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(1)
階下からけたたましい物音がして、浅い眠りから目を覚ました。
枕元に置かれていたスマートフォンに手を伸ばし、緩慢な動きで目を擦りながら時刻を確認すると、午前六時二十分だった。電線で羽根を休める鳥たちの囀りが耳朶を打つ、そんな、普段通りの朝だった。
和泉はベッドから抜け出し、階段をおりた。そのまま玄関口へ向かうと、三和土に尻餅をついた母の姿が目に飛び込んでくる。佇んだままの和泉に気づいた母は、しっかりと化粧が施された目尻に皺を作りながら、なんでもないというように立ち上がった。
「和泉くん。あら、起こしちゃったのね。ごめんね」
「どこ、行くんだよ」
「お仕事に決まってるでしょう? 今日は小テストがあるから、急がなきゃいけないのよ」
胸底がすっと、冷たくなる。磊落な口調でそう言った母は、スカートに付着した砂や埃を払ってから、ガラス張りの引き戸に手をかけた。
「なあ……、どこ行くんだよ」
「どこって、お仕事に決まってるでしょう? 朝のホームルームで小テストがあるから」
「それはもう聞いた。あのさ……仕事にはもう、行かなくていいんだよ」
「何を言ってるの? お母さんが行かないと、先生はどうしたんだろうって、子供たちが心配しちゃうじゃないの。だから、行ってくるわね──和泉くん」
引き戸がガラガラと軋んだ音を立てる。和泉は母を引き止めようとした。けれど、その一言が口から出ていかない。落ち着くまで、母の口から何度も繰り返される言葉。その度に支度が遅れ、何も事情を知らない同級生からは遅刻したことを揶揄される。
もうどれくらい、同じ悪夢を見てきただろうか。眠っている間は、いつからか夢なんて見なくなったのに──。
「あらあら、柊さんおはようございます。今日のお召し物も、とっても素敵だねぇ」
引き戸の向こうから佐川芳江の声がして、和泉はホッと胸を撫で下ろした。母の手によって閉められていた引き戸が再び開き、そこから母と佐川さんが入ってくる。
「あら和泉くん、おはようございます。暑いのねぇ、今日も」
「あっ……おはようございます」
「うん。お母さんのことは私に任せて、和泉くんは学校に行く準備、していいからねぇ」
和泉たちが話をしていても、母は三和土に視線を落としたまま、暫く動かなかった。その口が再び開きかけたのを見て、和泉は踵を返し、部屋へと向かった。できるだけ早く支度を終え、そのまま自宅を後にしよう。ただそれだけを、考えて。
「和泉、いってらっしゃい」
玄関口に戻った時、背中にかけられた母の声音は随分と落ち着き払ったものだった。嬉しいという感情よりも安堵の方が胸を占め、それ自体を厭わしく思い、和泉は苛立ちをぶつけるように引き戸を閉めた。
柊湊美──母の言動がおかしいと初めて感じたのは、数年前のことだった。
「ねえ、和泉。今日は学校、休みよね?」
日常の中にありふれたそんな一言を、その日の間に何度も聞いた。元々母は物忘れもよくする人だったことから、それまでも別段気にしてはいなかった。実際にその翌日からは、母も普段通りの様子に戻っており、よくある一過性のものだろうと当時の和泉は思うことにした。
しかしその後も、度々同じような言動が見られるようになった。
その頃から、誰もが聞いたことのある一つの病名が和泉の脳裡にもはっきりと浮かぶようになった。まさかまさかと思っている間に母の病気は進行し、そして、正式に母がそうであると診断された日の午後、病院から戻った母は悄然とした表情を見せ、和泉に「ごめんなさい」と言った。伝え終えると、和泉から目を逸らし、肩を震わせて母は泣いた。
あの日からもう、二年近くが経とうとしている。
早く大人になりたいと願っていた頃は、一日一日がひどく長いものだと感じていた。早く一日が過ぎてほしい。いっそのこと、目を覚ました時には大人になっていたらと、益体もないことを願ったこともある。
けれど今は、そんなことは思わない。これから先のことを考えると、どうか時間よ止まれと、気づけばそればかりを願うようになっていた。
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