アプリコットフィズの誘惑②

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アプリコットフィズの誘惑②

「お邪魔します」 岸野の高く澄んだ声が玄関に響いた。 時刻は既に、23時を回っていた。 まさかうちに、岸野がやって来るとは。 後から部屋に入った僕は、 岸野の鞄を預かり、 リビングのソファの横に置いた。 「岸野、シャワー浴びる?時間も遅いし、 泊まっていってもいいよ」 「ホント?じゃあ、そうする」 無邪気な笑顔を見せた岸野は、 僕の腕をまた取った。 「ど、どうした」 緊張して、その後の言葉が出て来ない。 言い淀む僕に、岸野が言った。 「川瀬、一緒に入る?」 「バカ、入らねえよ」 さっさと浴びて来いと岸野を脱衣所に 押し込め、手早くタオルを渡す。 「下着とか部屋着はここに出しておくから」 「はーい」 全く、冗談キツいよ。 熱くなる頬を右手で押さえながら、 岸野を軽く睨みつけた。 「岸野、置いておくよ」 着替えの一式を持ち、 ドアの向こう側の岸野に声をかけた。 スーツを脱ぎ、リビングで 肌着代わりのTシャツとトランクス姿で 岸野が出るのを待っていると、 「お待たせ」 部屋着を身につけた岸野が 濡れた髪をタオルで拭きながら現れた。 ヤバい、濡れ髪が色っぽ過ぎる。 見透かされるのが恥ずかしくて、 岸野と目が合わせられなくなった。 「あ、じゃあ僕も入ってくる」 「川瀬?」 慌ててその場を立ち去ろうとしたが、 岸野に手首を掴まれた。 「もしかして」 岸野に上目遣いで見つめられたが、 「はいはい、シャワー浴びてきます。 ドライヤー、使っていいから」 乱暴に手を振り払い、風呂場に逃げた。 髪を洗いながら、 ドアの向こう側に残してきた岸野を 意識していた。 あの様子じゃ、絶対にバレてる。 これからどうしようか‥‥。 シャワーを止め、 その場で身体を拭いていると、 岸野の声がした。 「入るよ」 「はあっ?!」 ドアが開き、岸野が一歩中に入ってきた。 「ちょっ、何を」 「川瀬」 タオルで股間を隠した僕の腕を掴み、 岸野が自分の方に引き寄せた。 ハラリとタオルは落ち、 僕は岸野に抱きしめられていた。 「ねえ、川瀬。僕のこと好きだよね?」 「お前、何言って‥‥っ」 慌てて岸野を剥がそうとしたが、 岸野のしがみつく力は強かった。 足元が水で滑るわ、 岸野は抱きついて離れないわで、 いったいどうしたらいいか わからなくなった。 「と、とりあえず、部屋に行こう」 Tシャツとトランクスを身につけた僕は、 リビングのソファに岸野を座らせた。 「川瀬、ホントのこと言ってよ」 「ホントのことって」 「だから、川瀬も僕のこと好きなんでしょ」 「‥‥やっぱり」 「川瀬」 「確かに、僕が好きなのは岸野だけど」 「うん」 「彼女に、何て言えばいいんだよ。 好きな人ができた、別れてくれって言って、 はいそうですかってなる訳がない。 岸野を修羅場に巻き込みたくない」 「巻き込んでいいよ。僕と付き合ってよ」 「それとこれとは違うから」 「何が違うの」 「好きだけど、岸野とは今は付き合えない。 考えさせてくれよ」 「好きなのに、考えるまでもないじゃない」 岸野に言われるのも無理はない。 もう付き合ってしまえばいいのではという 考えが一瞬脳裏を掠めたが、 彼女とケリをつけてからでないと 岸野とさえもうまくいかないと思った。 「岸野」 囁き、岸野の手を握った。 「必ず、彼女とは別れる」 「僕は、待っていればいいんだね」 岸野に手を握り返された。 「ああ、待っててくれるか‥‥?」 「わかった、待つよ」 「ありがとう」 「その代わり」 「ん?」 「今夜は、抱きしめて寝てくれる?」 「まあ、ベッドはひとつしかないし。 岸野にベッドを譲って、 自分がソファに寝たくないし」 「もう、ムードないっ」 岸野に軽く拳で腕を叩かれ、 僕はごめんと笑った。 今夜は、いろいろなことがあったなあ。 岸野とサシ飲みして、 家に連れて帰ったら、両思いになって。 今は眠る岸野の髪を撫でながら、 彼女のことを考えている。 待っててくれと岸野に言ってしまったが、 彼女に打ち明けることができるのだろうか。 果たして、どんな反応をするのか。 岸野が現れて 予期せぬ恋に落ちたと思っている僕は、 まだ心の準備ができていなかった。 そう言えば、スマホを確認してなかったと 画面を確認すると、 メールが1件、LINEが2件来ていた。 メールはただのメルマガだったが、 LINEは彼女からで、 帰宅した23時過ぎに届いていた。 『明日、空いてる?』 『ちょっと話したいことがある』 とあり、首を傾げた。 『いいよ』 一言返信して、画面を閉じた。 先程までの優柔不断さは消え、 伝えるなら早い方がいい。 彼女の話を聞いてから話そうと思った。 「う‥‥ん、かわせ‥‥」 その時、 岸野が寝返りを打ち、僕にしがみついた。 ホントに甘えん坊だなあと微笑ましく思い、 岸野の背中に腕を回した。 翌朝。 帰り際、岸野には 彼女には今日の昼に話すと伝えていた。 「うまく行くことを祈ってる」 「ああ」 「話し終わったら、連絡くれる?」 「必ずするよ」 岸野の腕を引き寄せ、抱きしめた。 「川瀬」 「気持ちはもう、岸野にあるから」 「うん‥‥」 こんなに好きな気持ちが溢れている今、 岸野を選ばない訳がなかった。 駅前のカフェで待ち合わせした彼女に、 開口一番、指摘された。 「由貴、好きな人いるでしょ」 「えっ」 「最近、心ここに在らずだって思う。 わかるよ、女の勘って奴」 「綾」 「由貴の家で話したら、逆上しちゃう かも知れないから、人がいっぱいいる ここで話したけど。で、ホントなの?」 「‥‥ごめん」 「どんな人?私より年下?」 「いや、僕たちと同じ年」 「どこで出逢ったの、結婚はするの」 「職場。結婚はしないけど、一緒には 住みたい」 「ねえ、相手は女の子で間違いないよね」 「え?」 「結婚しないのに、私と別れたいって何」 「‥‥あのさ」 「もしかして、男に負けたの?」 「あ、えっ」 図星過ぎて、二の句が告げなくなった。 「サイアク」 彼女に睨みつけられ、 僕はテーブルに手をついて頭を下げた。 「細かいことは言えない。ホントにごめん」 「安心して。二度と会わないから」 席を立ち振り向きもせずに去って行く 彼女の背中を見つめながら、 あまりの急展開に拍子抜けし、息を吐いた。 『向こうから言われた。好きな人がいる でしょって』 岸野にLINEすると、すぐに返信が来た。 『で、その後はどうなったの』 『二度と会わないって言われて、あっさり 終わった』 『え?それだけ?!』 『何も言わないまま、10分でケリがついた』 そう返信すると、岸野の返信が止まった。 とりあえず帰るかと歩き始めた時、 岸野からの返信が来た。 『じゃあ、僕と付き合えるよね』 『もちろん』 『これから、会える?』 『いいよ』 本当にこれで、ケリがついたのか。 幸せの絶頂のはずが、不安に苛まれていた。 再び、自宅に岸野を招き入れた僕は、 改めて彼女との一部始終を話した。 「なるほどね」 「うまく行き過ぎて、モヤモヤしてるんだ。 ホントに大丈夫なのかな」 「そんなこともあるよ。僕なら言わなくて 済んだ、ラッキーって前向きに思うかな」 「そうか」 「後は何か、引っ掛かることある?」 「いや、大丈夫。というか、ごめん。 巻き込みたくないって言っておいて、 充分岸野を巻き込んでるな」 「仕方ないよ」 「聞いてくれてありがとう」 「会社のさ」 「え?」 「ホームページに彼女が僕たちのことを 書き込むようなことがあっても、 気にしないで僕と付き合っていける?」 「ああ‥‥」 「彼女、同じ大学だったんでしょ? 大学の仲間から言われても気にしない?」 「あ、ああ‥‥」 「みんなが幸せになれて、祝福される恋 なんて、あまりないよ」 「岸野」 「もうこれ以上、悩まないで。ね」 抱きついてきた岸野を受け入れながら、 反省した。 自分は何がしたいんだ。 恋人になった岸野を苦しませたいのか。 いや。それは嫌だ。 「岸野、ごめん」 「大丈夫」 彼女との3年間は決して短くはなかった。 ただ、感傷的になっているだけだ。 これからは岸野と恋を紡いでいけるんだ。 岸野を優しく抱きしめ、目を閉じた。
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