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終業式を終え、和泉は家路を辿っていた。自転車に乗ったまま水田に囲まれた畦道を進んでいく。額から流れる汗を何度か拭いながら、時折手庇をして進んでいくと、すぐに自宅が見えてくる。
父は、和泉が小学三年生になった冬、肺癌でこの世を去った。そのせいか、和泉の記憶に残る父の姿は病床に伏せたものばかりだった。実際に父が入院していたのは亡くなるまでの数ヶ月だけだったのだが、新しい記憶は常に古い記憶を覆い隠してしまうらしいと、父のことを思い出そうとする度に和泉は実感する。それでも、父が抱きしめてくれた温もりや匂いだけは今でもよく覚えていた。皮肉にも、父の匂いだと思っていたそれは、嗜んでいた煙草の匂いだったのだと、父が亡くなった数年後に気づいたのだが。
古い二階建ての日本家屋が目と鼻の先にある。所々剥げてしまった塗装や外れた瓦は、安普請であることを考えれば珍しくもない。家を囲むように作られたコンクリートの垣根は苔に覆われているものの、数年前まで母が裏庭を含め手入れをしていたおかげもあり、今もそれほど汚らしくは見えない。
自転車を止め、そのまま引き戸に手を掛けた時、今がまだ午後一番であることを思い出した。今日は終業式のみが行われた。普段は五時限近くまで授業をこなして帰ってくるため、まだ太陽が高い位置にある間の帰宅は久しぶりだ。そして今日は、母の面倒を見てくれている佐川さんも今朝から引き続きこの家にいる。引き戸に掛けた指先が、意識的に止まる。
今現在、母には身体的な機能低下はあまり見られない。
障害のある高齢者などが独力で生活を送ることが可能か、ということが段階に分けて分類された日常生活自立度というものが存在し、七段階にわかれたその中で、今の母がどの位置にいるのかを和泉は正確には把握していなかった。だが、現段階ではヘルパーや施設に頼らずとも生活していくことは可能であると、以前から母の通院に付き添ってくれている佐川さんから伝えられている。
問題は、和泉の家が母子家庭であることだった。和泉は学生であるため、平日は母以外誰も自宅にいない日が続く。それを心配した佐川さんが、比較的近所に住んでいるということもあり、平日のうち四日間だけは、母の様子を見にきてくれている。
和泉が学校から帰宅するのと入れ替わり、佐川さんは帰っていく。和泉は、母の過去を深くは知らない。佐川芳江という女性のことも、母が以前小学校の教員をしていた頃の知り合いだということは聞いているが、それだけだ。
今後、母の症状が悪化していけばどうなるのか。佐川さんは母よりも高齢の女性だ。朗らかで心身共に健康そうな人ではあるが、年齢のことを考えると、今のようにわざわざ朝早くから様子を見にきてくれる状態が長く続くとは思えない。
そうなれば、残されるのは和泉と母の二人だけだ。
「……ふざけんな」
和泉は再び自転車に跨った。どこかで適当に時間を潰そうとして、ペダルに足をのせる。
その時、自宅裏庭の方で微かに何かを擦るような物音がした。
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