波瀾万丈人生に慣れた姫君は順調な今世を信じきれない

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 やがて静かに耐える日々は終わりを告げ。  夫と息子は、無事に帰ってきてくれました。  レオニードは怪我もなく。ただ過酷な行軍だった証拠に、日に焼けて、お腹と背中がスッキリして、少し筋肉で体が大きくなったでしょうか。何故か、以前よりも元気そうです。  ビクトルは、驚くほど背が伸び、また表情に自信と余裕が見えるようになっていました。 「お帰りなさいませ。ご無事のお戻り、なによりです」  ビクトルは、わたくしをわずかに見下ろして、この時ばかりは小さな子供のように、にかっと満開に笑ってくれました。けれどすぐさま慌ただしくどこかへ行ってしまいましたわ。成長するということは、寂しいものですわね……。 「ただいま、カチェ。抱きしめていいかい?」  尋ねてくださるのはいいのですが、大抵すでに抱きしめられているので、意味がありません。レオニードは、変わらなくて、変わらないことが、嬉しくてたまりませんでした。  わたくしを抱きしめたまま離さないレオニードから、小姓たちが手際よく甲冑を外していきます。その様子が、本当に戦争が終わったのだと実感させるもので、わたくしの目から涙がこぼれ落ちました。夫と息子を見送るとなってから、初めての涙でした。  レオニードの初陣を見送った時とは違って、よく我慢しましたわ。  わたくし、がんばりましたわよね。何も、役には立たなかったけれど。 「ああ、カチェ。最愛の伴侶。尊敬すべき賢い人。ありがとう。すべて、君のおかげだ」  レオニードが何か言っています。 「ヌルグの者たちは——ああ蛮族と呼んでいた彼らだけどね——ヌルグの土地で恐ろしい病が流行って、救いを求めてこの国に集団で移動してきたらしい。けれど国に入ってみれば、すでに病の広がる町が点在していた。食べるものも飲むものも尽き、つい、奥深くまで入って食べ物を奪ってしまったそうだ。それから、攻撃されれば反撃するの繰り返しで、彼らも途方に暮れていたようだった」  報告は受けていることですが、レオニードの口から聞けることが嬉しくて、じっと耳を傾けます。  レオニードは一度わたくしから体を離して、胸甲を外し、鎖帷子を脱ぎました。  季節はすでに秋ですが、面積の多い鎧を身につけていては暑かったのでしょう。かいた汗が急に冷えたのかぶるっと震えた体を、小姓が素早く布で拭いて、チュニックを着せようとしてくれましたが、レオニードはそれを止めて、下がらせました。  それから、レオニードはまたわたくしを腕の中に閉じ込めました。  ぴったりとくっついて、レオニードの匂いがわたくしを包みます。 「医務局長が派遣した調査員が、現地の警備兵たちと協力して、そういった事情を調べ、前線の僕のところまで知らせてくれたんだ。現地採用の警備兵たちの中には、ヌルグの言葉を解するものもいてね。なんとかかんとか、互いに意思疎通を図り、彼らの病に効くと言って解毒剤を与え、安心させて、地元に帰らせることに成功したんだ。  交渉の勝利、無血の勝利、なんでもよい。すべて、カチェを讃える言葉だ」  わたくしは、戸惑ってしまいました。  戦争の被害が少ないうちに、穏便に終結したと聞いて居ましたが、いつかの玉座の間でのことのように、全ては国の備えです。わたくしは、本当に、自分の手を動かすことをやめてしまっていて、なんにもできていなかったのです。  国の体制を、人材を、あそこまで構築し育てたのは、レオニードです。愚かな自分に絶望して、ただ彼の代わりに玉座を温めていただけのわたくしを守ってくれたのも、レオニードですのに。  おかしな方です。 「調査員が来るまで我々が持ち堪えられたのも、カチェのおかげだ。内政の経済的負担の軽減を第一の理由にしていたけれど、属州を独立させるだけでなく、かつてのように国として成り立つように支援をしただろう。その国々から、どんどんと援軍が来た。我らの軍は、かつて父王が無理に徴兵していたころの二倍まで膨れ上がったほどだ。  あと、辺境で地の利を生かした国境防衛のために、城壁建造を進めていたこと、あれも効果が大きかった。カチェ、カチェ、君は素晴らしい」  待って待って。 「それはすべて、レオニードの政策ですわ。わたくしではありません」 「いや、君だよ。だってすべて、君が不安だと零したことを解決したくてやったことなのだから。なにより、君が誇るべきは、その人脈じゃないか? あらゆる分野に、これほど優れた人材が揃っている。そんな奇跡のような時代は、君が作った」  確かに、孤児院からスカウトしたり、属州からもスカウトしたり、あまり身分にこだわらず、やりたいこと優れていることをさせてやろうとしました。今世の出会いを、少しでも大事にしたくて。 「けれど、わたくしは本当に最初の支援だけで。みな、いつの間にか自力でやっていくようになって。そう思うと、それだけの人材が偶然揃ったのは、奇跡のようなことでしたわね」  ははは、とレオニードが笑いながら、寝台にわたくしごと座りました。 「カチェは夢中になると僕を放っておくからな。ある程度のところで、僕が彼らのその後の道を代わりに支援したが、どの子も驚くほど優秀だ。筆頭は、医務局長かな。いやここは、ビクトルと言っておかないと、あいつが拗ねるか」  そうだったのですね。存じませんでした。でもそうすると、人材育成もレオニードの成果です。  それより、やはりレオニードが大きくなっているようです。わたくしがすっぽりと囲われてしまうなんて。 「すこし、痩せたな。苦労をかけた」  大きな手が、わたくしの細い肩を撫でさすります。  そういえば、少しあちこち細ってしまったかもしれませんわね。  でも、きっとわたくしは、また元に戻りますわ。幸せ太りというでしょう? 夫と子供と一緒に食事を取れるなら、きっとなんでも美味しくいただけます。 「キルケのことも聞いた。あいつ、カチェに自分を側におけと言ったのだって? 百回殺したい。それに、愛人を仕立て上げたと聞いた。まさか、少し、気持ちが揺らいだり」 「しません」  どちらのことかわかりませんが、素早く否定しておきます。 「わたくし、レオニードが今更他の女性に目移りするなんて、想像できませんのよ。レオニードが、これまでの結婚生活で、わたくしに刻んでくれたことです。結婚以来一度も、その点について不安になったことはありません」 「ああ、カチェ。その通りだ。信じてくれて、嬉しい」  レオニードの黒瑪瑙の目が、うっすらと涙の膜に覆われて、わたくしは胸を突かれました。  わたくしは、きっと不安がることで、このひとをも不安にしていたのかもしれません。  そう思って、申し訳なく、でも、その深い心の繋がりに、えも言われぬ安らぎを味わいました。  もし今後、力及ばず敵の手が間近に迫る時が来るとしても。わたくしは逃げることを最善と考えないかもしれません。ええ、あれほど、人生の落とし穴に恐れをなしていたというのに、です。  なぜなら、死それ自体は、私の不安ではないと気づきましたから。  死に価値を見出すわけではありません。  死までの生に価値を置こうと思います。  その時間が長くとも短くとも、生きている間は、レオニードの隣に立って、胸を張りたい。  レオニードの隣で、揃いの帝衣を纏い、誇りを持って死すならば、数年の命を繋ぐよりいいと考えることもあるでしょう。もしかしてのお話です。 「今はほかに、何か不安なことはあるか?」  あやすようにわたくしを抱き込んでゆらゆらと揺らしながら、レオニードはやさしく問いかけてくれます。結婚してから、幾度繰り返したかわからない、二人きりの不安相談ですのよ。もう、五ヶ月ぶりになりますのね。  やさしいやさしい声。わたくしの全てを慰めてくれる温もり。  わたくしにとって、これほど安心できる場所など、ありません。  いつもであれば、ありませんわ、と即座に答えたでしょう。  それでも、わたくしは敢えて真剣に考えました。もう、二度と後悔したくはありませんから。でも今夜ばかりは、何も思いつきませんわね。  仕方がありませんので、ひとつ、もう結婚以来ずっと気になっていたことを。 「娘も、結婚式にわたくしの着た拷問のようなドレスを着るのかと、不安ですわ」  レオニードは笑ってくれると思ったのですが、意外と苦い顔をしております。おや、と思ったのですけれど。 「さっき覗いたら、眠っていて抱き上げることもできなかった。まだ結婚など考えたくもない」  娘は2歳になって、夜はよく眠るようになりましたもの。  本当に嫌そうにいうので、わたくしはおかしくて、幸せで、笑ってしまいました。  わたくしより先に会いに行く女性がいるなんて。と、そんなどんでん返しを想像したこともありましたけれど。こんなに愛すべきライバルでしたら、しかたないですわ。  あら、でもいずれは、お父様と結婚する、とか言い出すのかしら。それは、強敵では?  不安なことが、こんな幸せなものばかりなら良いのに。  やっぱり人生、何事もないのが一番ですもの。  この人生の行く先が幸せかは定かでなくとも、幸せはすでにわたくしの足元に咲いているようです。  みなさまの足元にも、そして願わくばその進む道の先にも、幸あらんことを!  いつかどこかの来世で、またお会いいたしましょうね。
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