ております。蛮族が通ったふたつの町で、次々と人が倒れていると。もし蛮族がもたらした疫病である場合、皇帝陛下には大事をとって前線から引いていただかねば、ヘタをすると戦闘によって直接感染が広がり、兵たちが帝都に帰ってくることで、帝都の民たちが根こそぎ死滅する恐れも……」 「皇宮の医務院長です」  あら、久しぶりに顔を見ますわね。相変わらず、木で鼻をくくったような話し方です。容姿は整って、この若さで高い地位にいますのに、良い縁がないというのはこのせいでしょうね。  かつて孤児院で爪弾きにされていたこの子を、優秀な分、周りと理解をすり合わせるのが苦痛で仕方ないだけだろうと、引き取って、なるべく良い環境に置いてやったつもりですけれど。思ったより変わっていないかもしれませんわね。  けれど、抜きん出た才能は、存分に開花させているようです。問題児だった戦争孤児の少年が、いまや帝国で最も地位の高い医師ですのよ。月日と才能が恐ろしいですわ。 「伝染病発生時のために配備されていた早馬便で、すでに二日前に検体が届いております。先ほど解析結果が出て、どちらの町でも、毒が原因だと判明しました。井戸に投げ込むか、川に流したか、手段は不明ですが、すでに現地に捜査員を送っております。  検体を持ってきた男が町の診療所の記録も持って来ましたが、そこに、蛮族が来る前から町では人が倒れ始め、蛮族たちはそんな町の様子を見るや、怒りながら去っていったという記録がございました。  門外漢の推測ではなりますが。今回の蛮族の侵攻、彼らを駆り立てたものが、彼らの土地でだれかが毒を撒いたのだとしたら。それに追われ、逃げるように攻めてきたのだとしたら。攻めてきたこの土地で、またも同じ毒で死に絶えた町を見て、恐慌状態で闇雲に進軍しているのだとしたら。  証拠はまだ一つしかありませんが。——毒の成分は、この国の反対端にある高原にしかない希少な植物の根なのです。少なくとも、蛮族が調合したり入手できるものではありません」  さすがですわね……。  いくつもの謎の答えをひとつの台詞に詰め込んでしまって、周囲の人間は飲み込めていませんが。それでもすぐに話は通って、調査が進めば裏付けも取れるでしょうね。 「皇妃陛下! 火、火が! 帝都に!」  大声で叫びながら駆け込んできた若い兵が、後ろから蹴り飛ばされました。大丈夫でしょうか。蹴り飛ばした壮年の兵が、失礼しました!と敬礼をくれます。 「何人かが組織的に放火をしたという目撃情報が入っており、実行犯は取り押さえましたが、裏を探って引き続き捕り物中です! 火、そのものは、すぐに鎮火されました!」 「一部は燃えたんですよ! 我々の誇る帝都が!  ですが、帝都に相応しい都にするためと、路を広くとっていたこと、家と家との間を広く取っていたことにより、放火されたすべての場所で大火になるのを未然に防ぐことができております! また、避難や消火の際には、住民に義務付けられている大火想定の行動訓練が活きました!  怪我をした者、家が燃えてしまった者たちは、今、カトレ教の大聖堂や教会をはじめ、アスター教、ゾロン教の教会と、あと、精霊神殿が信徒に限らず門戸を開いて受け入れており、そちらで、仮の住まいと食事の提供をうけております! 各地区の公営施療院からの派遣医師も、各所に滞りなく配備され、診断治療も始まっております!」  なんてことでしょう。この子も戦争孤児だったことを、覚えております。その日の暮らしに困り、隙あらば仲間や隣人をも襲おうとぎらついた目をしていた子が、兵として、こんなに立派な報告ができるようになるなんて。  それに、宗教宥和の方策をとったことで、土着宗派の皆さんも歩み寄りをしてくださっているのですね。カトレ教も、昨今は権威主義の法衣を脱ぎ捨て、民に親しまれることを考え始めているようです。  わたくしは、感動を味わうためにしばし胸に手を当てて目を瞑っていましたが、なんとか、ひとつ、ふたつと頷いてみせました。 「素晴らしいわ。緊急時に、あらかじめ想定していた動きができること。その体制。そして、期待のもう一歩先の成果を出してくれる、優秀な人たち。ええ、あなたたち皆、この国の宝です」  玉座の間に駆け込んできていた皆が、大きな声で歓びました。  レオニードとビクトルにもこの声を届けてあげたいと、そう切に願いましたのよ。 「ちょっとー、私は解放してよ。愛人を虐めたら、旦那に愛想つかされちゃうわよ、お、ば、さ、ん」  発言に驚いて見ると、そういえば、拘束していた二人が床に忘れ去られています。今のはまさか、わたくしへの呼びかけだったのでしょうか。よく聞き取れませんでしたが。  キルケ議員は口をぱくぱくとしていますが、何も言えないようです。でもこの女性は、やたらと元気そうですね。そうでした。この方の問題が残っているのですね。こればかりは、優秀な臣下に任せるわけには参りません。 「財務大臣」 「はい」  わたくしは、わたくしの仕事上の相棒とも言える男性を呼び寄せました。 「この一年、いえ、半年の間の、陛下の帳簿を」 「はい」  間をおかずに手渡されたということは、この騒ぎの間に彼は予見して用意していたのでしょう。さすがです。  手渡された数枚の紙をパラパラとめくって、わたくしははあ、とため息をつきました。 「どこにも、あなたに貢いだ形跡は認められませんわね」 「そ、そんなパラパラめくって何がわかるのよ」 「あら、帳簿というものは、出納帳だけではありませんのよ。今は、ざっと貸借対照表と損益計算書を見たのです。見慣れてくると、おかしな数字はなんとなくわかるようになりますの。でも、おかしな点はなし。おかしな誤魔化しもなし。  よって、わたくしの把握しない陛下の支出はないのですわ」  キルケ議員が、復活してきたのか、鼻で笑います。 「皇妃陛下もお人が悪い。そのように見たフリで騙そうとは」 「騙すつもりはありませんけれど」  見たフリなのは確かなので、そこは否定いたしませんが。  侵攻の知らせが来る前の先月がバビルン王家の決算月で、それはもう、死ぬほど確認した代物ですので、今更確認する必要もありませんもの。こういうものが存在するぞ、と誇示したまでですわ。 「お金だけでなく、資産として、皇宮の廊下の鏡ひとつ漏れのないように、管理されていますもの。先の王宮ではたびたび物が紛失しておりましたけれど、皇宮に移動してからは、都度、紛失の原因割り出しができております。残念ながら何名か窃盗罪で裁かれておりますわ。  陛下であっても、陛下の身の回りのお品さえ、勝手に持ち出して換金などできませんわよ。  それに、陛下のお買い物は、事前の申請か、事後の請求か、どちらもわたくし宛に来ますもの。陛下は現金はお持ちではないし。ですのでそう度々、贈り物をご用意できるはずがございませんわ」 「なんと、陛下には陛下の予算がおありでしょうに……」 「予算の全てでわたくしに宝飾品を買ってくださるので、管理権を取り上げました。陛下の公的な生活に必要なものは、全て別予算でご用意いたしておりますから、あまり使い所もなかったとかで。余らせてはいけないというプレッシャーから解放されたと、お喜びでしたわよ」  わたくしの、唯一の趣味が、この会計管理なのです。すでに世に複式簿記はあったけれど国の財政には活用されていなかったので、これだけは、皇太子妃となってから嬉々として導入いたしました。  財務大臣は、初めは私が鍛えていたのですけれど、いつの間にかわたくしよりもスマートに書類を作り処理をし、バビルン王家だけでなく帝国の各直轄地の連結会計もやすやすとこなします。悔しくはないです。ただの趣味ですから。  ともかく、女性は黙りました。王様、財布握られてんのかよ。という言葉に何故か哀れみが込められていたようですが、本当に、レオニードは喜んでいたのですけれどね。 「時にキルケ議員。なぜ、執政宮への伝令より先に、すべての事件について、あなたはご存知だったのかしら。しかも、不思議なことに、国の対応についてはまるで知らずにここへいらしたようね。……まるで、あらかじめそんな事件が起こるということだけ、知っていた、みたいに」  言い逃れる方法を探すように唸っていたキルケでしたが、やがて、伏せた顔から上目遣いに私を見てきました。 「私めも、いろいろとツテがございますのでね。賢明な皇妃陛下ならお分かりでしょう。情報が集まるのは、私めに人望があり、頼りにされることが多く、期待もかけられている証左でございます。ただ、無念なのは、もたらされた情報の精査が足りませんでした。これは全く、私の不手際でございます。反省をいたしまして、しばらく謹慎をいたします。ええ、私めのご処分については、どうぞ陛下がお戻りののちに、ご相談ください……」 「毒杯を与えましょう」  きょとん、とキルケは目を丸くしてわたくしを見ました。  聞こえなかったのでしょうか? 仕方ありませんわね。 「毒杯をお前に与えましょう」  わたくしはもう一度、はっきりと言いましたわ。  キルケは、わたくしを本気で、慎重が過ぎて優柔不断だと思っていたのでしょう。ですが、あれほどはっきりと簒奪の意図を見せておいて、このままわたくしが見過ごすと思ったのでしょうか。今後の不安の芽となる者を。 「さ、裁判を! 裁判をしてください」  キルケは騒ぎ立てました。  裁判ですか。一応、申し立てはできることになって……いますわね。扉付近に立っていた法務長官がうなずいています。まあ、わたくしが今、皇帝の留守に全権を委任された皇妃として死罪を決めれば、そのまま認められるでしょうが。  わたくしは、その特例を使わないことにしました。  実は、レオニードは法典の編纂を進めていたのです。元老院の力も、この際削ぎ落とすおつもりです。法典が実施されれば、すべての帝国民が法に従うことになります。それを睨んで今肝要なのは、皇妃自ら遵法の姿勢を示しておくことでしょう。  ただ、キルケはおそらく後悔すると思いますわ。  確かに裁判のためには皇帝の帰還を待つ必要があります。皇帝の身に何かあれば皇妃であるわたくしか、無事であれば皇太子であるビクトルが代行しますけれど、それもまた、膨大な諸手続きの後となるでしょう。その間、キルケは生き延びます。それが今のキルケの望むところなのでしょう。  けれど、もし、レオニードが帰ってきて、キルケのしでかしたことを知ったなら。  おそらく、毒杯の方がやさしいと思うのですけれど。まあ、瑣末なことです。 「みな、支えてくれて、感謝します。陛下の無事のお帰りまで、引き続きよろしく頼みます」  わたくしはそう言って、ゆったりと玉座に腰掛け直します。  やるべきことがたくさんあっても、わたくしよりも優れた適任の者たちがこうして大勢いて、真剣に取り組んでくれているのです。わたくしにできることは、ここにこうやって、鷹揚に座っているだけ。それだけのようです。  よいことですわ。よいことです。  わたくしって、ちっぽけなんですわ。  今回しみじみと、そう感じました。  前世があろうと、なかろうと、できることはとても少ない。特にわたくし、特に趣味以外の特技はありませんもの。結婚前のように、ひとりで怖がって何とかしようと足掻くのを続けていても、きっと今回の事態には対抗できませんでしたわ。  わたくしの人生、波瀾万丈も順風満帆も、わたくしがどうこうしようとして成るものではないのですわ。
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