(2)

1/6
前へ
/94ページ
次へ

(2)

『はぁ? もう予約しちまったよ。なんとか母ちゃん説得できねえのかよ』 「……悪い。昨日も、行けないとは伝えたはずなんだけど」 『高二の夏だぜ? 普通なんとか行けるようにするだろうが。母ちゃんもそれくらいわかってくれねーの?』 「……ほんと、悪い」 『んだよ、つれねーなー。ったく、いつまでマザコンやってんだよ、お前』 「そんなんじゃ……──」  苛立たしげに電話を切られ、手に持ったスマートフォンを布団に投げつけた。家の外壁に一匹の油蝉がとまっているのか、鬱陶しい鳴き声が鼓膜を刺激する。 「……ふざけんなよ、マザコンとか」  部屋の壁を殴っても、蝉は飛んでいこうとはしなかった。よほどその場所が気に入ったのか、いつまでも求愛行動に励んでいる。  和泉は窓を開け、蝉を追い払った。二度と戻ってくるな──そう叫ぼうとして、蝉には元より帰る家などないのだと、そんな当たり前のことを思う。飛び去った蝉の姿がどんどんと小さくなり、やがて、視界から消えていく。  夏休み初日。今年の夏休みはもう二度と伊吹から誘いの電話がかかってくることはないのかもしれない。そう思うと、こちらから電話をかけ、もう一度謝っておきたいという衝動に駆られる。しかし、彼が電話に出ないこともそれとなくわかる。逆の立場なら、和泉もそうした。  階段をおり、母の寝室の前を通り過ぎる。立ち止まって耳を澄ませると、微かな寝息が聞こえてきて、それがまた、和泉の苛立ちを募らせる。  目覚めた時の母は、どちらの母なのか。和泉、と呼ぶのか。和泉くんなのか。それか、寝起きは和泉で、途中から和泉くんに変わるのか。これから先、毎日そんな日々が繰り返され、自分は悩まされるのか。それとも、いつしかそんな不安は消え、懊悩する日々すらもどこかへ消え去ってしまうのか──。 「──……ねえ、ほ……うに……間違って──いんだよ……?」  と、開かれた洗面所の窓の外から、誰かの話し声がした。  冷水で顔を洗っていた和泉は顔を上げ、耳を澄ませる。この辺りは家と家の間隔が広く、意図的に誰かが訪ねてこない限り、話し声が聞こえることは殆どない。  和泉の予想通り、声の主が遠ざかっていく気配がした。  男の子の声だった。夏休みに浮かれた田舎の子供たちにとって、不法侵入なんてものは遊びの一環に過ぎないし、それを逐一咎める大人もいない。和泉だって小さい頃は、人様の敷地に入り込んで堂々と遊んでいたものだ。  今日は佐川さんがきてくれる日ではない。だとしたら、他の誰かがこの家を訪ねてきたのだろうか。わざわざこんな田舎の家を訪ねてくる物好きなんて、そういないはずなのに。  相手が気になった和泉は遠ざかった足音の主を確認しようと玄関に向かった。鍵のかかっていない引き戸に手を掛けたところで、薄いガラス一枚を挟んだ向こう側に人の気配を感じた。ゆっくりと近づいてくる、砂利を擦る足裏の音が聞こえる。  和泉は呼び鈴を押される前に引き戸を開けた。呼び鈴は家中に響く。それで母が起きてしまうことだけは避けたかった。  和泉の懸念通り、呼び鈴を押そうとしていた誰かがそこにいた。呼び出す前に和泉が姿を見せたからなのか、そこに立っていた一人の少女は両目を大きく見開いて和泉を見た。しかし、それも一瞬のことで、すぐに眼球が和泉の体を観察するように忙しなく動く。  和泉と同年代の少女に見えた。艶のある黒髪は胸のあたりまで伸ばされていて、幅の広い二重がその見開いた両目を更に大きく見せている。薄い唇はほんの少しだけ開かれていて、ブラウスとショートパンツのみという快活な装いは、どこかその少女には不似合いだった。  同時に、誰かに似ていると感じた。芸能人だろうか。すぐには思い浮かばないが、確かにこの少女と似た雰囲気の女性を、和泉は知っている気がした。
/94ページ

最初のコメントを投稿しよう!

11人が本棚に入れています
本棚に追加