アプリコットフィズの誘惑①

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アプリコットフィズの誘惑①

その人は男性なのに線が細く、 儚げなオーラを纏っていた。 新卒で入った会社で 同期の岸野葵を目にした瞬間、 恋が始まってしまうことを覚悟した。 「由貴?何考えてるの」 ベッドの中でそう神代綾に微笑まれた時、 僕は不謹慎にも岸野のことを考えていた。 今夜は入社して初めての飲み会で、 幸運なことに岸野の隣に座れた僕は、 酒の勢いもあり、 かなり岸野と話すことができた。 東京都板橋区出身で、高校まで男子校。 大学は法学部で、宅建と行政書士に合格。 畑違いのこの広告代理店と行政書士事務所が 就職先の最終候補で、 採用内容に軍配の上がったここを選んだが、 法曹界に未練はあり、 今年の司法書士試験を受験すると聞いた。 広告制作に興味があったから入社したが、 数年後のビジョンは不明な僕からしたら、 先を見据えて行動する岸野の話は なかなか興味深く、 「近々、サシで飲まない?」 と誘い、連絡先交換まで漕ぎ着けた。 大学ではミスターの称号をもらい、 男女問わず取り巻きの多かった僕が、 珍しく自分から動いた結果だった。 ベッドサイドに置かれたスマホには、 岸野の連絡先が保存されている。 それだけでも大きな収穫で、 帰りの電車の中でひとり、気分が高揚した。 だからその後、彼女と逢っていても、 気もそぞろになるのは仕方なかった。 「ごめん、何でもない」 それでも、 岸野とはそう簡単に結ばれないだろう。 僕は自分を偽り、こうして彼女を抱く。 彼女と付き合って3年。 初めて他の人、それも同性に心が動いた。 僕は今年23歳になるが、 このまま彼女と結婚すると思っていた。 人生、何が起こるかわからないと思った。 「川瀬、ちょっと」 午後3時、リフレッシュスペースで インスタントコーヒーを作っていたら、 パーテーションの向こう側から 岸野が僕を呼んだ。 「ん?どうした」 平静を装いながら、 岸野のところまで足を運ぶと、 岸野はまっすぐ僕を見つめて微笑んだ。 「悪いけど、一緒に頼まれて?」 「いいよ。コピー?」 岸野のいた場所には、 数台のコピー機が置かれていた。 傍らの作業台には、大量の書類のファイル。 「え、もしかして全部?」 「うん」 「やれやれ。じゃあ、やっちゃうか」 手にしていた紙カップを作業台の隅に置き、 岸野がコピー機に書類をセッティングし、 僕がコピーした書類を整理することにした。 「ありがとう、助かる」 「いいよ。どうせライティング進まないし」 「川瀬はすごいよね。僕と同期なのに、 もう先輩と同行して書いてるんだもんね。 僕は雑用ばかりだから、羨ましい」 「いやいや、岸野の仕事だってすごいよ。 総務なんてなかなかできることじゃない」 「そうかな」 「そうだよ。これからもサポート頼むよ」 「うん。ねえ」 「何?」 「サシ飲み、いつにする?」 「ああ」 「川瀬の予定に合わせるよ」 「そうだな‥‥今週なら、金曜日かな」 「締切りで忙しくないの?」 「大丈夫。たぶん19時には終わる」 「了解。じゃあ、時間まで待ってる」 「よろしく」 「楽しみだなあ。川瀬の話、面白いから」 岸野と作業を済ませて席に戻ると、 先輩の吉川さんが、探してたぞ?と ややご機嫌斜めで話しかけてきた。 「あ、すみません」 「急遽、これからミーティング」 「わかりました」 「10名用の会議室、予約しておいて」 「はい」 早速、パソコンで社内イントラを開き、 手早く会議室を押さえると、 隣に座って談笑する吉川さんに報告した。 「サンキュー。俺と一緒に準備して」 「はい」 吉川さんと共に立ち上がり、 フロアを移動する途中、 自席で作業していた岸野と目が合った。 意外と見られているなと思ったのは、 一瞬のことだった。 金曜日は週の終わりということもあり、 朝から多忙を極めていた。 ランチ休憩もままならず、 ライティングと電話応対に明け暮れて、 あっという間に 岸野の約束の時間の19時になっていた。 「では、お先に失礼します」 傍らの上着を取り上げ、フロアを後にした。 岸野は、先に店に行っているはずだ。 『悪い、あと5分で着く』 岸野にLINEし、エレベーターに乗り込む。 今夜は彼女のことを忘れて、 岸野にだけ意識を向けたいと思った。 表参道駅近くのダイニングバー。 店のドアを開けると、 賑やかな声があちこちから聞こえてきた。 入口で店員に、 岸野の名前で予約していると告げ、 席に案内してもらった。 「川瀬、お疲れ様」 「お疲れ、先に飲んでて良かったのに」 半個室のひとつに座っていた岸野は、 上着と鞄を席に置き、腰を落ち着けた僕に 静かに微笑んで言った。 「ううん。一緒に乾杯したかったから」 かわいすぎる。 僕は今夜、 こんな健気でかわいい奴と過ごすのか。 密かにテレた僕をよそに、 岸野はメニューを差し出してきた。 「お腹空いちゃった。頼もう?」 「ああ」 10分後。 シーザーサラダを食べながら、 岸野はアプリコットフィズを、 僕はワインを飲んでいた。 「同期なのに、あまり話せなかったよな」 と話を振ったら、 「部署が違うしね。でも川瀬のことは、 よく見てたよ」 と返された。 「マジで?」 「だって川瀬、最初からバリバリ働いてて かっこいいんだもん。同期として鼻が高いよ。だから川瀬は、僕のお気に入り」 「お気に入りって、その言い方笑」 「ふふ」 普段おとなしく控えめな印象の岸野だが、 酒が入るとくるくると表情を変えた。 その中でもいちばん心を掴まれたのは。 「川瀬って、恋人いる?」 「ああ、彼女とはもう3年だけど」 「そうなんだ。結婚するの?」 「いや。迷ってる」 「うまく行ってないの?」 「‥‥僕に、好きな人ができた。 まだ彼女には言ってない」 そう言った時の、岸野の表情だった。 何か内に秘めた感情を明かそうとする、 思い詰めた表情。 それでいて暗い訳ではなく、 決意を固めた時の熱を帯びたものだった。 「川瀬。波風立つのは仕方ないよ。 人生に後悔ないように、相手に誠意を 見せてあげて」 「あ、うん」 岸野の言葉の迫力に圧倒され、返事をした。 それを踏まえて、 岸野には全然女の影が見えないなあと、 僕も岸野に訊いてみることにした。 「岸野。お前は?恋人いるの」 僕の言葉に首を傾け、岸野は答えた。 「好きな人はいるけど」 「へえ。どんな人?かわいい?」 「かわいいタイプではないね」 「ボーイッシュな感じ?」 「川瀬には言うけど、僕の対象は男性だよ」 「‥‥へっ?」 「あ、引いた?笑」 「引いてない引いてない‥‥え、マジで」 「マジです」 「まあ女好きには見えなかったけど、 まさかそういうことだとは」 興奮で、飲んだワインが回り始めていた。 「で。どんな奴?」 「平凡な僕にないものをたくさん持つ、 かっこいい奴だよ」 「付き合ってもらえそう?」 「どうだろう。知り合ったばかりだし」 アプリコットフィズを口にしながら、 岸野は言葉を続けた。 「まあ、本気で落としにかかりたいけど」 「おっ、強気」 意外な言葉の勢いに、思わず口元が緩む。 「だって」 そこまで言って、岸野は僕を見つめた。 「もう、愛してるから」 「!」 まるで、自分が告白された気分になって、 目が眩んだ。 岸野の本気モードにかかれば、 誰もが陥落するんじゃないかと思った。 「川瀬、お互いに頑張ろうね」 22時半。 ラストオーダーの時間、 会計が混み合うのを避けて 早く帰ろうということになり、店を出た。 夜を味わう人で賑わう表参道駅に向かって、 岸野と歩いた。 「川瀬って、ひとり暮らし?」 「ああ、今年から」 「家、どこ?彼女が来てたりする?」 「赤羽だけど。今夜は来ないよ」 「この後、川瀬んちに行ってもいい?」 「えっ」 「嫌なら、止めとくけど」 「違う違う、驚いただけだ。来いよ」 「やった」 来いよとかっこよく言ってはみたが、 岸野に腕を組まれ、僕はドキドキした。 まさか、こいつの好きな奴って‥‥ もしかして、アプローチされてる‥‥?! 「本気で落としにかかりたいけど」 「もう、愛してるから」 岸野の言葉が、 頭の中で繰り返し再生されていた。
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