アプリコットフィズの誘惑③

1/1
10人が本棚に入れています
本棚に追加
/3ページ

アプリコットフィズの誘惑③

日曜日の明け方、 眠る岸野の髪を撫でていた僕は、 傍らに置かれた岸野のスマホに 1件のLINEが届いているのに気がついた。 恋人のプライバシーを尊重したかったから、 画面に浮かぶ文字を見るつもりはなかったが 差出人の名前には見覚えがあった。 神代綾。 僕が昨日、別れを告げられた人の名前だ。 まず自分の目を疑い、続いて岸野を見た。 何故、この2人が繋がっているのか。 彼女が送ってきたLINEの文章は短く、 『川瀬を引き取ってくれてありがとう』 だった。 僕の知らない事実を、岸野は握っている。 「岸野、岸野」 僕は岸野の肩を揺らし、名前を呼んだ。 「バレて良かったよ」 僕に起こされた岸野は、 彼女からのLINEを確認すると、 僕に向き合い、頭を下げた。 「川瀬に対する気持ちは、ホントだよ。 入社早々、一目惚れしてたし。 神代さんと知り合わなくても、 アプローチしてた。4月の終わりかな。 フォローしてた神代さんのTwitterに 『彼氏と別れたい』って呟きがあって、 詳細を聞きたくてDMを送ってみたんだ。 で、彼女から会って話したいって返事が 来て。GWに池袋で会った」 「‥‥で」 「彼女、働き始めた会社の先輩と酔った 勢いでそういうことになって、付き合う ことになりそうなんだけど、彼氏がいる からどうしたらうまく別れられるかなって 言ってきた。で、彼氏よりイケメンなの、 その人って訊いたら、彼氏の写真ならある って川瀬の写真を見せてきて。驚いたよ」 「‥‥で?」 「彼女に言ったよ。僕はその人と同じ会社で 片想い中だってね。彼女に頼まれなくても、 アプローチするよね。川瀬が僕に振り向いて くれなくてもさ」 「あっそう」 「ごめん。嫌いになった?」 「いや、全然。しかし、オンナって怖い。 好きな人がいるくせに、僕に抱かれたのか」 「それは、川瀬も同じことじゃない?」 「まあそうだけどさ」 ひとつ息を吐き、岸野の肩を抱いた。 「よくも黙ってたな」 「ごめん」 「すっかり騙されたよ。でも」 「何?」 「スッキリした。これで100%、岸野に 集中できる」 「良かった」 不思議な感覚を残しながら、 岸野との恋はこうして緩やかに始まった。 金曜日、19時。 初めてのデートはどこがいいかと 岸野にLINEで訊くと、 先週訪れたダイニングバーに行きたいと 返事があった。 残業を終わらせ、 また先に店で待っている岸野を追いかけた。 「お待たせ」 慌しく荷物を置き僕が席に着くと、 向かいに座る岸野が微笑んだ。 「お仕事、お疲れ様」 「岸野もお疲れ」 「頼もうか」 「ああ」 岸野と付き合い始めて、1週間弱。 まだ夢を見ているようだった。 「岸野、そのカクテル好きだよな」 アプリコットフィズを口にする岸野に そう言うと、 岸野はちゃんと意味があるんだよと 言った。 「花言葉ならぬ、カクテル言葉って 聞いたことある?」 「ないよ」 「アプリコットフィズのカクテル言葉は、 振り向いてください」 「へえ‥‥でももう振り向かれてるじゃん」 「まだ、足りない」 「えっ」 「キスさえも、してないし」 「まあ、そうですね」 恥ずかしくなり、グラスワインを煽った。 「川瀬、ホントに彼女いた人?笑」 「いたじゃん。知ってるくせに」 「奥手過ぎるって言ってるの」 「何と言えばいいのか‥‥」 「また今夜も川瀬んち、行っていい?」 「それなんだけど」 「え?」 「一緒に住まないか」 「川瀬?」 「板橋と赤羽で距離は遠くはないけど、 岸野の帰りが遅くなるのが心配なんだ。 翌日出張で泊まってもらえないことも 今後出てくるかも知れないし」 「それって」 「岸野とは今後長く一緒にいるだろうから ‥‥え?何で泣いてるの」 目の前で、岸野が顔を覆っている。 「嬉しくて‥‥ありがとう」 鞄から未使用のハンカチを取り出し、 岸野に渡した。 「甘えん坊で泣き虫なんて子供みたいだな」 「ひどっ」 ハンカチを受け取り、岸野が呟いた。 「だから、彼女に振られるんだ‥‥」 「うわー、傷ついた」 僕は笑いながら、胸を押さえる振りをした。 22時、赤羽駅近くのコンビニ。 岸野と話し合いながら朝食の食材を買った。 「卵はあるから、焼くけど」 「チーズオムレツがいいなあ」 「じゃあ、チーズ買おう。あとレタスも」 そう言って、 カゴにチーズとカットレタスを入れた。 「川瀬、野菜食べてるんだ。偉いね」 「岸野は食べてるだろ、実家だから」 「食卓に出るから食べるけど、自分から 積極的には食べないかも」 「そうなんだ。何なら僕、野菜しか 食べない日もあるけど」 「え?肉も魚も食べないの?」 「温野菜にすると結構量が食べられるし、 お腹いっぱいになるよ」 「へえ。一緒に暮らすの楽しみだなあ」 「もしや、僕、料理担当に決定?笑」 「ぜひ」 岸野は笑い、僕の腕に自分の腕を絡めた。 ああ幸せだなあと、心が満たされた。 自宅で順番にシャワーを浴び、 ドライヤーで岸野の髪を乾かしていた。 「岸野、髪まっすぐでいいな」 「意外と癖があるんだけどね。川瀬は、 パーマかけてるよね。それはずっと?」 「大学時代からだね。それまでは朝1時間、 セットしてた」 「大変だったね」 「雨の日なんかはぐちゃぐちゃになって、 サイアクだったよ。でも懐かしい思い出」 「川瀬、実家は埼玉だよね」 「うん、田舎過ぎて地名は言えないけど」 「今度、連れてって」 「言っておくけど、何もないよ」 「川瀬と一緒なら、きっと楽しい」 「健気な奴」 はい終わりとドライヤーを止めると、 「ありがとう、今度は川瀬の番」 ドライヤーを手にした岸野に頭を預けた。 「熱くない?大丈夫?」 「大丈夫」 「そのままで聞いて」 「何」 「川瀬と付き合う前、大学の時に初めて 付き合った彼氏がいてね」 「うん」 「最初は優しかったんだけど、だんだん 冷たくなって。問い詰めたら浮気してた」 「えっ」 「付き合ったのは1年くらいだったけど、 大学も違ったし、自宅も遠かったから、 あまり会えなくて。寂しかったなあ」 「そうなんだ」 「だから、川瀬とこうやって髪を乾かし あったり、フツーの会話したりするのが すごく嬉しいんだ。だから、これからも よろしくお願いします」 「うん」 顔を上げ、岸野のドライヤーを握る手に 自分の手を重ねた。 「大切にする。かなり不器用だけど」 「知ってる笑」 「ドライヤー、止めていいよ」 「でもまだ、乾かしてる途中」 「いいから」 ドライヤーを取り上げ、スイッチを切った。 「川瀬?」 ドライヤーを床に置き、岸野を見つめた。 「好きだよ」 岸野の頬に触れ、顔を近づけた。 唇をついばむようなキスをすると、 岸野は小さく息を吐いた。 「僕も大好き‥‥」 岸野と抱き合い、 夢中で深いキスを交わしながら、 岸野が僕に振り向いてくださいと 願いながら飲んでいた、 アプリコットフィズの琥珀色を 思い出していた。
/3ページ

最初のコメントを投稿しよう!