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和泉は咄嗟に振り返る。いつからか、物音がすれば確認だけは怠らない癖がついてしまった。小さかった頃は、そんな音は全て無視していたのに。
「また、何かやらかして……──」
辟易としながらも視線を向けた先で──その一帯が、不可思議な光に包まれていた。
自宅の壁をその不可思議な光が照らしている。真っ青な空の下、そこに存在するはずのない彩色が壁の色を変え、眩い光を放っていた。これまで生きてきた中で一度も目撃したことのないような光の塊がそこには存在していた。赤、青、緑、何色あるかもわからない光がその一帯を囲み、次の瞬間──弾け飛んだ。
そのあまりの眩さに、和泉は暫くの間目を開けなかった。
閉じた瞼の裏に光の残像が残っている。最初に聞いた物音以外、些細な音すらも聞こえなかったというのに、鼓膜が圧迫されたのか痛みを感じた。深い海に潜り、耳抜きをする直前と似ていると感じた次の瞬間、その痛みも、光の残像も同時に消え去ったことに気づき、和泉はゆっくりと瞼を持ち上げる。
いつもと同じ、毎日見ている自宅だった。数秒前に眼先で起こったこと全てが幻想であったと思えるほど、その家は静かに、ただ時だけを刻んでいるように見えた。
「なんだったんだ、今の」
一歩、また一歩と裏庭へ進む。玄関横の石畳を進み、つい先ほどあの不可思議な光を目撃した付近まで足を進める。
「なんだよ。なにもないじゃないか」
裏庭には、生前父が大切に扱っていたという盆栽が並べられていた。それに加え、もう使わなくなった家具が幾つか隅に放置されている。それ以外は洗濯物が干されているだけで、無駄に広い裏庭という印象しか抱かない。
その物寂しい光景を見ていると、小学生の頃、玄関横の道を使わずにこの裏庭からどうやって垣根の外へ抜け出すかということばかり考えていたことを思い出す。あの頃何度も乗り越えた垣根は、今の自分の背丈ならそれほど高くは見えなかった。小学生だった当時は、他の何よりも高い壁だと思っていたのに。
例の光はこの裏庭全体を覆っていた。その中心に立ち、家の中の様子を伺うも、そこに二人の様子はない。普段は和室の方を利用しているからだろう。
「……宇宙人とか、隕石とか。どうせなら、そういうのでよかったのにな」
自宅にいる時間が増えたことで、映画やアニメを見る機会が増えた。最近見た洋画の中に、暗澹とした空から人間の姿をした宇宙人が現れて、城に閉じ込められた主人公を未知への冒険に連れ出してくれるというSF作品があった。
面白かった。この歳になっても心躍らされる何かが、その作品には確かにあった。目が離せなかった。ただ、物語の主人公に自分自身を重ねていると自覚した瞬間には、和泉はその洋画を見るのを止めていた。結末は知らない。もう、見ようとも思わない。おそらく描かれるであろうそんな夢のような結末に自分は辿りつかないことを、この数年の間で厭でもわかってしまっているから。
「──あらあら、和泉くん、帰ってきてたのねぇ」
咄嗟に顔を上げると、いつのまにか縁側に佐川さんが立っていた。身長は百四十センチ弱だろう。もう少しあるかもしれないが、猫背気味な姿勢のためそう見える。だから、百六十センチ前後の母と並んだ時は、尚更小さく見えるのだ。
──恥ずかしく、ないのかよ。
未だに和室から姿を見せない母に、声には出さず訴える。
──自分より歳のいった人に面倒みてもらって、あんたはそれで、恥ずかしくないのかよ。
本人にはどうしようもないことだと和泉にはわかっている。それが病に苦しむ人たちにとって厭わしく思われる言葉であることも。それでも、無性に苛立ってしまう。
「どうしたんだい、裏庭になんか。玄関から入ればよかったのに」
「その……今ここで、なんか光ったんですけど、見ませんでしたか?」
佐川さんは前屈みで腰を押さえながら、「光ねぇ……」と呟くと、かぶりを振った。
「そうですか……」
「和泉くん、疲れてるかい?」
「いえ……大丈夫です」
「あのねぇ、大変かもしれないけど、困ったことがあったら私に言うんだよ。そう言っても私も歳だから、限界はあるけどね。それでも、言いなさいね。溜め込まずに」
「……ありがとうございます」
目下の皺が深くなる。母が見せる、何倍も。
和泉が縁側から自宅に上がった時、和室からようやく母が姿を見せた。今朝、和泉よりも早く家を出ようとした時の装いそのままに、母は和泉にいつも通り、おかえりと言った。
返事をせず、自室がある二階に上がろうとする。
「ねえ、和泉」と、母が言う。
「この髪飾りね、大切な物だから、お母さんがどこかに置き忘れていたら教えてね? いつも、ここに置いておくようにするからね」
母は両手で大切そうに持った髪飾りをテレビボードの上に置いた。何年も前から、それこそ教員をしていた頃から、母はいつもその髪飾りをつけていた。オーダーメイド品らしく、特殊なデザインで、二頭の蝶が並んで飛んでいるような形をしている。長年身につけているからか所々の経年劣化は否めないが、藍色の輝きは今でも美しかった。
「忘れなきゃいいだろ」
「うん……でもね、お母さん、忘れちゃうから」
薄い唇の下にある小さな黒子ごとその口元を震わせながら、母が力無く言う。
「……忘れないように、自分でもメモしてればいいだろっ!」
「うん、でもね、そのメモに何を書いたかも、どこに置いたかも、お母さん、忘れちゃうかもしれないから……」
「……だからっ、あんたが今みたいに忘れなきゃいいんだよ! また忘れるなら、家中にメモを貼っておけばいいじゃないか! そうしろよ! 少しは自分で考えろよっ!」
「あらあら。ちょっと、和泉くん。和泉くんのお母さんはねぇ、一生懸命……──」
佐川さんの声に耳を貸さず、足音を響かせて和泉は階段を駆け上がった。部屋の扉を乱暴に閉め、ベットに顔から倒れ込む。
わかっている。自分の言葉が母を傷つけているという自覚はある。しかし、その感情すらも母はいつか忘れるのだ。いつか忘れ、何もわからなくなり、そしてまた、あの頃みたいに自分を呼ぶ。
──和泉くん、おはようございます。今日は、一番早く来たのね──
和泉の学習机には、ラップがかけられた肉じゃがと白飯が置かれていた。覚えている時は、覚えている。今日が終業式だったことも、自分がもう、教職からは退いたことも。
そんな母を毎日見ているから、こんなにも苛立ち、苦しくなる。
「……俺には無理だ。こんな、こんな生活」
ラップを剥ぎ、ごろごろとしたジャガイモを口に運ぶ。
味がしっかりとついていて、それが母の作ったものではないことがわかり、鼻の奥がつんとした。
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