森の中の魔女

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森の中の魔女

 ······そこは、集落からかなり離れた場所にある森だった。木々の隙間から差し込む木漏れ日は、自然が創り出す幻想的な一枚の絵画に見えた。  だが、太陽がその身を隠しひとたびその光が失われれば森は闇に包まれ、鳥の鳴き声すら悪魔の声のように聞こえ恐怖心を刺激する。  そうなる前にこの森を抜ける。そう考え、森を彷徨うように歩く一人の男がいた。黒い髪に中肉中背。年齢は二十代半ばに見えた。  上下の黒い衣服は所々擦り切れ、男は頬にも何箇所か切り傷を負っていた。だが、地鳴りの様に鳴る腹の音が男の気力を奪って行く。  直近の課題はどうやってこの空腹感を満たすか。その一点に尽きていた。男の体力と空腹が限界に迫った時、男は森の中に民家を発見した。  年季の入った太い丸太造りのその平屋は、この森の自然と同化し溶け込んでいるような佇まいだった。  男は平屋のドアの前に立ち、半日振りに声を出し家主を呼ぶ。だが中からの反応は無かった。  ドアノブに手を触れると、ドアは難なく開かれた。鍵が備え付けられてないのか。それとも家主がずぼらなのか。  男は選択を迫られた。自分の人生録に、空き巣と言う不名誉な文字が刻まれる。その瀬戸際に男は逡巡する。  だが、腹の虫は男の迷いを許さなかった。男は無断で家の中に足を踏み入れる。居間には台所と机。そして幾つもの本棚が部屋の壁を覆い尽くしていた。  本棚から溢れ行き場を無くした本達が、床に置かれ、本来の食事をする為のテーブルにも積まれていた。  男はその光景を見た時、不思議と乱雑と言う印象を受けなかった。一見無造作に置き散らかされた様に見える本達が、絶妙な調和を保っている感覚を覚えた。  男は我に返り本来の目的を思い出した。台所に向かい食料を物色する。そして強烈な喉の乾きを感じ、水が入った瓶に手を伸ばす。 「······あなたは誰?」  その静かな声は、一瞬男の周囲を静寂に包み込んだ。男は我に返り猛然と後ろを振り返った。そこには女が立っていた。黒く長いとんがり帽子。腰まで届く長い黒髪。  男と同様の黒い服。だが、男の厚い生地の服とは異なり、女の生地の薄い服はその身体の線をくっきりと出していた。  豊かな胸。くびれた腰。スカートの裾は足が隠れ床に着きそうな程長かった。女は若く、そして美しかった。  年齢は二十代後半に見える。その黒い衣服を見た男は、頭の中にある連想が浮かんだ。 「······魔女」  男が口にした名は、かつて人間達が魔法を自在に操っていた時代に使われた呼び名だった。 「開口一番に失礼な物言いね。その衣服。貴方グルトリア軍の兵士かしら?」    女は特段気を悪くした素振りを見せず、淡々とした口調で男を観察するように見る。男の着ていた黒い服は、この国の軍隊の軍服だった。 「······無断で家に入って済まない。少し食料を分けて貰いたい」  男は動揺した心を必死に押さえつける。それは盗人になった自分への後悔の念か。それとも女の美しさへの驚きか。  男は自分でもその理由が分からなかった。 「······食料。貴方、脱走兵ね」  女の続く質問の中、男は徐々に冷静さを取り戻す。それと同時に、耐え難い空腹を再認識する。 「······脱走兵か。半分当たりだ」  男が答えた所で、女は背もたれ付きの白い椅子に座る。そして本に半分占領されている机にとんがり帽子を置く。 「······対価は?」 「······何?」 「私が貴方に食料を分ける対価は何?」  女のその言葉は、男の退路を断つ刃物となった。男は金銭など持ち合わせてはおらず、森を彷徨う経緯と身体の疲労空腹が男の精神的余裕を根こそぎ奪った。  男は唯一所持していた短剣を腰から抜き放った。そして鋭利な刃先を女に向ける。 「······手荒な真似はしたくない。大人しく食料を出してくれ」  男の苛立ったその言葉は、女を恐怖させるには充分な迫力があった。筈だった。だが、女はゆったりと身体を椅子の背もたれに預け、唇をゆっくりと動かしていた。  すると、男の突き出した短剣の刃先が突如凍り始めた。氷は意志があるかのように増え続け、それが短剣の柄に及んだ所で男は短剣を床に投げ捨てた。 「······馬鹿な!? こ、これは?」  男は驚愕しながら完全に凍結した短剣を観ていた。 「······見るのは初めてのようね。まあ、この世の殆どの人間が貴方と同じか」  女はゆっくりと立ち上がり、床に転がっているかつて短剣だった氷の塊を拾う。そしてそれを男の前に差し出す。 「そう。これは魔法よ。脱走兵さん。貴方が見たのは魔法」  女は出来の悪い生徒に教示を与える教師の如く振る舞う。 「ば、馬鹿な。魔法を使える人間などとうの昔に絶滅した筈だ!」 「そう。確かに遥か昔に絶滅したわ。私も自分以外に魔法を扱える者など見た事が無いわ。恐らく天然記念物の動物よりも珍しいでしょうね」  女は氷の塊を男に手渡すと、再び椅子に座った。唯一の武器を失った男は、完全に戦意喪失しその場に座り込んだ。 「······俺の負けだ。街の憲兵に引き渡すなり好きにしてくれ」  空腹感が脱力感に変わり、男の気力を全て奪って行った。男は半ば自暴自棄になっていた。 「街に出向くなんて面倒臭いわね。それより脱走兵さん。私と取り引きをしない?」  男は虚ろな表情で女を見る。女が何を言っているのか理解出来なかった。 「私の研究に協力して欲しいの。その対価として貴方に宿と食料を提供するわ」  女の突然の提案に男は面食らった。だが、女の意図を探るには男は余りにも消耗していた。 「······取り敢えず何か食わしてくれ。話はそれからにしよう」  男は項垂れたまま最後の気力を振り絞りそう漏らした。 「交渉成立ね。私はカリーナ。貴方の名は?」  女が名乗った瞬間、男はまた周囲が静寂に包まれる様な感覚を覚えた。 「······ラウェイ。ラウェイだ」  脱走兵は乾ききった口を開き、森の魔女に自分の名を告げた。  
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