波瀾万丈人生に慣れた姫君は順調な今世を信じきれない

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波瀾万丈人生に慣れた姫君は順調な今世を信じきれない

 カチェリーナは、階を一番上まで登ったところで、促されて、静かに後ろを振り返った。  光を溶かし込んだ緑柱石のような目に、よく晴れた空と、凪いだ海が遠く映った。折り重なって広がる農園、灰色がかった木々の森、遠くの小高い丘には山羊の群れ、そして景色を斜めに横切る、白銀に煌めく河の流れ。  最も空高く聳える建物は、遷都したばかりの帝都の中心、皇宮内の執政宮に備え付けられた鐘楼だ。その周囲には未だ建築途中の建造物が目立つが、その周囲を取り囲む、居住区や商業区には人が溢れ、すでに朝から祝いの旗があちこちに揚がっていた。  帝都から、河の流れがもう一本増えたような煌めく道がこちらへと伸び、階の下まで続いている。今日のために、砕いて磨いた水晶を撒いたのだと聞いた。  沿道には、着飾って花を抱えた大勢の民。来る道でも警備の兵たちを押し退ける勢いで、大声で祝ってくれた。帝都から今も人の波がこちらへと向かっているのが見えるのは、これから行われる式の後、カチェリーナたちが帝都へ戻るのを見守るためだろう。 「見える限りすべての土地と海、そして人が、帝国だ。君が将来私と共に背負ってくれる国だ」  カチェリーナは、隣に立つ男の言葉に華奢な体を震わせた。 「怖い?」 「はい、少し」 「心配いらない、二人なら。それに私の力の及ぶ限り、君の不安を取り除くと約束しよう」  真摯な言葉だ。  カチェリーナは、そっと頷いて、隣を見上げた。彼の言葉が心からのものだと知っている。彼がその言葉にふさわしい力を持つことも。  けれど。  今見下ろしている帝都から、もし煙が立ち上り、炎が渦巻いたなら。  海に黒点が現れ、見る間に軍船の群れとなって襲撃してきたなら。  私の方が皇太子妃に相応しい、と叫ぶ女に今突き飛ばされたら。  ……そんなありとあらゆる荒唐無稽な負の妄想を抱える女だとわかって、捨てられたら。  この記念すべき祝いの日にまで、カチェリーナの胃は重たく鈍い熱を持った。  けれどすぐさま、痛みを意識から切り離し、笑顔を浮かべる。結婚の日にふさわしい、とっておきの笑顔だ。  一度だけ、きゅっと手を握られた。  それから、隣で男が手を挙げた。階の下に押し寄せた人々が、わあ、と歓声を上げた。 …+*+..+*+..+*+..+*+..+*+…  あのう、失礼いたします。みなさんごきげんよう。  わたくし、カチェリーナと申します。  突然申し訳ないのですけれど、転生、というものに造詣の深いと聞くみなさまに、ご相談したいことがあるのです。  まだ今ならこの部屋にわたくしひとり。誰も聞く者はおりません。今のうちに、どうか、お知恵を拝借させてくださいませ。  そうですわね。まずは、わたくしのことを少しお話ししたほうがいいですわね。  名は、申し上げましたわね。カチェリーナと申します。  髪は栗色でありきたりですが、目は緑柱石のようだと誉めていただくことがあります。お顔の造作はあまり考えたことがないけれど、醜くはないのではないかしら。同世代の方より少し細身なことは少し気にしております。母や祖母を見る限り、まだ成長は期待できますわ。  わたくしの住むのはバビルンという国です。  領土拡大の意欲が振り切れた好戦的な(ちょっとやばい)為政者が多く、血生臭い歴史を繰り返してきた国ですのよ。特に先代の王は、膨大な戦費をかけて西へ東へと遠征を重ね、数ある国を滅ぼして軒並み属州とし、一大帝国を打ち立てて、その初代皇帝を名乗られました。  二年ほど前のことですわ。  いやなものです、戦争って。守るためならまだしも、どうして外へ戦争をしにいくのでしょう。男のかたにとっては、出世の糸口なのでしょうけれど。  命と、お金がかかるのですよ。  けれど幸いと言っていいものか、もともと穀物の実り豊かな土地が多い恵まれた国ですから、戦いに赴くことのない民は、どばどばと出ていく戦費に気がつかぬまま、かろうじて日々生き延びることはできておりました。外征が終わっても、属州の統治には莫大な費用がかかるのですけれど。  わたくしが産まれたウェッテ家も、国内で有数の穀倉地帯を所領のひとつとして持ち、その土地アンブロシーを治める爵位を名乗っております。今の当主は父ですわ。ですからわたくしは、伯爵令嬢、いえ、正式に名乗るのであれば、アンブロシー伯爵ウェッテ卿の息女、だったのです。  ええ、だったのです。  今日、結婚して、カチェリーナ・バビルンになりましたの。  そのとおり、夫は、王族です。あ、今は帝室と言うべきかしら。でも、帝王の地位をバビルン王家の者が今後も継ぐかどうかわかりませんものね。バビルン王家、と言っておきましょう。バビルン王家の者は、国の名を名乗るのです。  夫はバビルン王家の直系嫡子で、レオニード・バビルンとおっしゃいます。バビルンが帝国となった際に、お世継ぎとして指名を受けられましたので、皇太子でいらっしゃいますわ。  あれは何度思い出しても素晴らしい皇太子任命式でした。バビルン王家の男子は黒髪が多く出るのですが、レオニードも少しうねりのある黒髪に黒瑪瑙(オニキス)の目をしております。典礼用の黄金の鎧と深い赤のマントは、精悍で凛々しい彼の魅力を大いに高め、最後の戦いで初陣を済ませたばかりの皇太子に、若き獅子の如き威厳を与えておりました。  二年経ち、今や彼は名実ともに帝国軍部を統括し、下手をすれば皇帝陛下を凌ぐ権力をお持ちの皇太子殿下となられました。  わたくしは、今日、彼の妻となり、皇太子妃になったわけです。  レオニードとは幼い時から交流があり、子どもらしく文通や、身内の絵画鑑賞の会や音楽会などで交流を深め、年頃になってからは贈り物を手渡しし合ったり、互いの衣装を見立て合ったり、野外観劇に出かけたり、お互いにお互いしか見えない状態で、そのまま結婚まで、順風満帆に参りましたの。  もちろん、喧嘩らしきものもいたしましたけれど。  なんとなくわかるのです。お互いに相手を一番に思っている、と。ですので、喧嘩も長くて数日。可愛らしくも初々しい恋の、素敵なスパイスとなりました。  裕福で愛に満ちた家庭で育ち、相思相愛の婚約者とお互いを慈しみ合い、戦争ばかりしていた国も帝国となった機に内政へと重心を移しつつあり、わたくしの幸福は、翳りを帯びる気配すらなく。  今日の結婚式も、それはもう、帝国の威信をかけた素晴らしいものでした。  式典は、帝都から丘を登ったところに新たに建てられた、カトレ教の大聖堂で行われました。バビルン王家は信徒ではありませんが、バビルンは国教としてカトレ教を保護しておりますので、大聖堂で結婚式を行うのが伝統なのです。  大聖堂は、巨大なドームとアーチの多用が特徴的でしたわ。さらに今日は、堂内に蜜蝋燭を贅沢に並べて、天井や壁の金地の象嵌装飾の細部まで明るく照らし出されており、どこを見ても綺羅綺羅しいばかり。さらにはその光を法衣が集めて照り返すので、司祭たちが文字通り一番輝いていましたわ。目が潰れそうでしたが、おかげで、結婚証明書に指輪の印章を捺す時に困りませんでした。  笑顔を浮かべるふりをして、目を細めて眩しさをやり過ごす技を教えてくれたのは、レオニードです。皇太子夫妻が満面の笑顔だったと、列席者にたいへん好評価だったようですわ。よかったですわね。  結婚式の後は、六頭引きの黄金の馬車で、大聖堂のある丘から帝都へ、そして帝都の中をぐるぐると、二時間かけてお披露目に練り歩いたのです。そこで、大聖堂には入れなかった者たちからも、直接言祝ぎを受けることができましたのよ。  国民も、家臣たちも、皆が笑顔で祝福をくれました。意外に思われる方も多いかもしれませんが、レオニードは穏健思考ですのでね。彼がわたくしの実家を通して豊かな穀倉地帯を押さえ、地位を盤石にできれば、今後数十年の穏やかな治世が約束されるのです。  これまで戦争戦争で息をつく間もなくて、さすがの戦闘民族も少し疲れているというだけかもしれませんが。それでもわたくしたちの結婚に、この国の豊かな未来がかかるものと、責任を感じずにはおられません。  皇帝陛下は、次はどこぞを攻めようと、時折思いついたようにおっしゃるようですが。このところ、起きていらしても夢の中のご様子ですので、実現することはないでしょう。  青空の厳しい日差しの中、鎧かと錯覚するほどに重量のある総刺繍総キルトのドレスで手を振る。軽い拷問です。けれど、伝統とあらば、勝手に拒否するわけにもいきません。大汗をかきながらも、やり遂げました。振り返れば、命の瀬戸際だったかもしれません。  あの汗まみれの衣装は、次はどなたが着るのでしょうね……。  こほん。  ええ、わかっております。かなり余談でしたわ。  許してくださいませ。それだけ順調、むしろ快調に人生を送ってきたわたくしも、少し緊張をしているのです。  なにしろ、今いる部屋は、皇太子宮で最も高貴な寝室です。  あ、バビルン王家が帝国を建て、その帝国名をバビルニア帝国としたのは申し上げましたかしら。それに伴い、遷都も計画されまして。ともかく、まず新たな宮殿が必要だと、それはもう急いで建造を進めたのです。執政宮と本宮が完成して一年前に遷都いたしました。その半年後に皇太子宮も完成しましたが、他の宮はまだ土台段階ですの。  ええと、なんでしたっけ。  そう、寝室……。  お察しの通り、わたくしとレオニードは、恋にとっぷりと浸り、ふたりで同じ甘い蜜を楽しみながらも、そういう関係には至っていないのです。  レオニードがあまりに手を出さないので、両親にまで心配されたりして、ちょっとあれは、勘弁してほしい口出しですわね。  口づけはしましたわ。  でも、あとは軽い触れ合いです。手を握ったり、頬を撫でたり、耳に触れたり。鼻を齧ったり、うなじを噛んだり、二の腕を吸われたり、そのくらいです。  ……普通なのですよね? レオニードがそう言って……。そ、そうですわよね。よかったですわ。  でも、ご相談したいのは、そのことではないのです。  実は……。 「カチェ」 「きゃあっ」  いつの間にか寝室に入ってきていたらしいレオニードが、つむじにむかって呼び掛けてきました。  驚きます。ひゅっと身を細くして振り仰ぐと、レオニードはその精悍な頬を緩め、とろけるような笑みを浮かべました。  その、その、ぱっと見たところはベリーのような爽やかな甘い表情なのに、なんとなく、色だけ似たレアステーキの肉汁のような気配がするのは、何故でしょう。 「カチェ、緊張してるね」 「ふ、ふへ」  緊張、というか、これって恐怖に近いのではないかしら。  レオニードがわたくしを呼ぶ時、カとチェの間に、ほんの少し、間があくのです。その呼び方を聞くと、いつも体の力が抜けてしまうのですけれど、今日はむしろ、震えてますもの、わたくし。  ああ、やっぱり怖い気がします。未だかつて、レオニードに対して抱いたことのない気持ち。心臓が破れそう。というか、心臓を食いちぎられそう。でも、おかしなことに、わたくし、逃げる気にはならないのです。  これ、レオニードが穏健派のふりをして、根っこのところは戦闘民族だったということでしょうか。あまり想像はできませんけれど、レオニードは正真正銘戦士でもあるのですから。  でも初陣のころは、わたくしより背が低くて、心配で心配で、わたくし見送りで泣いてしまって。今でも、歴戦の軍人の皆様に比べると細く見えるのですもの。未婚の娘は模擬戦など見学できませんので、とてもお強いという噂も、実は半信半疑なのです。  ……え、ええ? えええ??  こ、これはレオニードなのですわよね。腕も肩も胸も、筋肉で覆われていて、わたくしの何倍もあるように思うのですけれど。確かにお会いする時は長衣が多かったですけれど。でもおかしいですわ。思わず押し返した肩が、固くて、熱い。え、中に何か入ってません? 入ってますわよね。肩だけではなくて、腕にも、ほら、胸にも。 「そのまましばらく、混乱していていいよ。僕も余裕がないからね」  すきだよあいしてる、と夫になった人は言って、わたくしはそのまま、嵐に巻き込まれたのでした。
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