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「柊、進路調査票はまだなのか? 後はクラスでお前一人だけだぞ」
朝のホームルーム終わりにわざわざ教卓前に呼ばれ、クラス担任から進路調査票の提出を催促された。机の中には今も用紙があることを忘れたわけではない。他のクラスメートは皆、先週末の時点で提出し終えていたことも知っている。
「まだ、決めてなくて」
「そうか。まあ、まだ焦ることはないがな。とりあえず興味のある大学名を二、三個書いておけばいい。そう、深く考えることはないからな」
クラス担任は快活な笑い声を教室内に響かせながら、和泉の肩を軽く叩いた。席へ戻ると、隣の席に座る伊吹純平から声をかけられる。
「気が早いよなー、まだ俺ら二年だぜ? 特進クラスでもないのに、誰が自分の行きたい大学なんか今の時点で決めてんだって話だよな」
「……まあ、確かに」
切れ長な目を細めて笑うと、伊吹は最近伸ばしているという前髪を掻き上げた。
「それはそうと和泉、明日からの夏休み、なんか予定あんのか? 来年はそれこそ受験とかで忙しいだろうしさ、今年こそはどっか出掛けねえか? 旅行とかさ、行こうぜ」
「旅行な。……行きたいのは、山々なんだけどさ」
「無理なのかよ。まあ、お前ん家、母ちゃんと二人暮らしだもんな。実際なんとかなるだろ? まあ、また決まったら明日連絡するわ。他に誰誘うかなー」
伊吹が他のクラスメートに声を掛けに行ったのを見て、和泉は机に額を伏せた。
昨日も上手く寝付けなかった。深夜に階下から物音が聞こえてきたせいだ。大丈夫だと心では思っていても、脳は素直に休まることを望んではくれなかった。
クラス担任にも、友人たちにも、まだ母のことは伝えられていない。当たり前だった日常は既に壊れ始めている。そんな中こうして登校し、以前と何一つ変わらない会話をしている時だけは心が休まる。抱えた事情を彼らに話してしまえば、この広々とした平穏な地も、窮屈な牢屋に変わってしまう。それが、怖かった。それだけは、避けたかった。
机の中から進路調査票を取り出す。第一候補から第三候補まで、全てが空欄のそれを和泉はただ見つめた。筆箱からペンを取り出し、紙の上に芯を押し付けた。始業前のひとときは、まだ何も変わっていない。生徒が作り出す喧騒も、茹だるような初夏の暑さも。
ただ、擦り減っている。紙の上に、黒々とした粉が散らばる。
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