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2 偏愛イデオロギー 後編<エンジェル>
安樹が突っ伏してしばらくの後、側に屈みこんで耳を澄ませた。
聞こえてくるすやすやとした寝息に、俺はくすっと笑う。
「寝ちゃったか」
安樹は確かに普通の大学生よりは酒に強いが、すぐ寝てしまうのが弱点だ。
頬を朱に染めて無防備な姿をさらしている安樹は、キスしたくなるくらいかわいい。
「少し寝かせてくるね。隣の部屋借りていい?」
「あ、いいよ」
「寝顔かわいいね、春日さん」
バスケ部が使っていた個室に運ぼうとすると、竜之介が前に立ちふさがった。
「運ぶ。貸せ、美晴」
呆れたようにため息をついた。
竜之介の耳元に口を近づけて、皆に聞こえないように囁く。
「……またその腕、折られたいか?」
竜之介の肩を押しやって道を開くと、安樹を畳に寝かせて襟元を緩める。おしぼりで顔を拭うと、安樹はくすぐったそうに口元をむずむずさせた。
「また無茶して。しょうがないな、安樹は」
金よりも淡い薄茶の髪を手に絡ませる。しっとりとしていて手に甘えるそれを、誰にも触らせたくない。
竜之介がすだれをかきあげて、後から入って来るなり言う。
「俺の家に来てもらう。勝負は俺の勝ちだからな」
俺はそれに背中を向けたまま、片眉を上げて薄く笑った。
「すんません、ここでいいんですか?」
ちょうど店員が入ってきた。俺が振り向くと、その盆の上にジョッキが三つ乗っていた。
俺はジョッキを一つ受け取ると、こくこくとそれを飲んだ。
「うわ……」
店員が引いたのもそのはずで、これはお猪口でちょっとずつ飲む日本酒だ。
これ一つで安樹が飲んだ分くらいはある。俺は薄笑いのまま竜之介を見上げて言った。
「さ、これでイーブンだ。勝負を再開しようか」
「……お前と飲む馬鹿はいない」
竜之介は難しい顔をして早々にさじを投げる。
「お前は底なしだ。父親にそっくりだ」
「受けろよ。俺の気が収まらないんだ」
俺は竜之介の胸倉を掴んで、にこにこと笑いながら顔を寄せる。
「よくも安樹に酒なんて飲ましてくれたな。いつからお前は俺に断りなく安樹を家に呼べるようになったんだ?」
腸が煮えくり返るような思いを抑えながら、俺は竜之介の襟を締め上げる。
「俺は言ったよな? 俺に何か一つでも勝てるまでは、安樹に近寄るなって。お前、勝てたんだっけか?」
「まだだ。だが」
「今日勝つと言いたいんだな? ならジョッキを取れ、リュウ」
竜之介は沈黙して、ため息をついて首を横に振った。
俺はジョッキを置いて安樹を背負う。
俺は竜之介とほとんど背が変わらない。安樹にはまだ小さくてかわいいように見えているのかもしれないが、俺の体格は女性とは違う。
店の外に出ても竜之介は後をついてきた。竜之介は苦いような声で言う。
「美晴、お前がどう邪魔をしても、安樹には一度実家に来てもらう必要があるんだ」
俺はそれを無視する素振りで歩きながら、不都合な事実を聞いていた。
「……このままじゃ、親父が動くことになる」
夜の繁華街は禍々しいネオンが眩しい。その中で背中に感じる安樹の温もりだけが優しい。
ふいに柄の悪い団体が前から近づいてきた。道を占領するように広がって歩いてくるので、俺はその顔ぶれを確認してわざとよけずに真っ直ぐ進む。
「痛ぇぞ」
ぶつかったところで、真ん中のスキンヘッドの男が低い声を出した。
俺はそれを見下ろして呟く。
「今安樹に触ったな?」
俺は道路脇に安樹をそっと下ろして、男たちに向き直る。
別段の間は持たず、おもむろに目の前の男の鳩尾に蹴りを叩き込んだ。
「こいつ!」
不意をつかれて男は吹き飛ばされる。男たちから伸びる手を避けると、近くにいた方の男を拳の裏で払って、ついでに後ろの奴の急所を蹴り上げた。
「やめろ!」
竜之介から制止の声がかかる。最初のスキンヘッドの男が竜之介の顔を見て血相を変える。
「……あ。ま、待て、おい!」
男は近くの奴の頭を殴って黙らせると、手で頭を下げさせながら竜之介に四十五度の礼を取る。
「すみません! お見苦しいところを」
「そうだな。家の者の躾くらいちゃんとしとけよ、リュウ」
俺の言い様に男が目を怒らせたが、竜之介はすぐに言葉を重ねる。
「春日の双子だ。従兄弟の」
さっと男たちの顔から血の気が引く。
恐る恐るといった様子で、男の一人が口を開く。
「じゃあそっちで寝てるのは、坊ちゃんの許婚の安樹お嬢さんですか」
その言葉に、俺の胸の奥に火が灯った。
男の腕を取って捻り上げながら、俺は顔を寄せる。
「誰が許婚だ。安樹はどこにもいかない」
俺は低い声で告げる。
「……安樹には、一生汚いものに関わらせるつもりはないんだよ」
蘇る幼い頃の誓いとともに、俺は男たちを見据えた。
五歳の頃、俺と安樹は家の前で遊んでいたところを、黒塗りの車に引っ張り込まれた。
車の中で、安樹は俺を抱きしめて考えを巡らせているようだった。俺たちは言葉こそ交わさなかったけれど、一緒に逃げる準備をしていた。
「みはる、いくよ!」
車の扉が開いた途端、安樹は俺の手を引いて走り出した。お互いの手を握りしめて、俺たちは植木の間を隠れながら出口を探した。
「どこだろう、ここ」
俺たちが連れてこられた家は東屋や池がある日本家屋で、父親の国から来たばかりの俺たちには馴染みのない作りだった。
「おうちのげんかん、いっぱいひといる」
「うらぐち、いこ。おじいちゃんのいえもうらぐちあった」
人の気配のない方向に少しずつ移動しながら、俺たちは小さな体をますます小さくしていた。
足が疲れるくらいに歩いた。都内にこんな広い家があるのを不審に思うことは、当時の幼さでは無理だっただろう。
日が暮れて灯篭だけが頼りになっても、俺たちは出口をみつけることができずにいた。
春先とはいえ、日が落ちると暖かさは消え去っていた。
「みはる、さむい?」
安樹は泣かずに、俺に上着を脱いで着せ掛けようとした。安樹は俺を守ろうと一生懸命で、俺の前で弱い自分を見せようとはしない。
「くっついていればさむくないよ」
俺は安樹とぎゅっと肩を寄せ合うようにしてうずくまった。
「みはるはあすがまもってあげる」
安樹は自分の名前を、舌足らずに「あす」と言っていた。その言い方を聞くとつい頬が緩んで、俺も同じ呼び方をしていた。
「だいじょうぶだからね」
安樹は俺の手を握り締めて繰り返し呟いた。
「みはるがあんまりかわいいから、ゆーかいされちゃったんだよ。きっとすぐ、おうちにかえれる」
きっとあんまり安樹がかわいいから誘拐されてしまったのだろう。何とかして家に帰ろうと、俺は思っていた。
「まだ見つからないのか! 子ども相手に何をやってる!」
怒声が聞こえて、俺と安樹はびくりと肩を竦ませる。茂みにすっぽり収まるように目だけを覗かせて、二人で家の中をうかがう。
「申し訳ありません! 必ず連れてきますので!」
和服姿の大柄な男が、ずっと年上らしい男たちを怒鳴っていた。
和服の男は肩幅が広くて服の上からもわかるくらい引き締まった体つきをしていて、目つきが震え上がるくらいに怖かった。
あの怖い人はきっと俺たちを食べてしまうんだ。そんなことを考えて俺たちは無意識に後ずさって、音を立ててしまった。
和服の男はもう一人で、こちらに目を向けて庭に下りてきた。
安樹は俺の手を引いて逃げ出そうとしたが、二人とも長く座っていたので足がもつれてしまう。
一緒に転んでしまって、その間に追いつかれた。
男は迷いなく安樹の方を抱き上げた。それは案外に優しい手つきだった。
「はるか」
男の口から漏れた名前が、一瞬俺はわからなかった。眼光が鬼のように怖かったのに、安樹を見下ろす目は甘かった。
「う……わぁぁん!」
だけど安樹は耐え切れなくなって泣き始める。安樹は本来ひどい人見知りで、俺の手を握っていないと知らない人と話すことすらできなかった。しかも怖そうな男に抱っこされてしまって、こらえていたものが溢れ出したらしかった。
「はるか、ああ、痛かったか。よしよし……いい子だから泣くな」
転んですりむいた足を見て、男は安樹の頭を撫でながら宥める。
俺はたっと走っていって、男の袖を力いっぱい引く。
「あすちゃんをかえせ!」
こいつが誘拐の親玉だと思って、必死で食いついた。
男はそんな子どもの力にはまるで動じることなく、安樹に対するのとはまるで違う、興味のなさそうな声で言った。
「お前が美晴か。はるかには全然似てないな」
何度か男が口にした名前の正体を、俺はこの時ようやく気づいた。
「遥花……は、おかあさん」
俺たち二人の母さんの名前をぼそりと呟くと、男は目を細めて頷く。
「俺は遥花の兄だ。お前たちのおじさんだよ」
恐れを忘れたのは一瞬で、声を聞きつけたのか隣室から男たちが入ってきた。
「オヤジ、さっきの声は」
「ああ、みつかった。もう問題ない」
和服の男は面倒そうに俺を示す。
「美晴は返してこい。傷はつけるなよ。遥花の子だ」
まだ泣き止まない安樹の頭を撫でて、俺たちの伯父を名乗る男は安樹に笑いかける。
「遥花が確保できればいい」
俺は直感で気づいた。この人は俺たちの母さんが好きなのだと。
「はなせ! あすちゃんといっしょにかえるんだ!」
母さんにそっくりな安樹を自分のものにしようとしている。それは絶対に許してはいけない。
男は淀みなく俺の言葉をはねのけた。
「遥花はここで暮らす。ここは遥花の家だからな」
「……おかあさんはもういない!」
俺は声を張り上げて、きっと男を睨みつけた。
「お、おかあさんは……しんじゃったんだ……」
本当はこのことを口にしたくなかったから、語尾が震えた。
安樹が驚いて俺を見る。ぽたぽたっと、その目から涙が落ちる。
「みはる? おかあさんは、りょこうだよ?」
俺は首を横に振って否定する。
「おかあさんはいくらまっても……かえってこない」
安樹は母の死をわかっていなかった。まだ幼くて、誰も教えることができなかった。
ごめんなと言って泣いた父を、安樹は見ていなかったのだから。
相手にする必要もなかった子どもの言葉に、男が初めて怒りを見せた。
「連れて行け」
男の目に淀んだ光が宿る。俺は部下らしい男に抱えられて安樹から引き離される。
「はなせよ! おまえなんかおじさんじゃない! わるいひとだろ!」
俺は安樹をじっとみつめて言う。
「あすちゃん、このひとわるいひとだよ! にげよう!」
安樹のまんまるで澄んだ瞳がぴくりと動いた。
「みはる!」
安樹は暴れ出して、一生懸命俺に向かって手を伸ばす。けど男の力には敵わなくて、簡単に腕の中に封じ込められてしまう。
「やだ、やだやだ! みはるとかえる!」
安樹はそれでもじたばた暴れる。
俺の片割れは俺の言うことを何でも信じる。だから一度俺が何か告げれば、安樹は絶対にそれに疑いを持ったりしない。
「あんじゅ!」
俺は抱えられたまま部屋の外に追いやられようとしていた。声を張り上げて安樹に伝える。
「わるいやつは、みはるがぜんぶたおしてやるから! ぜったいむかえにいくから!」
俺の言葉に、安樹は何の迷いもなく答えた。
「うん! いっしょにかえる!」
それが今まで安樹に守られてばかりだった俺が、初めて安樹を守る決意をした瞬間だった。
安樹を背負ったまま、俺は夜の街を帰路についていた。
まだ眠りの中にいる安樹は時折俺に擦り寄るように頬を動かす。俺はそれに頬を緩めて、起こさないようにゆっくりと歩みを進める。
「よかったんですか」
路地裏から聞こえた声に、俺は足を止めたが顔は向けなかった。
「竜之介とは対立しない。姐さんとの約束だ」
裏の世界に生きる住人とつながりを持つようになって、もう何年になるだろうか。
その誘拐事件で俺たちを助けてくれた人は、今も俺たちを見守ってくれている。
「俺と安樹の未来のために」
そっと安樹を背負い直して、俺は言う。
「……姐さんによろしく」
安樹が天使のようだという微笑みを、俺は闇に送った。
マンションに戻ると、俺は安樹をベッドに寝かせてその横に腰掛けた。前髪をかきあげると、安樹の瞼がぴくりと動く。
「起きた?」
すぐにでもまた眠ってしまいそうな目で、安樹はぽやんと俺を見上げる。
金髪より太陽の色に近い、優しい髪の色と琥珀に近い大きな瞳が俺を見る。鼻は高すぎず低すぎず、唇は桜色をしている。安樹は俺の万倍かわいい。
――お前たちの名前は、両方とも天使を由来にしてるんだよ。
いつだったか、父がそう教えてくれたことがあった。ミハイルとエンジェル、それが父の国での俺たちの名前だ。
俺は安樹の頭をなでながら彼女を諭す。
「無理して飲んじゃ駄目だよ。あすちゃん、そこまでお酒に強くないんだから」
「うん……」
自分が天使だなんて笑ってしまうけど、安樹についてはその通りだと思う。容姿もだけど、安樹は心がまっさらで綺麗なのだ。
「リュウちゃん、今日は家に来なくていいって。僕がお願いしたら聞いてくれたよ」
「そうなんだ」
「もう。いくらリュウちゃんが喧嘩腰だからって、簡単に乗っちゃ駄目。リュウちゃんはあすちゃんが嫌いだから、ひどいことばっかり言う」
「うん、うん」
俺の言うことを何でも信じてしまう。俺が刷り込んだおかげで、竜之介は単純に自分に悪意がある存在だと思っている。実際は、男社会で育ったから考え方が古風なだけで、あいつ自体は悪い奴じゃない。
「周りが何を言っても、リュウちゃんなんて気にしないんだよ」
「わかってる」
今でも、俺のことは守ってやらなければいけない小さな存在だと信じて疑わない。
「なぁに?」
くすっと安樹が笑ったので、俺は首を傾げる。
「ミハル、今日はおにいちゃんみたいだ」
俺はそれに一瞬だけ言葉を失って、すぐに微笑み返す。
「うん。そうだよ。今だけ、僕がおにいちゃん」
俺の方が先に生まれてきたから、父は俺を兄として届けている。俺も、安樹は妹という認識で生きてきた。
普段は弱くかわいい弟のように振舞っているけれど、安樹が弱っているときは俺が彼女を守ってきた。
――あすちゃんは変じゃないよ。
ねえ、安樹。君が知らないだけで、君の周りはとても複雑で奇妙な関係が広がってるよ。
けど、何が普通かなんて誰にも決められやしないのだから。君が好きな普通の中で生きればいい。俺がそうできるように周りを作り上げてあげるから。
「おにいちゃん。キスして」
酔いにまかせて、安樹が手を伸ばす。とろけるような笑みを浮かべている。
「はいはい」
だけど、安樹は俺が好きで、俺も安樹が好き。これ以上純粋な関係はないはずだろう?
俺は屈みこんで、俺の天使とキスを交わした。
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