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4 フェロモン星人の逆襲 後編<楓>
ある休日の昼下がり、安樹と俺が二人でいつものように駅前で買い物をしていたときのことだった。
安樹がふいにショーウインドーの前で立ち止まったので、俺も数歩歩いてから戻ってくる。
「いいものあった?」
そこは珍しい輸入品を扱う店で、安樹なら普段は通り過ぎてしまうところだった。
「何でもない。行こ、ミハル」
安樹は俺の袖を引いて先に歩き出したけど、俺はさっきまで安樹の視線の先にあったものを見ていた。
それは琥珀と碧玉の宝石のついた、アンティークの時計だった。
男女どちらでも付けられそうな作りで、戻ってきて横目で安樹を窺うと、彼女は眉根を寄せて難しい顔をしていた。
「あすちゃん。あれ欲しいの?」
アンティークを買うのは、大学生の財布ではきつい。
「ち、違うよ。私に似合うわけないだろ」
「そんなことないと思うけど」
「今日はミハルのリボンを見に来たんだから。ほら、忘れて」
俺の肩をぽんと叩いて、安樹は俺の袖を引っ張った。
「わかった。行こっか」
俺はさりげなくその手をつなぎ直した。照れたように安樹は口元をむずむずさせながら、ぎゅっと握り返す。
今はデートだから忘れるけど、また思い出す。
来るイベントに贈るプレゼントの決まった瞬間だった。
イベントが近いので、俺は割りのいいバイトを始めることにした。
「これ五番テーブルね。レオ」
銀座にあるホストクラブ、「Avalon」で、俺は父親の名前を借りて「レオ」として働いている。
夜の仕事だから時給が高いし、最近部活で遅い安樹に隠れてバイトするにはもってこいだ。
給仕を終えて戻ってくると、仕事仲間のホストが待っていた。
「レオ、やけに馴染んでるけど経験者?」
「三日もすれば慣れますよ」
先輩たちが言うことには、入ったばかりだとお客様の肩書だとか店の備品の高さに緊張してしまうらしい。
俺はあんまりそういうことは気にしない。普通にしていれば大丈夫だと思う。
「レオ。オーナーが指名だ」
けど俺も緊張しないわけじゃない。その一つが、指名だ。
苦笑して俺は控え室を出る。向かう場所はいつも同じの、一番奥の席だ。
ノックをして席に入る。一礼して顔を上げると、そこにいる女性が妖艶に微笑むのがわかった。
「楓さん」
胸の谷間が気になる黒いタイトドレス、着る者を限定する服も、最初から彼女に作ったように似合っていた。
「遅いわよ、ミハル」
長い髪をかきあげて、楓さんは手招きした。
「バイト中なんですが」
「オーナーの言うことが聞けない?」
彼女は俺の顎を取って長い爪の先でなぞる。俺はその隣に座りながら目を細めた。
「まさか。楓さんにはもうずっとお世話になってますからね。バイトも紹介して頂きましたし」
「ホストになればいいのに。あなたなら売れるわよ」
「安樹以外に甘い言葉を囁くのは面倒くさいんです」
あっさりと答えると、楓さんは愉快そうに笑う。
「安樹ちゃんにばらしちゃおうかしら。絶対止めるわよ。「かわいい」ミハルにこんな世界でバイトさせるくらいなら自分がやるって」
「それは勘弁してください。安樹に関わらせる気なんてないんですから」
かわいい安樹が男にでも目をつけられたらと、考えただけでぞっとする。
「それなんだけど、安樹ちゃんについて面白いことがわかったのよ」
楓さんは唇を引き上げて挑戦するように俺を見る。
「聞きたい?」
俺が目だけで同意を告げると、楓さんは続けて問う。
「まあとりあえず、場所を移動しましょ。何か希望はある?」
「米が食べられればどこでも」
俺が即答したら、楓さんは一瞬変な顔をした。
「米?」
「安樹がとにかく米が好きなので、俺も米無しには生きられないんです」
おいしそうにご飯を頬張る安樹を思い出して、俺は自然と頬を緩ませる。
楓さんはくすりと笑って俺の頭を撫でる。
「わかったわ。お米にしましょ」
その顔には母親のような優しさが浮かんでいて、俺も笑い返した。
楓さんに連れて行ってもらったのは、郊外の洒落たイタリアンレストランだった。
庭の見える個室に入ってまもなく料理が出てきた。
クリームリゾットは思わず笑ったくらいおいしかった。チーズの香りが甘くて、米の柔らかさもちょうどいい。
楓さんは向かい側でトマトソースのリゾットを食べながら微笑んだ。
半分ほど食べ進めたところで、俺は庭の向こうにある料亭に気づいた。
そこに車が横付けされたのが見えた。高級車から秘書らしい者が降りて扉を開くと、次に背の高い男が下りる。
「……あ」
その眼光の鋭い男に見覚えがあったので、俺は短く声を上げる。
男は振り返って中に手を差し伸べると、そこから白い手を引いて外に誰かを導いた。
「安樹……」
車から降りてきたのは、目に眩しいほどの白いコートをまとう安樹だった。
めったに着ないワンピース姿で、長い足が際立つようにスマートなヒールを履いている。髪も少し整えてあり、紫の花飾りが差し込んであった。
「あいつも抜け目ないわね。もう連れ出してきたとは」
俺の片割れはなんてかわいいんだろう。思わず見惚れてしまった後、俺は楓さんに向き直る。
「どういうことですか。龍二さんと安樹が一緒だなんて」
楓さんはワインを一口飲んで返す。
「安樹ちゃん、よりにもよって龍二のシマのクラブでボーイとして働いてたからね」
「客として来たってわけですか」
俺は顔をしかめてぼそりと言う。
「あの誘拐犯」
「そうねぇ、あなたたちにとっては誘拐犯の伯父様ね」
浅井龍二は俺と安樹の伯父で、竜之介の父親だ。企業人である表の顔と、暴力団連合の会長という裏の顔を持つ。
俺たちの母親に異常な執着を持つあいつに、俺と安樹は幼い頃誘拐されたことがある。その時は事なきを得たが、龍二が母にそっくりの安樹を狙っているのはずっと感じていた。
「あいつが最近、普段不定期にしか行かない愛人のクラブに熱心に通い詰めてるっていう報告が回ってきたからね。怪しいと思って調べたらこの通りよ」
「安樹はあいつの正体を知らない?」
「でしょうね」
安樹は小さい頃の誘拐の記憶があまりに怖かったからか、伯父のことを完全に忘れている。俺も安樹をまた怖がらせたくなくて黙っていたが、それを逆手に取られてしまった形だ。
「側近がマンションの手配してたわ。囲う気満々ね」
俺は睨むように窓の外を見ながら唇を噛む。
今すぐ安樹を引き離したい。けれどあいつの周りには常に警護の人間がいる。
心を落ち着けて、俺は正面の楓さんに目を戻す。
「それで? 俺に教えてくださったってことは、楓さんも止める気だってことですか?」
「あたしはどうかしらね」
楓さんは頬杖をついて、微笑を浮かべながら言う。
「伯父さんでしょ。悪いことじゃないわ」
「安樹は怖がってます」
俺は冷ややかに返す。
「たぶん今、安樹は悪寒と得体の知れない恐怖感を持ってる」
「どうして?」
「安樹は性的なものを受け付けません」
本人は気づいていないが、幼い頃から側にいる俺はわかっている。
「自分に好意のある男がいるはずがないと思い込んでるのが安樹です。口説いても脅してるようにしか聞こえないし、相手が何を話しているのかもさっぱりわからなくて……宇宙人を相手にしているようなものなんです」
安樹に近づく男は俺と竜之介が幼い頃から遠ざけてきたが、それでも抜けがけしようとする奴が同じ高校にいた。
でも告白を受けた時、安樹は赤くなるどころか青くなった。
安樹が背中に隠した手は震えていた。次の瞬間には走って逃げだしていた。
「怖がりなんですよ、安樹は。だから俺、安樹の前では絶対に男の部分は見せないようにしてます」
楓さんは納得したように頷いたが、すぐに意地悪く目を細める。
「でもとことん甘やかされて可愛がられたら、安樹ちゃんの反応も変わるかもよ? 男に耐性のない安樹ちゃんを落とすことなんて、龍二にとっては赤子の手をひねるくらいに簡単なことなんだから」
「確かにそれができる立場にあるのは事実ですけど」
俺は食べ終わったリゾットの皿を横にどけて手を組む。
「俺がさせません。教えてくださってありがとうございます。あとは俺がどうにかしますので」
「ミハル」
楓さんは妖艶に微笑んで、俺の口の前に指を一本立てる。
「かわいいミハルがあたしにお願いさえすれば、安樹ちゃんを龍二の魔の手から守るくらいしてあげるのよ?」
「でもそれは交換条件でしょう。俺に何を求めるつもりですか?」
「そうね……」
俺の頬に手を添えて、楓さんは指先で俺の唇をなぞる。
「お姉さんとイイコトしない?」
きつく張った糸のような緊張に、俺は目を細める。
楓さんの魔的なまなざしを見返して、そしてきわどい胸のラインをちらっと見下ろす。
二人で同時に吹き出した。
「お互いだめじゃないですか」
「全くよね。というかあたし、お姉さんって年じゃないし」
俺と楓さんはひとしきり笑い終えると、目尻にたまった涙を拭きとる。
身にまとっていた夜の空気を引っ込めて、楓さんは俺の頭を子どもにするように撫でる。
「ありがと。どうせあなたのことだから、動くとあたしの立場がまずくなるってこともわかってるんでしょ」
母親が亡くなった時、幼くてそれを理解できない安樹の前では俺は泣けなかった。そんな俺を優しく楓さんが抱きしめてくれたのは、遠い記憶だ。
「別にあたしの立場は気にすることないのよ。あなたがやんちゃしてるのは龍二も知ってる」
あっけらかんと笑って、楓さんは頬杖をつく。
「やれるもんならやってみなさい。安樹ちゃんを勝ち取るにはどの道あいつを超えないとね」
俺は息をついて苦笑する。
「楓さんに言われると痛いですね」
俺は女性の中では、安樹の次に楓さんの言葉を重く受け止めるのだった。
帰りに安樹がバイトしている店を教えてもらうために、その近所で車から下ろしてもらった。
「なんだ。俺がバイトしてるところのすぐ近くじゃないですか」
「鈴子がママをやってるところみたいよ」
「ああ、由衣ちゃんのお母さんですね。楓さんともよくお茶してるんでしょう?」
楓さんはうなずいて言う。
「いざって時に頼りになるのは女同士のネットワークだからね」
ふと目を伏せて、彼女は呟く。
「遥花には敵わないけどね。龍二は特定の愛人には入れ込まないって決めてるみたいだけど、遥花は別格。あいつ、遥花が熱出したからって出張先から飛行機でとんぼ帰りしたことあるのよ」
呆れ調子で楓さんは続ける。
「とにかくかわいくて仕方なかったんでしょうね。遥花が嫌がるくらい構いとおしてたわ」
楓さんは夢見るように言う。
「遥花は外面的には理想的な大和撫子だったの。でもね、身内にはきゅーって抱きしめたくなるかわいさだったのよ。怒っても全然迫力なくってつい笑っちゃう感じ」
楓さんは笑み崩れたまま肩を竦める。
「安樹ちゃんはそっくりだわ。家に連れて帰りたい龍二の気持ちは、あたしだって同じ」
ふいに肩を落として、楓さんは口元を歪める。
「どうしてあんな早くに亡くなっちゃったのかしらね……はるか」
龍二と同じで楓さんも、まだ「はるか」に囚われたままなのだ。母の残したものを重く感じた。
俺は道路の向こうを見やって頷く。
「楓さん、少しいいですか」
龍二の車がクラブの前につけられたのを見届けて、俺は楓さんの腕を掴むと俺の腕に通した。
深夜でも夜の街に人通りは絶えない。安樹から見えるのを承知で、俺は楓さんを引き寄せながら道を曲がった。
「どうしたの、ミハル。龍二は鼻で笑うでしょうけど、安樹ちゃんは絶対誤解するわよ」
「そうですね」
俺は安樹から見えない場所まで来たのを確認すると、腕を解いて振り返る。
「安樹へ、俺に内緒でバイトなんてしてた罰です」
「あなたって子は」
楓さんは苦笑気味に言ってくる。
「妹をいじめちゃ駄目じゃないの」
「悪い子にはおしおきです」
くすりと笑うと、楓さんは目で叱る。
「悪いお兄ちゃんね」
まったくその通りだと思いながら、俺は楓さんに目で同意を送った。
週明け、俺は鈴子ママのクラブ「初音」でボーイとして働き始めた。
「み、ミハル。どうしてここに」
安樹は俺を見て大きな目がこぼれそうになるほど驚いた。俺も今日からここで働くのだと伝えると、安樹は案の定反対してきた。
「駄目だ、ミハル。変な奴に目をつけられたらどうするんだ」
安樹こそ目をつけられたじゃないかと内心で苦笑しながら、俺はわざとすねた顔を作る。
「やだ。僕もやる。あすちゃん、僕に黙ってバイトしてたもんね。僕もあすちゃんの言うこと聞いてあげない」
困り果てたように安樹は立ち竦む。
それにしても、俺の妹は黒服を着てもまた似合う。背の高さと均整の取れた体つきがスマートで、大きな琥珀色の目とピンクの花びらのような唇がかわいらしい。短く緩やかなウェーブのかかった髪は長い髪よりも逆に艶やかで、ミステリアスな雰囲気が人の目をひきつける。
龍二でなくてもこれでは目をつけられてしまう。もう数週間夜の仕事をしていたと思うと歯噛みしたいくらいだ。
俺はついと身を屈めて、安樹の顔を覗きこむ。
安樹は三日前から様子がおかしい。暗い顔で食事の量も減って、大好きな裁縫も手を止めてしまっている。
その原因はたぶん、俺が楓さんと腕を組んで歩いていたことだろう。二日前の朝食の席に現れた安樹の目は明らかに腫れていて、泣いていたと知った。
「それより、あすちゃん。体調悪いなら無理しちゃ駄目だよ」
「私のことなんてどっちでもいいだろ」
やりすぎたと俺は眉を寄せながら後悔する。安樹の心は子どもみたいに純粋で傷つきやすい。
「何で怒ってるの? 僕がバイトするの、そんなに気に入らない?」
でも俺が唐突に楓さんのことを言うのは不自然だし、龍二のことも話さなければいけなくなる。安樹から追求してくれれば笑い話に変えられる。
「何でもない」
けれど安樹は悲しそうな顔をして通り過ぎてしまった。俺はとっさに言葉が浮かばず、弁解するチャンスを失った。
片割れの心の痛みが伝わってきた気がして、俺は胸を押さえる。
営業時間が始まってからも、安樹と会う機会はほとんどなかった。意図的に避けられているのはすぐにわかった。
俺はたいていのことがそつなくこなせる自信がある。けど安樹にそっぽを向かれると俺は途端に無力になる。頭の中が真っ白になって、とるべき方法が一つも思い浮かばない。
「安樹ちゃん。浅井さんいらっしゃったよ」
「はい。行ってきます」
厨房に戻る途中で安樹がボーイと話しているのが聞こえた。
「ちょっと待って、あすちゃん」
「ごめん。急いでるから」
いつもなら俺が声をかければ必ず立ち止まってくれる安樹だけど、今日は俺の方を見ようともしない。
「緊張するな。浅井さんって業界の人なんだろ。粗相があったらやばいよ」
ボーイ仲間が厨房からお盆を持ってきてぼやいているので、俺はにっこり笑って進路を塞いだ。
「それなら僕が代わりに行くよ。奥でいいんだよね?」
有無を言わせずお盆を奪い取って、俺は足早にその場を歩き去る。
「失礼します」
ノックをして中に入ると、俺の目に飛び込んできたのは想像していなかった光景だった。
「あすちゃん……!」
龍二の膝に頭を乗せてソファーに寝そべり、安樹はぐったりと力なく横たわっていた。
「だから無理はいけないって。熱があるの?」
俺はお盆をテーブルに置いて安樹の側にしゃがみこむと、安樹の額に自分の額を合わせようとした。それを龍二が手を伸ばして押しのける。
「車を回した。着き次第医者に連れて行く」
「僕も一緒に」
「ミハルは仕事」
安樹が俺の頬に触れる。
「龍二さんも……このくらいで医者は大げさです。自分で帰りますから」
「駄目だ」
「駄目」
不本意ながら、龍二と声が被った。龍二がこちらを睨んだのがわかった。
結局押し切る形で、俺は龍二の車に同乗させてもらうことにした。安樹が体調の悪い時は絶対に側を離れないと決めているから、ここは譲れなかった。
「すみません。医者まで連れて行って頂いて」
病院で睡眠不足と風邪だと診断された安樹は、家の前まで送られてくると申し訳なさそうに頭を下げた。
龍二は苦笑して安樹を諭す。
「頼られるのは嬉しいが、体を壊してはいけない。ゆっくり休むように」
「はい……」
「お世話になりました。あすちゃん、入ろ」
俺は安樹を抱きかかえるように支えながらマンションに入ると、着替えさせてすぐにベッドに押し込んだ。
「あすちゃん、心配事があるなら僕に言って」
ベッドの脇に座って、俺はそっと尋ねた。
「バイトで何かあったの? それとも別のこと?」
しばらく待っていると、ぽつりとした言葉が返ってくる。
「……あの人」
安樹は迷いながら続ける。
「龍二さん、苦手なんだ。親切にされてるのに、悪寒がして、思い出すと寝付けなくて」
彼のことも不安だったのだと気づいて、俺は頷きながら諭す。
「誰だって苦手な人はいるよ。あすちゃんは悪くない。鈴子ママに頼んで担当から外してもらったら? ……店をやめても」
「やめないよ!」
安樹は俺を睨みつけて声を荒げる。
「み、ミハルの指図は受けない。大体、ミハルだって」
俺は安樹がなじるのを待ったが、安樹は口を閉ざして口元まで布団に埋もれる。
「……何でもない」
「言って、あすちゃん」
「ないったらない。ミハル、寝るから出てって」
安樹は寝返りを打って俺に背を向ける。
たぶん安樹が今痛いのは、体じゃなくて心なんだと思った。
「わかった。でも一つだけ聞いて」
俺は壁の方を向いてしまった安樹に言う。
「僕、あすちゃんが一番好き。誰より僕が一番好き。ずっとずっとあすちゃんの味方でいる」
安樹の肩が震える。
「もし、あすちゃんが悩んでることがあるとしたら。最初に僕に教えてね」
俺の誰より大切な妹だから、何に替えても俺が守る。
「ゆっくり眠って。隣にいるからね」
俺は立ち上がって部屋の電気を消すと、廊下に出た。
手で顔を覆ってうつむく。自己嫌悪に俺まで調子を狂わせそうだった。
翌日、同居人が留守にしている時、竜之介が俺たちのマンションにやって来た。
「お前の顔を見ると安樹の熱が上がるだろうが。帰れ」
玄関で俺が扉を閉めようとすると、竜之介はドアの隙間に足を挟んで食い下がる。
「様子を見てくるように言われてる。見舞い品もちゃんと持ってきた」
「見たことにして帰れ」
「あのな、俺だって……」
玄関で押し問答を繰り広げていた俺たちの元に、安樹の声が聞こえてくる。
「ミハル、どうした? セールスか?」
このままでは起きてやって来ると思ったので、俺は渋々竜之介を中に入れる。
「少しだけだ。興奮させるなよ。病人なんだから」
俺は竜之介に釘を刺すと、リビングに通して安樹に竜之介の来訪を告げに行った。
「寝てる所なんて見せたくない。起きる」
「はいはい」
安樹の熱は下がっていたがぶり返すといけないので、俺はたくさん着せて暖かくした上で、リビングのコタツまで一緒に出てきた。
リビングに来るなりむっつり顔で、安樹は竜之介を睨みつける。
「趣味悪いぞ。人が弱ってるところを見て何が楽しい」
「どうしてお前はそういう発想しかできないんだ。普通に見舞いに来ただけだ」
「竜之介が私をお見舞いなんてするもんか。馬鹿は風邪引かないとか思ってただろ」
「まあまあ」
俺は安樹を宥めるように肩を叩く。
「リュウちゃんがイチゴ持ってきてくれたから食べよう。熟れてて甘そうだよ」
俺はキッチンにイチゴを洗いに行った。リビングは隣で、竜之介と安樹の様子がそこからでも見える。
竜之介は安樹に負けないほどむっつり顔で問いかける。
「調子はどうだ?」
「ちょっと寝不足だっただけだ。熱も下がったし明日から大学に行く」
「下手に弱ったまま出歩いてインフルエンザでも拾ったらどうする。ゆっくり寝てたらどうだ」
「そんな柔な育ちじゃない」
「またお前は意地を張って。それで今まで何度」
「私が悪いっていうのか?」
「悪いとかでなく、お前は体調管理が雑だと言ってるんだ」
「何だと」
竜之介も素直に心配だと言えばいいのに、つっけんどんな言い方しかできないから安樹に誤解される。
「あすちゃん。ほら、イチゴ」
「……うん」
俺は安樹が興奮して竜之介の胸倉を掴む前に、コタツに入って安樹の隣に座った。安樹は俺とは目を合わせないまま、こくりと頷く。
竜之介はそんな俺と安樹を見比べて何か言いたそうにしていた。
しばらく無心でイチゴを食べていた俺たちだったが、ふいにインターホンが鳴る。
「出るよ」
俺が向かって玄関を開けると、そこに立っていたのは宅配業者だった。
制服を着込んだ男が持っていたのは、ピンクのバラの花束。
「……頼んでませんけど」
「贈り物です。春日安樹さん宛てに」
ちらと目を落とすと、予想通り龍二からだった。
送り返そうとも思ったが、そんなことをしたら直接家の者に持ってこさせないとも限らない。安樹にあの家の者とは関わらせたくなくて、俺は仕方なく受け取ることにした。
「ミハル、それどうしたんだ?」
リビングにバラを持って戻ってくると、安樹はきょとんとして、竜之介は怪訝な顔をした。俺が花束をコタツの横に置くと、二人はしげしげと華やかな贈り物をみつめる。
「龍二さんから?」
竜之介が何か言おうとしたので、俺はコタツの中で足をつねって黙らせる。
「きれい……」
ほんのりと頬を赤く染めて安樹は呟いた。
安樹は花が好きで、庭でも色々な種類の花を育てている。バラ、特にピンクが大好きで、花屋を通りかかるとつい買ってしまうくらい気に入っている。安樹はそういう女の子っぽい側面を隠しているが、龍二はたぶん調べて知っている。
あふれるばかりにバラは咲き誇っていた。少し白バラも添えられているのが気にかかった。俺たちの母は、写真で見る限り祝い事の際には必ず真っ白な留袖を着ていた覚えがあった。
「なんだ、安樹。花が好きなのか?」
意外そうに竜之介がつぶやいた途端、安樹の目から喜色が消えた。
「ち、違う。貰い物だからな、大事にしなきゃいけないと思っただけだ。あ、何か入ってる」
しかめ面になって、安樹はごまかすようにバラに添えられていた封筒を取る。
そこからメッセージカードらしいものを取り出して確かめるなり、安樹は一気に赤くなって、次いで青くなった。
「ミハル。私もう休む」
「あすちゃん。何が書いてあったの?」
「……私、砂糖を直に食べるの苦手なんだ」
安樹は立ち上がると、ふらふらと寝室に向かう。俺は慌てて安樹をベッドに寝かせるまでついていって、しっかりと布団を被せた。
リビングに戻ると、竜之介はバラを正面に難しい顔をしていた。安樹ならぴったりだが、ゴツイ男に華やかな花はほんと似合わない。
「さあ帰れ、リュウ」
「様子は見たからいいんだが」
竜之介は俺を見返して尋ねる。
「美晴、安樹と喧嘩でもしたのか?」
こういうことがあるので、幼馴染は嫌だ。
竜之介はいつでも俺たち兄妹の近くにいたので、俺たちの間に流れる空気の変化をいとも簡単に読み取る。
「親父が何かしたのか?」
「お前には関係ないことだ」
竜之介は俺と安樹がくっついていることに不満を持っているわりに、俺たちの仲がこじれると心配してくる。その意味で、ずるいことのできない損なタイプだと思う。
帰っていく竜之介を横目に、俺は自分のしでかした悪戯の収拾をどうつけようか考えに沈んでいた。
何となくぎくしゃくしたまま、俺と安樹はバイトを続けていた。
相変わらず龍二は足繁くクラブに通って来て安樹を呼ぶし、俺は一介のボーイという立場では邪魔することもできない。安樹が俺に疑いを持っている今では、すべてを打ち明けるのはリスクが大きい。
安樹が予定していたバイトの最終日、クラブではちょっとしたパーティが開かれた。
店のホールでお客様をお迎えして、小さなステージも作られた。元々ここには立派なグランドピアノがあるから、それだけで舞台は十分映えた。
演奏するのは、やはりポピュラーだからかピアノが一番多かった。けれどたとえば鈴子ママは琴、吹奏楽部に入っていた栞さんはクラリネットと、なかなか多様な演奏会になった。
「ボーイのはるかとレオです。バイオリンで二重奏を行います」
俺と安樹は父親に教わったバイオリンで二重奏を披露することに決めた。
お互いの呼吸を知り尽くしていて、どんなに訓練したバイオリニストよりもぴたりと合うと評判だった。
でも安樹と心がすれ違っている今はどうか。俺は舞台に上りながら今日何度目かの不安を噛み締めていた。
「ミハル」
調弦している俺の耳に口を寄せて、安樹はそっと言う。
「大丈夫。私がついてる」
その口調はいつも通りの安樹で、俺は思わず微笑んだ。安樹が側にいれば、俺の心は澄んでいく。
安樹と目を合わせて、第一音。
安樹の伸びやかな音を心地よく聞きながら俺も弾く。不安は安樹の一言で簡単に溶けていた。
曲が終わると、大きな拍手喝采が俺たちを包み込んだ。安樹が笑って、俺も笑い返す。
「やっぱりミハルとじゃないとな」
安樹が何気なく零した一言がとても嬉しかった。
頬にキスして、俺は安樹と肩を組む。
「ちょ、ちょっと。……もう、しょうがないなぁ」
安樹は恥ずかしそうに頬を染めたが、すぐに俺の背中に腕を回してきた。
大丈夫、少しの喧嘩くらいで俺たちは変わらない。そう確信して、俺は客席の方を見る。
俺たちの演奏に湧いている客たちの中で、龍二だけは笑っていなかった。
龍二が手で鈴子ママを呼ぶ。奴が次に取る手段はわかっている。
さて、勝負だ。
演奏会の後、俺は奥に呼ばれた。お盆の上の値段のつかないボトルと二つのグラスに、これから起きることを想像していた。
「失礼します」
中に入ると、龍二だけが座っていた。壁際に秘書がいるだけで、女性もいなかった。
「美晴。来たか、まあ座れ」
龍二は表面上和やかに俺を招いた。俺は龍二の正面のソファーに掛けると、お盆をテーブルに置く。
「酒は飲める口らしいな」
「少し」
「謙遜しなくていい」
龍二は手ずからシャンパンを注いでそのグラスを俺に差し出す。俺は素直にそれを受け取った。
ただ口をつけなかったのは、この伯父は薬を盛るくらい平気でやるからだった。
「お久しぶりです。といっても新年会以来ですから、一月ぶりくらいでしょうが」
「遥花を連れて来いと言ったのに、今年も来たのはお前一人だったな」
「安樹は父と恒例の旅行だったので」
この伯父は母が死んだことを認めていないように振舞っているが、実際はわかっているのだと思う。俺が安樹に置き換えても、彼は眉一つ動かさなかった。
「いつまで逃げられるかな」
「そうですか? 竜之介の嫁にする手は難しいですよ。安樹は完全にあいつを嫌ってますから」
「連れ戻すだけならいつでもできる」
残酷な笑みをたたえて、龍二は喉を鳴らす。
「ただそれでは遥花がかわいそうな気がしてな。少し試してみることにしたんだ」
「……それが」
俺は冷ややかな光を目に浮かべて言う。
「安樹を龍二さんの愛人にしてしまうことですか」
「愛人などと。私はただ、遥花を庇護下に置いて大切に慈しみたいだけだ」
大して変わりはないだろう。俺は心の中で舌打ちする。
「美晴。お前が兄として心配するのはもっともだよ。私も遥花の兄だ。側から離したくない気持ちはよくわかる」
幼い頃恐怖で見上げた目を、俺は今も恐れている。
「だがお前はまだ若い。妹だけに熱を入れていては、手に入るものも入らなくなるぞ」
俺が安樹から離れない限り、俺が手にするものを片っ端から奪う。伯父はそういう脅しもちらつかせてきた。
「伯父としてそれもかわいそうに思う。私は遥花の子に不自由させるつもりはない。むしろ出来うる限り手を貸してやりたいと思っている」
龍二は悪魔のように優しい声色で言葉を紡ぐ。
「お前は何が欲しい? この伯父に教えてくれないか」
たぶん、俺が金といえば一生生活に苦しまないほどのものを龍二は与えてくれるだろう。遊びならば俺が知らないような世界をも教えてくれるに違いない。
「俺は龍二さんの世界の住民ではありませんから。平穏無事に暮らせれば満足です」
「平穏に暮らしたいと思っていても、案外そうはいかないものさ」
龍二の瞳の奥には、俺の破滅のシナリオでさえ描かれているのかもしれなかった。彼の地位をもってすれば、人間一人を社会から抹殺することもできてしまう。
「……もし、世界が今のままでないとしても」
でもこの伯父が俺に強く出られない最大の理由を、俺は知っている。
「安樹が一緒にいてくれる。ずっとそうしてきたように」
俺と安樹は一心同体で、俺に何かすればそれはすべて安樹にも返ってくる。
龍二は表情を変えなかったが、一瞬の沈黙に不愉快がにじみ出た気がした。
俺は赤ん坊の頃からつないでいた彼女の手を離さないように、今は俺の方が大きくなってしまった手で包みこむように守っていく。
「安樹には俺が必要です」
断言した俺の前で、空気が淀んだ気がした。
「……身の程を知らない若造が」
暗闇そのもののような目で俺を見据えて、龍二はひときわ低い声を出した。
「お前は年々父親に似てくる。遥花は自分といるのが一番幸せなのだと言い切った、あの忌々しい男に」
腹の読めない父を思い出して、俺は苦笑する。あの父には確かに外見はそっくりだが、中身が似ているといわれると複雑な気分だ。
「注げ」
龍二は俺にシャンパンを示す。唐突な言葉に俺は一瞬不審に思ったが、注いでもらったのだから返すこと自体は間違っていない。
俺はシャンパンの瓶を取ってグラスに注ごうとして、その手が龍二に掴まれて顔を上げた。
「その強気がどこまでもつかな?」
力をこめられて俺の手からシャンパンが滑り落ちたのが、スローモーションのように見えた。
瓶の割れる音に、慌てた足取りで奥の部屋に飛び込んできた二人がいた。
「これは……?」
たぶんそろそろ様子を見に来ようとしていたのだろう。鈴子ママと、安樹だった。
「会長にシャンパンをかけるなんて、従業員にどういう教育をしている!」
そういうことかと、俺は怒声を響かせた秘書を冷めた目で見る。
「レオ君が?」
鈴子ママが俺を振り返る。たぶんここで俺がどう言っても俺のせいにされることはわかっていたし、鈴子ママも龍二の言うことには逆らえないだろう。
「鈴子を責めるのはよせ。どういう意図があったのかは知らんが、そこのボーイが突然したことだ」
秘書を手で制して、龍二は俺を見る。
さあどうするとその目は言っている気がした。クリーニング代などと甘いことは言わさず、たぶん全額弁償させてくる。この男のスーツは大学生の小遣い程度では払いきれない。
「待った」
俺の前に割り込んできたのは安樹だった。
「正直に教えて、ミハル。どういうことだ?」
安樹なら、このタイミングで話しかけてくると思っていた。
俺は何も言わなかった。ただ安樹の琥珀の瞳を見返しただけだった。
「……わかった」
それで安樹にはすべて伝わった。
くるりと振り向くと、安樹は深く頭を下げる。
「申し訳ありません。弁償は私がさせて頂きます」
「違うだろう。そこのボーイがしたことだ」
「手が滑っただけです」
安樹はゆっくりと顔を上げる。その顔を見て、龍二が眉をひそめたのがわかった。
「私の弟です。私の今までの給料すべてと、これから貯める分で弁償しますので、どうかお許しください」
俺を庇うように背中に隠しながら安樹は淡々と言う。
俺からは見えないが、今安樹の目にはまぎれもない敵意があるのだろう。
「はるかが頼むのであれば、なかったことにしてもいいぞ」
「私は今日限りでこのお店をやめさせて頂きます」
鈴子ママが慌てた様子で安樹に振り向いた。
「待って。浅井さんは、はるかちゃんの働きでなかったことにすると仰ってるのよ」
「私は今後浅井さんにお会いするつもりはありません。頂いたものもすべてお返しします」
安樹は俺に危害を加えようとするものを許したりはしない。
俺を守るためなら、安樹はどれだけでも強くなれるのを知っている。
「お金の方は他で働いてどうにか工面します」
「申し訳ありませんでした」
俺と安樹はそろって頭を深く下げた。
弁償費用は重くつくかもしれないが、安樹の心はこれで完全に龍二から離れた。
ただ龍二が安樹に嫌われるのを覚悟しているなら、愛人になるよう強いる可能性もある。
龍二に手を掴まれた時、否応なしにリスクの高い賭けに巻き込まれたと思った。
けれど龍二は安樹の体を欲しがっているようには見えなかった。そんなことは絶対に妨害するつもりだが、安樹の心を欲しがっているのなら、俺と安樹にはまだ時間がある。
「困ったな。私は何かはるかの気に障ることをしただろうか」
龍二は安樹の前に来ていた。そっと頭を上げさせると、その肩に手を置いて尋ねる。
「やめたくなったんです。それと、私ははるかではありません」
安樹の声は冷ややかだ。敵と認めた者にはどんな相手でも強い態度を崩さない安樹らしかった。
「君、先ほどから会長に失礼なことを」
「いい」
龍二は秘書を軽く黙らせると、顎に手を当てて呟く。
「ふうん。私が乞うても、今まで通りに付き合ってはくれないと?」
「はい」
安樹ははっきりと頷いた。それに龍二は惜しそうな顔をしたが、すぐに息をつく。
「そうか。決心は固いようだな」
龍二は面白そうな光を目に宿した。彼の安樹への興味が再燃したのを感じた。
俺たちの母親、遥花は気の強い人だと聞いている。そもそも逆らうくらいの女性が龍二の好みなのだから厄介だ。
屈みこんで安樹の耳に口を寄せて、彼は囁く。
「すぐに迎えに行く。……逃げられると思うなよ、安樹」
安樹はびくりとして身を引きかけたが、龍二が離れたので慌てて背筋を伸ばす。
「弁償のことははるかに免じて不問にする」
それだけ告げて、龍二は去って行った。
賭けは俺たちの勝ちだったが、今後のことを考えると安心はできないだろう。
「あすちゃん? 大丈夫?」
「……あの人」
片づけをしながら、安樹は青ざめた顔で呟いた。
「何で私の名前知ってるんだろう?」
俺は少し考えて答える。
「病院に行った時があったでしょ? その時に聞いたんだよ、きっと」
「そっか……ならいいんだ」
安樹はそれで納得したようで、ふいに俺の頬に触れる。
「ミハル。あの人と二人きりになんてさせてごめん。怖かったろ?」
俺を心配してくれるのがわかって、俺は微笑む。
「平気だよ。あすちゃんはすぐに来てくれたしね。僕を庇ってくれてありがとう」
「私がミハルを庇うのは当たり前だよ」
安樹は照れ隠しに早口で告げる。
「ミハル以上に信じてる人なんていないんだから」
その言葉があれは、俺は決して負けない。俺は安樹をぎゅっと抱きしめた。
結局弁償のことは不問になったものの、安樹は騒動を起こしたお詫びとして鈴子ママにバイト代のすべてを返した。
「安樹ちゃんのバイト代を取ったなんて言ったら浅井さんに怒られちゃうわ」
「なら黙っていてください。申し訳ないのですが、これだけは譲れません」
安樹は鈴子ママがどれだけ言葉を尽くしても、差し出したバイト代を受け取ろうとしなかった。
翌日の日曜日、俺と安樹はいつものように街に出かけた。
「あーあ。間に合わなかった」
安樹は以前立ち止まったことのある店のショーウインドーの前で、窓に手をついてため息をついた。
「どうしたの?」
「私、あそこにあった時計が欲しかったんだ」
もう既にsold outの札がかかっているショーウインドーの中を指差して、安樹は目を伏せる。
「今日の、ミハルへのプレゼントにしようと思ってた」
「あすちゃんが欲しかったんじゃなかったの?」
驚いた俺に、安樹は困ったように笑った。
「私よりミハルに似合うだろうなって」
思わず俺が安樹の手を取ろうとしたら、後ろから声がかかった。
「あら。ミハルに安樹ちゃん」
「楓さん?」
安樹が意外そうな声を出すので、俺も振り向く。
「ああ、やっぱり。二人して買い物? 仲いいわねぇ、もう」
くすくすと笑って、楓さんは歩み寄ってくる。
「荷物持ちに竜之介でも使ってやってよ。あの子も家で暇してるから」
「ミハルと二人だからいいんです」
ぷっとむくれて、安樹は言う。楓さんの前の安樹は、年の離れた姉に妹が甘えてるみたいでかわいい。
「この間家に来た時だって、お前は体調管理が雑だとか……あの口の悪さはどこからきたんでしょう。楓さんが産んだとは思えません」
「そうねぇ。あの子は父親似なのよね」
とても俺たちと同い年の子どもがいるとは思えない若々しい笑顔で、楓さんはさらりと言った。
「楓さんもお買い物ですか?」
「うん。今晩の食材を買いにね」
意外と庶民的だと思っていると、楓さんは面倒そうに肩を押さえながら続ける。
「なぜかイベントになると絶対早く家に帰ってくるのよね、ウチの旦那。毎年いくらでも貰ってくるくせに、去年なんてあたしがチョコを用意してないからって怒ったのよ」
「楓さんのところはいつもラブラブですね」
安樹がにこにこしながら言うと、楓さんはまんざらでもなさそうに笑う。
「あなたたちほどじゃないわよ」
龍二も楓さんも愛人が山ほどいるのだが、夫婦間が冷め切っているのかといえばそうでもない。竜之介のことは二人とも大事にしているし、事あるごとにお互いを頼りにする。
「あれ? その帽子」
安樹が何かを思い出すように首を傾げた。俺は鞄に入れている帽子に気づいて、ぱっと頭に閃くものを感じる。
「僕、あすちゃんに黙ってたことがあるんだ」
今しかない。そう気づいて、俺は早口に言う。
「実は僕、しばらく楓さんのところでバイトしてたんだ。鈴子ママのクラブとすごく近いんだけど」
「え?」
きょとんとしている安樹の前で、俺は楓さんに帽子を被らせる。
「この帽子被った感じ。覚えない?」
多少強引でも構うもんかと、俺は安樹をじっとみつめる。
「あ……」
始めは怪訝そうな様子だった安樹だが、やがて楓さんと俺を交互に見比べる。
「楓さんに食事に誘われて、ふざけて腕組んで歩いてたことあるんだ。もしかしてあすちゃん、何か誤解してない?」
「そ、そんなこと」
安樹はおたおたして首を横に振る。
あからさまにほっとした様子を見せた安樹に、俺も安堵する。
「それでね、そこのバイト代と鈴子ママのところでのお金を合わせて、買ったものがあるんだけど」
俺は鞄から小さな箱を取り出して、安樹に渡す。
「開けて」
安樹は頷いてリボンを開く。例の時計が現れるのを見て、安樹は石のように固まった。
やがて硬直が解けたかと思うと、安樹はぎこちなく言う。
「え、あ、ミハル、自分で買ったんだ」
「僕のじゃないよ」
安樹の手から時計を取って安樹の左手首にパチンとはめると、俺は言った。
「あすちゃんに、バレンタインのプレゼント」
「で、でも、高いし。ミハルの方が似合うし」
「あすちゃんにぴったりだよ。琥珀は、あすちゃんの瞳の色だから」
俺たち兄妹のバレンタインは、昔から両方が贈り物をすることになっている。
「それに、私今年は何も買ってあげられない……」
俺は安樹の手を取って、いつかのようにつなぎ直した。
「今日は一緒にチョコレートケーキ作るんだもんね。それ以上のプレゼントなんてないよ」
ね、と俺は安樹に笑いかける。
「じゃ、楓さん。僕たちケーキの材料を買いに行くので」
「はいはい。行ってらっしゃい」
「あすちゃん。行こ」
くいと手を引くと、安樹は戸惑った顔から少しずつ笑顔になっていった。
「うん!」
手をつないで歩いていこう、安樹。
たとえ邪魔する者がいたとしても、俺たちのペースでゆっくり進むんだ。君は俺を守ってくれるし、俺は君を守る。何も怖いものはない。
さあ、今年も最高に甘いバレンタインが始まる。
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