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カフェバー・ポンソル
仕事を終えて、帰宅して……あのまま夕食を取る気にもなれず、行きつけのカフェバーに来た。
「いらっしゃ……なんだ、ミナトか」
「なんだって、なんだよ。ドカン、奥、空いてる?」
失礼な声が飛んできたカウンター方向を一瞥する。ラフな白シャツに緑のエプロンを着けた茶髪の男がグラスを拭いている。この店のオーナー兼マスターである彼は、高校時代の同級生で、僕のことを色々知っているから……気兼ねなく振る舞える。
「ああ……うん。いつものヤツか?」
僕が1人で来たことに気が付くと、ニヤけ笑いが真顔に変わる。全く。気が回りすぎるってのも、良し悪しだ。
「サンキュ」
カウンターの前を通って、テーブル席の一番奥。パーティション代わりの観葉植物で半分隠れた場所に、2人用のテーブル席がある。予約席の札が置いてあり、普段はインテリアの一部になっていて、ここに客が座ることはない。すぐ横には縦長の出窓があるが、外壁を伝う蔦がワサワサと生い茂っており、店内からは額縁に嵌まった絵画みたいに見えるし、外からは目隠しになっている。
「ハル君、またなのか」
マスターことドカン――土橋幹哉は、コトン、と丸いグラスとスリムな小瓶を置いた。
「ん……仕方ない。分かってることだから」
僕は小瓶を手に取り、暗赤色の液体をグラスに移す。シュワッと細かな泡が広がり、甘酸っぱい香りが鼻を擽る。女性客を取り込むために仕入れたという「ストロングボウ」というイギリス製のリンゴの発泡酒。リンゴにカシスなどのベリーを加えたフルーティーな味わいは、サイダーとスパークリングワインの中間くらいで、甘過ぎず上品だ。アルコール度数はビールと同じ約5%だから、決して強くない僕のお気に入りになった。
「ナポリタンか海老ドリア。あとは“お任せ”でいいだろ」
「うん。ナポリタン。ウィンナー多めで」
ここで食べるフードは、いつもドカンが提示する二択だ。メイン以外は、黙っていても勝手に出てくる。初来店から7、8年になるが、僕はメニュー表を見たことがない。
「了解」
背中を見送ってから、グラスに口をつける。荒れた部屋は片づけてきた。だけど、2人暮らしの広さの中で、1人座る食卓は寂しすぎるんだ。
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