一章 背中の女(1/14)

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一章 背中の女(1/14)

 雪菜はいつも何の相談もせずに決めてしまう。  そのことが常に気に入らなかった。  大事なことでも、俺の協力が欠かせないことでも、自分一人で話を進めていって、行動に移す直前とか、新しく何かが始まる直前になって俺に話を持ってくる。  そして俺に拒否権はない。  口では嫌と言ったところで、いつもなんやかんやと彼女の言うことを聞く羽目になる。  そして、その日も。  俺は差し出された財布を意味も分からず受け取った。  革の馴染んだピンク色の長財布で、中央の留め具はリボンの形をしていた。  女物の財布で、俺の物ではないことは確かだった。  単刀直入は結構だが、今回はいくら何でも突然過ぎだ。  家のチャイムが鳴ってからまだ一分も経っていない。  俺は玄関を開けたところで左手はまだドアノブを掴んでいたし、右足はスリッパを求めてたたきを彷徨っていた。  雪菜は挨拶もなしにいきなり財布を渡してきて、咄嗟に受け取ってしまった俺は説明を求めて、手元の財布と彼女の顔を交互に見た。  癖のないさらさらの髪の毛を短く切り揃え、すき気味の前髪からはつるりとしたデコを覗かせている。目が大きく、鼻筋がすっと通っているため、それだけ髪を短くしても子どもっぽさは微塵も感じられない。  ティーシャツにジーンズという格好が洗練されて見えるのだから美人は得だ。 俺はそんなことを考えながら説明を待った。 「よろしく!!」  彼女はそれだけ言うと、背を向けて歩き出す。 「ちょっと、ちょっと!!」  俺はすぐさま彼女の腕を掴んだ。 「何? バイトに遅れそうなんだケド……」  二重幅の大きな目が俺を見据える。まるで俺がおかしなことをして、雪菜の手を煩わせているかのような態度だった。 「いや、急に財布渡されても困るんだが、なんだこれ?」 「それ、あたしの財布」 「くれるのか?」 「あげるわけないじゃん。預かってて」 「なんで?」 「なんでって、今朝言ったじゃん。昨日、バイト先の控室に“背中の女”が入ってきたんだって。うちのバイト先ってほら、控室の鍵開いてるじゃん?」 「まあ、何となく想像は付くけど」  俺はここからすぐ近くにあるラーメン屋を思い浮かべた。マンションの一階部分がラーメン屋なのだが、店内は狭く、駐車場の横にある控室に入るため一度外に出なくてはいけない。 「分かるじゃん? “背中の女”が控室の鍵が開いてるって知ってるんだよ? 財布なんか置いとけないじゃん」 「財布だけで済めば良いいけどな、まだ捕まってないんだろ?」  俺は財布を玄関の靴箱の上に置いた。 「捕まったらニュースになるでしょ。バイトが終わるまで預かってて」  雪菜はそう言うと、ついでとばかりに俺にスマホを握らせた。  帰りに取りに来るつもりだろうが、何でも預かると思っていることも、スマホや財布を俺がのぞかないと思っていることも気に入らない。  覗かれても平気だと思っているならなおさらだ。 「スマホくらい持ってったらどうだ。不審者がうろついてるんだったら、ラーメン屋から俺の家の距離だって安全とは限らんだろう」 「大丈夫。寛人が帰りは迎えにきてくれるから」 「俺は迎えに行くなんて一言も言ってないぞ?」 「でも、来るじゃん」  俺は一瞬目を閉じて、雪菜を迎えに行こうか考えた。  でも、答えは最初から決まっていた。  十時からはAI原めもりちゃんの配信が始まる。平日の数少ない楽しみ。俺の生きがいと言っても良い。 「行かない」 「ううん、寛人は迎えに来るの」 耳の後ろあたりにモヤモヤとした不快感が広がっていく。 「行かないぞ」 「行くんだって。寛人は十時になったらバイト先に迎えに来る。だから、あたしはさらわれたりしない」  雪菜は不安そうに俺を見上げた。何でも一人で決めるくせに、いざ話がこじれることを予感すると急に懇願するような顔をする。そのくせ決定事項のような口調はやめない。  モヤモヤがさらに激しくなる。 「ああ、分かった。分かった。迎えに行くよ。だからさっさとバイトに行け。遅刻するぞ」  俺は手の甲で雪菜を追い払った。 「うん、ありがと!! じゃあ、あとでね。よろ~~」  雪菜は安心したように頬を緩ませると、機嫌よく手を振って駆け出していく。  
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