3 フェロモン星人の逆襲 前編<龍二>

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3 フェロモン星人の逆襲 前編<龍二>

 一月ほど前から、私はバスケの夜練と称してバイトをしている。 「準備終わりました。確認していただけますか?」  場所は銀座にある高級クラブ、「初音」。ここのママをしている友達のお母さんから、声をかけられたのが始まりだった。 「安樹ちゃんは本当によく働いてくれるわね」  鈴子ママは着物の似合う日本美人だ。とても大学生になる娘を持つ母とは思えないほど若く見える。 「ねえ、ママのお願い聞いてくれるかしら?」  つぶらな黒い瞳で見上げられて、私はいつもの断り文句を切り出した。 「すみませんが、私にお姉さん方の真似はできそうもないです。力仕事なら大歓迎ですけど」 「そうかしら。安樹ちゃんを呼んでほしいっていうお客様はたくさんいらっしゃるのに」 「女なのにボーイの格好してるのが面白いんですよ」  私の仕事はここのクラブのボーイ。黒服をきっちり着込んで髪を撫でつければ、背が高いこともあって男に見える。  ここでバイトをしているのは、鈴子ママがボーイでもいいからと熱烈に勧めてくれたことが一つ。  そして現在お金を早急に貯めたい私にとって、鈴子ママの言うバイト代がとても魅力的だったことがもう一つの理由だ。  ホステスのお姉さんたちがやって来る時間になって、お姉さんたちは私の頭をぽんぽんと撫でていく。お姉さんたちは、店の格式かママの人望のおかげかみんな優しい。 「会長さんに、十四日までには食事に誘ってもらえるくらいにならなきゃ」 「香水替えた?」  イベントが近いからか、お姉さん方の目の色が違う。皆さん綺麗だから一緒に過ごす相手はいくらでもいると思うけど、売れっ子はその程度じゃ満足できないようだ。 「安樹はどのお客さんが好きなの?」 「え、私ですか?」  私はシャンデリアの埃を払っていた手を止めて振り返る。 「私はボーイですよ。壁と同じです」 「そんなことないわよ。安樹が給仕しに来ると絶対振り向いて見てるもの」  それは物珍しいだけだろうと思う。  私はイベントが近いからと、一緒に過ごす相手を探すつもりもない。このバイトだって、今年のイベントでミハルにプレゼントを贈るためにお金を貯めているのだから。  開店時間になって、私は給仕や雑用にとりかかる。和洋折衷のお洒落な内装は、一室ごとが広く取られていて、店内とはいえ結構歩き回らないといけない。  精神面でもかなり気を遣う。扱う物がいちいちびっくりするほど高かったり、お客様が新聞に載るような偉い人だったりする。最初の内はお盆を持つ手が震えたくらいだ。 「安樹。あなたをご指名よ」  そして最大の理由は、このご指名だった。 「……今日は休みだと言ってくださいませんか。シフトが変わったとか」 「せっかくいらっしゃったお客様よ? 行きなさい」  私は頭を押さえて頷くと、奥の部屋に重い足を向ける。  給仕をしに行った際に声をかけてくださるお客様ならいる。だが信じられないことに、私を指名する奇特な方がいる。 「失礼します」  ノックをして扉を開けると、ソファーに掛けている男性の姿が最初に目に飛び込んできた。  長身で肩幅が広くて筋肉もしっかりついている無駄の無い体つきに、たいていの女の人は振り向くんじゃないかなという整ったお顔をお持ちだ。四十は回っていると思うが、いい具合に深みのある年の重ね方をしている。実は毎回微妙に違う高そうなスーツもよく似合う。  私も初めて見た時は息を呑んでまじまじと見てしまった。たぶんこの人の欠点は目つきが鋭すぎることくらいで、後はどこを取っても文句なくかっこいい大人の男だ。  ……ただ、それはそれとして問題が一つある。 「はるか」  鋭い目がふっと和らいで私を捉える。  隣には日々取り合いがされている鈴子ママがいるというのに、私などを呼んで座らせようとする。 「こっちにいらっしゃい」  私が困ってママに視線を送ると、彼女も軽く手招きした。帰らせてもらいたかったのだけど、こうなると私に選択権はない。  意を決してお客様の横に座る。できるだけ間を置いて座ったが、ひょいと腰に手が回されて引き寄せられた。  この人本当に四十台か? 片手で私の云々キロを持ち上げるとは。 「膝に乗りなさい」 「すみません、私重いですから」 「重い? まさか」  感心している場合ではない。軽く腕の中に抱かれている状態だ。スーツと香水と何だかわからないけど男っぽい匂いがする。血が頭の方にぐんぐん上がる。 「……はるか?」  あわわ……耳元で囁かないでください。  この人に話し掛けられると背筋がぞくぞくする。これは、悪寒?  私は慌てふためいて問いかける。 「あの、今日はどうして」 「はるかに会いに来た」  なぜ私のシフトの日に必ずいらっしゃるのだ。それとも毎日いらしているだけなのか。だとしたらいつ仕事をしていらっしゃるんですか。 「仕事なら今日はもう終わったぞ」  今私の頭の中読みましたね? 考えた途端ジャストで答えが返ってきましたよ。 「あの、浅井さん」 「龍二(りゅうじ)だ」  至近距離で私を見下ろしながら、彼は目を細める。 「はるかにはそう呼んでもらいたい」  艶めいた声がとっても怖い。我慢していなければ震え出している。  この私にとってまるで理解できない艶ボイスの人がやって来たのは、大体十日前にさかのぼる。  バイトに徐々に慣れてきた頃、その人は唐突にやって来た。 「安樹ちゃん。これ奥に」 「奥ですか。はい、気をつけます」  その日、一番いい席の給仕を任されて、私は緊張しながらお盆を運んでいた。  ノックをして扉を開いた途端、思わず一歩立ち止まった。  鈴子ママがいて、売り上げトップの奈々さんと次点の栞さんが左右に控えているという、実に豪華な布陣だった。  どんなお金持ちさんだろうと思ったものの、じろじろ見るのは失礼なので話の邪魔にならないように最小限の動きで飲み物を置いた。  ところが一礼して踵を返そうとした私に、一言声がかかった。 「ボーイの君、名前は?」  もう一人ボーイがいてくれればいいなと現実逃避気味に顔を上げたけど、当然そんな架空の人物は現れてくれるはずもなく。私は自分に問われたのだと認めるしかなかった。  お客様はその迫力ある壮年の男性と、いくらか若いくらいの細身の男の人だった。どこかの社長さんとその秘書さんかなと思いながら、私はふと気づく。  ボーイだからと油断して、源氏名を考えていなかった。しかし本名をさらすわけにもいかない。 「は、はるかです」  ごめん、お母さん!  とっさに母の名を口にした私に、秘書らしき男の人はぎょっとした顔をした。  首を傾げた私に、社長さんらしき男性は微笑んだ。  怖そうな目つきの人だけど、こんな風に柔らかく笑うこともできるんだと驚いていると、彼はソファーから背中を起こす。  その動きは奇妙にゆっくりで何というか……そう、色っぽい感じだった。  そこで全速力で逃げればよかったように思うのだが、まだこれから起こることを知らない私はちょこんとそこで待っていた。  彼は手招きして、子どもをあやすように言う。 「はるか。おいで」  異議あり! 心の中で盛大に唱えた。  なんてもったいないことを。両手にこのクラブトップの花たちが咲き乱れてるのにボーイを呼んでどうするのか。あ、ひょっとして私のこと男だと思って? 待て待て、男ではるかはない。 「座るところがないな。出てくれ」  えっ、本気で追い出す気ですか、奈々さんと栞さん。二人とも立たないで、ああ、ママまで腰を上げて。 「あ、いえ。私は入ったばかりのボーイです。下がらせて頂いても構いませんか」 「駄目だ」  即答されてしまった上、声がすさまじく低くて迫力があった。 「でも私はお客様と話す機会がないもので、とてもお相手は務まらないかと」 「仕方ない。じゃあ鈴子だけ残ってくれ」  妥協点でママだけ残ってもらえることになったものの、どうしたらいいかはさっぱりわからなかった。  すれ違いざまに奈々さんが笑いながらウインクした。私は一緒に出て行きたいと思いながら、後ろで閉まる扉の音をうらめしく思う。 「わ」  気づいたら目の前にその男性は立っていた。私の手を引いて自分の隣に座らせる。 「はるかは何を飲む?」  お品書きを出されたので、私はママをうかがった。鈴子ママは微笑してそっと言葉を挟む。 「はるかちゃんは真面目なので、勤務中には飲まないんですよ」 「そうか。じゃあ食べ物ならいいんだな」 「い、いえ。お客様にお出しするものを頂くのは失礼なので」  慌てて否定すると、彼はひょいとテーブルに手を伸ばす。 「私ははるかに食べてもらいたい。ほら」  差し出されたのはくしに刺したイチゴで、私は目が点になる。  実はいつも厨房で、イチゴおいしそうだなぁ、さすがママが選んでるだけあると感心していた。 ――どうぞ。あーん。  そしてそれを綺麗なお姉さんに食べさせてもらえるのだから、お客様ってうらやましいと思っていたりもした。 「あ、ありがとうございます」  私がくしを受け取ろうとしても、彼は何かを待っているようにくしを手放そうとしない。 「口を開けろ」  ……私がやられる側なんですか?  軽いめまいを覚えながらも、口に押し付けられるイチゴに、これも従業員の使命だと思い切って口を開ける。  イチゴは確かにおいしかった。でもこんな状況じゃなければもっとよく味わった。飲み込むように食べてしまったのがちょっと惜しかった。 「もう一つ」 「あの」  全部食べさせるつもりの彼を留める意味をこめて、私は話題を逸らすことにした。 「お客様を、私は何とお呼びすればいいのでしょう?」 「そうだな。はるかにお客様としか呼ばれないのは悲しい」  彼はくしを置いてくれた。でも、やったと心の中で大満足したのは一瞬だった。 「こういう者だ」  渡された名刺に私は絶句する。  それが企業に詳しくない私でも知っている超有名な大企業の社長だったらどうだろう。金融業から不動産業、ITといった幅広い分野を扱っているところだった。新聞でも見かけたことがある。 「こ、ここの社長さんですか」 「名前の方を見てもらいたいのだが」 「あ、はい! 浅井さんですね」  名前は浅井龍二。一瞬、浅井の苗字に幼馴染の竜之介のことが浮かんだけど、珍しくない苗字だ。 「龍二だ」 「え、龍二さん……ですか?」 「そう」  部活で名前呼びは慣れているが、社会人でそれは珍しい。龍二さんが嬉しそうに目元を和らげたので、まあそれでいいならと納得する。 「ここには何度か来ているが、はるかを見たのは初めてだ」 「そうですね。臨時で入ってますから」 「臨時? いつまで?」 「あと二週間くらいです」 「ふうん。二週間、ね……」  龍二さんは再びイチゴに手を伸ばす。今度は自分で食べるのかなと思ったら、また私の口の前に差し出した。 「……あの、逆のような気がするのですが」 「はるかがやってくれるのならそれもいいな」  秘書らしき男性は緊張した面持ちで声を上げる。 「か、会長」  あれ、社長じゃなくて会長? いろんな会社を経営していらっしゃるのかな。 「何だ」  龍二さんは冷ややかな目を向けた。うわ、一気に目の色が絶対零度まで冷えた。 「よろしいのですか?」 「はるかが食べさせてくれるというんだ。何か問題があるか?」 「いえ、何も」  秘書らしい男性は驚愕の目で私を見ている。そうは言われても、ふざけてこられたのはこちらの御方で私は何もしていない。 「では、どうぞ」  お姉さん方がやっているのを真似て、私は会長さんもとい龍二さんの口元にイチゴを運ぶ。  それを彼は一口で口の中に入れて……ついでに私の指まで含んだ。  ……うわぁ、指食べられたぁ!  幸いなことに歯は立てられなかったけど、ぺろ、と舐められた。その時の表情が、心臓が止まるかと思うほどの色っぽさで、でも全然いやらしくないのが不思議だった。 「な、な、な……」  私はくしを取り落として手を引っ込める。 「ああ。おいしそうなものが目の前を通ったのでつい」  彼は悪びれずにさらっと答える。私はたぶん耳まで真っ赤になりながら震えていた。 「私が来る時は必ずはるかがつくように」  そんな私の頭を抱いて撫でながら、彼は低く艶めいた声で言ってくる。 「な、私が何をしたというのでしょう」 「はるかが気に入った」  彼は優しいような命令を私に下す。 「約束だぞ」  結局どうしてだか全くわからないまま、この日から決まった時間になると龍二さんは現れることになったのだった。  接客業って過酷なんだ。龍二さんが現れてから、遠い目をして納得した。 「大学はどうだ?」 「今日はサークルでボランティアの準備をしてきました」  話自体はありふれたものだけど、体勢が普通じゃない。  肩に腕を回されて頭を抱かれている状態、これが基本姿勢だというから寒気が収まらない。  どうしてお店のお姉さんにやってくれないのか。その腰に来る囁き一発で落ちるに違いない。それとも私の修行が足らないだけなんだろうか。 「はるかは保育士になりたいんだったな」 「そう、ですね……まだ夢ですけど」  それはともかく、客であるはずの龍二さんの方がむしろ私から話を引き出してくる。  身近な関係じゃないという利を生かして、込み入った話にもがんがん触れてきた。 「一週間前にもボランティアに行っていたな。熱心だ」  私は苦笑してうなずく。 「子どもの成長にどう関わればいいのかとか、保護者の方との関係とか、勉強しておくことは山ほどありますから」  好きという気持ちだけではできない仕事だとわかっている。それでも、子どもの成長を手助けする仕事がしたい。 「意外に感じる。はるかは、見た目では女性的じゃないからな」 「そうですよね」  私が保育士になりたいというと、親しい友達でもイメージが違うと驚くことも多いけど、家族は背中を押してくれている。 「……綺麗すぎるからかな」  髪を撫でられてぎくりとなる。でもこの人、胸とかそういう助平なところは絶対触らない。だからなんでもないところ、たとえば手とか頭とか触るだけでぞくぞくさせられるのが不思議なんだけれども。 「い、いえいえ。まさか」 「はるかはかわいい」  うわぁ! 唇を親指でなぞられたぁ!  慌てふためいて体を離すと、案外あっさり腕から解放してくれる。龍二さんはゆったりと話を続けた。 「こんなかわいい子はいない。鈴子もそう思わないか?」 「同感ですねぇ」  私が泣きついたので一応鈴子ママだけは同席してくれる。でも微笑んで龍二さんに同調するだけで基本的に助けてくれない。  ふと腹部が引っ込む感触があって、きゅるる、とお腹が鳴った。 「……す、すみません」  私は赤面して頭を抱えた。  運動部所属の私は、この時間になるとお腹がすいて仕方がない。家にいれば夜食を作ってくれる人がいるけど、隠れてバイトをしている身でお弁当を作ってもらうわけにもいかない。  龍二さんはさほど驚かず、朗らかに言った。 「ちょうどいい。何か食べに行くか。おごるぞ」 「えっ!」  おごり、それは天からの贈り物……だけども、ちょっと待ってほしい。 「いえ、私は従業員ですし」 「鈴子も行く。そうだな?」  ママがおっとりと頷く。え、それじゃ行くこと、ほとんど決定なのでは? 「何が食べたい?」 「え、選んでいいんですか?」 「もちろんだ。はるかが好きなものでいい」  私は頭に点滅した言葉をぱっと口にしていた。 「ごはん!」  龍二さんの目が止まって、せめてライスにするべきだったと反省した。 「え、えと」  でもごはんはごはんで。父親は日本人じゃないけど、私は小さい頃からおかずなんていらないくらいに米が大好きだった。 「はは!」  弾けるように龍二さんは笑い声を立てた。それを見ていつも微笑を欠かさないママはびっくりした顔をして、私も、ああこんな大人の方でも声を上げて笑うんだと思った。 「わぁ!」  私の頭を胸におしつけて、まだ楽しそうに肩を震わせながら龍二さんは言う。 「ああ、わかった、わかった。ごはんにしような、はるか」  子どもをあやすように言って、龍二さんは私の頭を撫でた。  お店を出たら運転手付きの黒い高級車が待っていて、私は緊張しながら隅っこに座っていた。  時間にして数十分、まだ銀座から出ていないうちに車は止まって、そこは女性服のお店だった。ママが洋装に着替えるんだと思って後ろをついて行ったら、なぜか私が店員さんに取り囲まれた。 「え、ええっ? 食事に行くんじゃないんですか?」 「そうだ。はるかは腹が空いてる。急げ」  何が何だかわからない私を試着室に導いて、店員さんたちは三人がかりで黒服を脱がせにかかった。 「ちょっ、あの! 制服で行けない場所なら私はやっぱり遠慮させてもらえませんか!」 「はるかが行かなくてどうする。鈴子、手伝ってやってくれ」  龍二さんに言われて、ママがワンピースを手に入って来る。しかし広い試着室だった。私を含めて五人もいるのに狭く感じない。 「着てちょうだい。でないと私、浅井さんに怒られてしまうわ」  ママはなんだか楽しそうに私の着せ替えに参加する。  あてがわれたワンピースには値札がなかった。そもそも銀座の大通りという立地条件から考えて、庶民の私が手に出来るような商品じゃないことは確かだ。  およそ五分で完成した私の姿を見て、龍二さんは満足げだった。 「やはりはるかは白が似合う」  白いワンピースはシンプルだけど生地が羽みたいに軽い。パーティドレスとしてでもちょっとお洒落なレストランに行くのでも通用しそうなものだった。それに揃えてヒールも白、ネックレスはちょっと大人っぽく紫、整えられた髪に差し込んだ髪飾りも紫だ。 「なんだか……男の子が女装しているように見えませんか」  制服以外のスカートなんて着たことがないし、アクセサリもヒールも初めましての状態だ。恥ずかしくてとても目を合わせられない。 「まさか。背が高いし色が白いからよく映える。外に出すのが心配だ」 「そうですよ。よくお似合いです」  店員さんも同調する。うう、無理して褒めなくていいですよ。 「行こうか」  結局その服装で決定されて、さらにコートまで羽織らされて食事処に連れて行かれた。  郊外に佇む一軒屋に車が横付けされた。私は歩きなれないヒールに戸惑いながら二人についていく。  席についたらすぐにお膳が運ばれてきた。 「わ……あ」  湯気を立てているのは、つややかな黄金色の米が輝く釜飯だった。お腹をますます引っ込める香りが上って来て、私は目を丸くして硬直する。 「あ、あ、あの」 「ここでおあずけといったらどんな顔をするかな」  たぶん私の目は子どものように潤んでいた。龍二さんは口の端を上げる。 「食べなさい」 「ありがとうございます!」  私は箸をさっと構えると、震える手を押さえながらすくいあげてご飯を口にいれた。  体の中心が痺れるような味わいに香ばしさ、まさに絶品だった。  ぱくぱくとしばらく無心で箸を進めた。おいしいよう、ミハルにも食べさせてあげたいと切に願った。 「気に入ってくれたか」 「はい!」  勢いよく頷いた私に、龍二さんは微笑んで手を伸ばして頭を撫でた。  正面に座られたので、いつものように密着しないで済む。目の前にはおいしいご飯、すばらしいロケーションだった。そんなわけで、私は恥ずかしいスカート仕様でもそんなに緊張しないでいることができた。 「はるかは一人暮らしか?」  だからうっかり、結構重要なことをぽろっと口にしていた。 「あ、いえ。弟と、父の恋人の三人暮らしです」 「大学生になったし、一人で暮らしてみたいとは思わないのか?」 「そうでもないですよ」  私は一緒に暮らす二人を思い出して自然と微笑む。 「父の恋人はほとんど母親みたいな人ですし、弟は……いなければ私が寂しいですから」  ミハルがいるからどんなことでも頑張れる。私にとってエネルギーの源だ。 「父親が再婚したら、それとも弟が一人暮らしをしたいと言い出したらどうする?」  それは龍二さんにしては珍しく、突っ込んだ言葉だったと思う。私の恐れている未来を的確に貫いてきた。 「……そうなったら、私も一人暮らしになりますね」  私は目を伏せて口元を歪ませる。二人がいなくなる、それは私にとって一番寂しい想像だったけど、考えていないわけじゃない。 「はるかは家族思いの優しい子だな」  頬に触れられて顔を上げさせられる。私の内心をみつめるような鋭い瞳と視線がぶつかる。 「少しずつ準備するのはいいことかもしれないな」  龍二さんは手の甲で頬を撫でた。また得体の知れない悪寒が来る。 「一人暮らしにいい物件を知ってる。はるかに安く貸そうか?」 「え」  突然の降って湧いた話に私は瞠目する。 「い、いえ。そこまでして頂くわけにも」 「大学に近いし、セキュリティもしっかりしてるぞ。見晴らしもいい」  龍二さんは扉の方に声をかけると、秘書らしい男の人がファイルを持ってきて差し出す。  一目見て私にもわかった。これは半端でなく高い。  今家族で住んでいるマンションより広いくらいで、地上三十階、立地も高級住宅街ど真ん中だ。 「すみません、私にはとても無理です!」  ろくに素性も知らない小娘にするには、この提案はあまりに怖すぎる。危険を感じ取って私は腰を上げかけた。 「はるかに買わせようとは思ってない。ここは私のものなんだ」  龍二さんはやんわりと私の手を握って座らせる。 「特別にはるかの言い値で貸すだけだ。いずれはるかのお金が貯まったらあげよう」 「いや、その」 「いきなりこんな話を持ちかけられたら困るだろうから、鈴子を連れてきた。私の身元と誠実さを保証してくれるようにな」  私が横目でママを見ると、ママはおっとりと微笑む。 「浅井さんは冗談でこういう話をする方じゃないわよ」 「でも、私にこんな……」  先ほどの食事の感動も吹き飛んで私が顔をしかめると、龍二さんはファイルを手元に戻す。 「これは私の好意の表れだと思ってほしい。気が向いたらいつでも言うといい」  押し付けてきたら私も拒否してそれで終わりにできるのに、龍二さんはそれをさせてくれなかった。 「さて、デザートでも取るか。食べるだろう?」  ……宇宙人みたいに、この人の考えていることが私にはまるでわからない。  私はうろたえながら、もう運ばれてきたデザートを呆然と見ていた。  たぶん一時を回って終電もない頃、私たちはお店に戻ってきた。  今日はほとんどバイトをしていないからバイト代要りませんと言ったら、ママは困ったように私に笑った。 「駄目よ。浅井さんに怒られちゃう」  龍二さんが怒ったところは見たことがないけど、ママはよく怒られちゃうと言うからそういうこともあるのだろう。  服やヒールの類をお店のお姉さんに譲るようにお願いしたら、ママはそれもお店で預かるけど人にはあげられないと言っていた。  家まで送られそうになったところを丁重にお断りして、私はどうにかお店の前で降ろしてもらった。 「わ、すみません!」  ヒールがひっかかって転びそうになったところで、龍二さんに腰に手を回されて支えられた。  背の高い人だと今更ながらに思った。私がヒールを履いてもまだ私より高い。この人と並べば私も何とか女に見えるかもしれない。 「そう見るな。帰したくなくなる」  龍二さんは私の耳に口を寄せてそんなことを言った。  血流が急上昇する。この人の声は心臓に悪い。悪寒といい、私の体質に確実に合っていない。 「で、では、今日はありがとうございました」  早く帰ろう。ミハルはもう寝てるだろうけど寝顔を見て和もう。  私は龍二さんから顔を背けて一礼すると、踵を返して……そこで足を止める。 「あ……」  華やかなクラブが立ち並ぶ道の向こう側を、見慣れた銀髪の男の子が歩いていた。  ミハル。思わず口の中でそう呟きそうになって、すぐに引っ込める。  毛皮のコートに身を包んだ女性がミハルの腕に腕を回して歩いていた。  ミハルと女の子がこんな時間に夜の街にいる。そのことの衝撃が強すぎて、時間が止まったような気がした。 「はるか?」  ミハルだって大学生の男の子なんだから、年頃なんだから、そう言い聞かせるけど、私は目からぽとぽとと落ちるものを止められなかった。 「えっく……」 「どうした、はるか。何があった?」  子どものように泣き出した私を覗き込みながら、龍二さんが優しく尋ねる。 「みはるが……女の子と……」 「ミハル?」  龍二さんは周りを一瞥して、もうだいぶ離れていたミハルの姿を捉える。  私ってミハルの容姿のことを話したっけ。一瞬そう思ったけど、抱きすくめられて息を止める。 「このまま連れ去ろうか、はるか?」  私はなかなか泣き止むことができなかった。足元から冷気が這い上がってくるようだったけど、根が生えたようにその場を動けなかった。  おずおずと私が体を離すまで、ずいぶんと長い間、龍二さんは側にいて慰めてくれていた。  三日後、控え室で着替えていた私に、鈴子ママが心配そうに尋ねてきた。 「顔色が悪いわよ。無理して来たの?」  ミハルが女の子と歩いているのを目撃してから、眠れない日が続いていた。  あの日、家に帰るとミハルは自分のベッドで眠っていた。でも私がミハルの姿を見間違えるとも思わなかった。  帰ってもいいのよと言うママに一礼して、私は仕事に入った。  まずは掃除だと腕まくりをしながら廊下に出たら、同じようにバケツを持った男の子が歩いてきた。 「……え」  ミハルが黒服を着こんでそこに立っていたことに、私は思わず目を見開く。 「ど、どうしてここに」 「ゆーちゃんから聞いたんだ。あすちゃんがここでバイトしてるって」  鈴子ママの娘である由衣(ゆい)は高校からの友達で、ミハルもよく知っている。しまったと私は心の中で焦った。  ミハルはにっこりと笑って黒服の胸の辺りを叩く。 「楽しそうだから僕もやってみようと思って。あすちゃんと一緒にバイト、してみたかったし」  うきうきしながら言うミハルに、私は慌てて止めに入る。 「駄目だ、ミハル。変な奴に目をつけられたらどうするんだ。男だからって安心できる世界じゃないんだぞ」  こんなかわいいミハルが目をつけられないはずがない。私が顔をしかめると、ミハルはすねたように口をとがらせる。 「やだ。僕もやる」 「ミハル。頼むから」 「あすちゃん、僕に黙ってバイトしてたもんね。僕もあすちゃんの言うこと聞いてあげない」  つんと顎を上げてミハルは意地悪く言い切った。  ミハルは一度決めると頑固だ。私が困り果てると、ミハルはふいに私の顔を覗きこんでくる。 「大丈夫? 夕ご飯も残してたし、調子悪いんじゃない?」  誰のせいだと思ってるんだと、私は眉を寄せた。 「ミハルを残して帰れるわけないだろ」  私の方も意固地になって、ふんと鼻を鳴らす。 「あすちゃん。無理しちゃ駄目だってば」 「私のことなんてどっちでもいいだろ」 「何で怒ってるの? 僕がバイトするの、そんなに気に入らない?」  ぐっと言葉につまって心で問いかける。  ミハル。恋人ができたのか? もう私だけのかわいいミハルではいてくれないのか? そんな質問をぶつけたいけど、すんでのところで踏みとどまる。 「……何でもない」  私は何か言おうとしたミハルから目を逸らして、逃げるように仕事に向かった。今はそうすることしかできなかった。
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