偽りの婚約者

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「そうでございますね。ではまず、こちらの資料に目を通しておいてください」 「あっ、はい」  秀の言葉に即座に従った青山から手にしていた書類の束を渡され、恋が手元の書類に視線を走らせていると、秀から再び声が届く。 「昨日の今日で疲れてないか?」 「うっ、ううん。説明聞いてただけだし、全然」 「そうか、ならいいが。とりあえず座らないか? 話しておきたいこともあるし」 「あっ、うん。ありがとう」  仕事モードの秀に慣れなくてドギマギしつつも答えていると、中央にある応接セットのソファに座るよう促された。  ーー仕事中にいいのかな。  そうは思いつつも、これも仕事のうちかと素直に従い、テーブルを挟んだ向かいに座る秀の話に耳を傾ける。 「実は今、脳幹グリオーマの患者を担当しているんだ。場所が場所なだけに手術はできないが、放射線治療の効果で腫瘍の縮小と症状も改善してはいる。だが長期の効果は見込めない上に、再燃は避けられない。医者なのに経過を見守ることしかできないなんてな」  その患者は、今年の春に小学生になったばかりの男児で、元々の主治医は、地方の大学病院の脳外科医なのだそうだ。秀の父・渉の医学生時代の後輩だったらしい。  それを知った男児の両親の、最新の設備が整った環境で最新の医療を受けさせたいという強い要望から、わざわざ九州から転医してきたそうだ。  いくら最新の医療を駆使しても、その病態や罹患した場所によっては、できることは限られている。  この症例もまさにそれで、手術は意味をなさず、放射線治療で症状の進行を遅らせることしかできないそうだ。  秀の話では、そういう症例と向き合っている秀のことを案じた青山が気を利かせて、今回、恋を花嫁修業の一環として秀の医療秘書にすることを父に提案し、このようなことになってしまっているらしい。ということだった。
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