5 片恋リフレイン 前編<レオニード>

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5 片恋リフレイン 前編<レオニード>

 恋は繰り返すと、彼は言った。  自宅の近くの喫茶店で、テーブルには紅茶が二セット置かれていた。時刻は三時五分前、まさにアフタヌーンティーの真っただ中だ。 「本当に好きだと一回で終わらないんだぁ。何度でも同じ人を好きになっちゃう」 「また突然恋の話?」 「単純に恋じゃなくて……うーん、難しいなぁ」  指を顎に当てて首を傾げている表情はどこか幼くもある。実際はもうとっくに四十を超えたおじさんだというのに、この人は年齢が見た目では全くわからない。 「僕が言うのは特別のことで、その辺に転がってるアレコレじゃないんだけどなぁ」 「そう言いながら何回私にその辺に転がってるアレコレの話をした?」 「やだぁ、エンジェル。ヤキモチ?」  私のことをエンジェルと呼ぶのはこの人だけだ。それとなぜかほっぺをぷにぷにしてくるのに反撃しようとしても、一度たりとも手をつかめない悔しい相手でもある。 「アレクっていう恋人がいるのにアレコレ目移りするのもほどほどにしなさいって言ってるんだよ」 「えー? アレクは恋人じゃないよ」 「じゃあ奥さんだよ。私たちの面倒ずっと見てくれてるんだから、私とミハルにとってはお母さんみたいなもの。あんないい人他にいないんだから、もっと大事にしなさい」 「ずるーい。エンジェルはアレクのことばっか。僕のこと見てよ」  彼はすねたように口をとがらせて、先ほどの二倍の速度で私のほっぺをぷにぷにしてくる。 「僕よりアレクがいいの? アレクなんておじさんだよ? 髪薄いよ?」 「本人も気にしてることを口にしない。アレクは包容力のある、立派な大人じゃないか」 「やーだ。アレクより僕の方が上ー。そうでしょ?」  この人に関していえば、そういう子供っぽい態度が違和感ない。  セミロングの見事な銀髪に碧眼、色白の肌にはシミ一つなく、身長は高いけど全体に女の子のようなふわふわオーラをまとっている。友達には、「童話からそのまま出てきた妖精みたい」と称された。  喫茶店のいろんな方向からいろんな視線が投げかけられる。目立つからこういう場所でお茶など飲みたくなかったけど、仕方がない。 「写真とられてるよ」 「え、どこどこ」 「右斜め後ろ」 「よぉし。いくよぉ」  ひょいと私の肩を引き寄せて頬が触れるくらいの側に寄せると、彼はそちらに向かって笑顔でピースする。 「うまくとれたかなー?」 「何サービス精神出してるんだ」 「いいじゃない、楽しいことは」  彼はおもむろに手を組んで、その上に顎を乗せる。 「で、僕が一番だよね?」  首を傾げて上目づかいに問いかけてくる。彼の年齢でそれをやったら拳骨が返ってくること間違いなしだが、彼の場合一瞬黙ってしまうから怖い。 「はいはい。それで何? そういうこと言い出すってことは、私に頼みごとがあるんでしょうが」 「わー、エンジェルすごーい。ね、ね、聞いて」  ぱっと手を上げて笑顔を見せる彼はなんて都合のいい性格をしているんだろう。それを許す私はなんで学ばないんだろう。 「実はね、僕には初恋の人がいるんだけど」 「それももう何度目かね。男の人なのは訊かなくてもわかってるよ」  彼は女性に興味がなく、男性が好きだ。 「うん。僕、女の子はね、エンジェルとハルカだけだから安心していーよ」 「別にそんなことはいい。で、その初恋の人がどうしたって?」  放っておくとどんどん脱線するので、私は首を振りながら促した。 「……その、ね?」  もじもじとしてから、彼は意を決したように私の手を両手で掴む。 「彼に久しぶりに会いに行くから、一緒についてきて!」  がしっと掴む手の力は意外と強い。当たり前だ。妖精じゃなくて男の人だ。 「私が行っても邪魔になるだけだよ」 「僕一人で行ったら何話していいかわかんないもん。ね、お願い!」  目をうるうるさせて私を見つめる碧玉の双眸は私の大好きな双子を思い出させる。黙っていればそっくりで、いっそ嫌味なほど隅々までその遺伝子が及んでいる。  妖精もどきで男好きで浮気者で甘えん坊でその他諸々の大人の男としては少々裏道を通り気味の彼。 「仕方ないな、父さんは」  そんな父レオニードと私は、意外と仲良しである。  帰宅すると、エプロンをつけたミハルが私と父を迎えてくれた。 「おかえり、ごはんできてるよ。今日はね、ボルシチと肉じゃが」 「ああ、いつものだね」  父が帰ってくる最初の日はいつもこのメニューだ。  ミハルが私を連れてリビングに入ると、皿を並べていた割烹着姿の男性が振り返って微笑みかけた。 「おかえりなさい、安樹」  耳に心地よいテノールの声で名前を呼んで目を細めると、彼は自然に私の頬にキスした。 「お茶を飲みに行っただけなのにこんな遅くまでレオに付き合わされて」 「全然遅くないよ。アレクは私を子供扱いしすぎなんだ」  淡い金髪と青い目の彼は、細身で男性にしてはごつごつした感じがない。苦労の跡の滲む白い頬に、目尻の下がった細目でおっとりと私をみつめてくる。  ……その髪が年々薄くなっていくのは私とミハルと父が苦労をかけているからであって、決して触れてはいけないことだ。 「レオもおかえりなさい。いつも言うことですが、帰ってくるならせめて三日前には連絡をくださいね」 「面倒じゃん。家に帰ってくるのに連絡なんて」 「食事の準備とかいろいろあるんですよ」  アレクセイ・カルナコフは父の従兄弟で、同い年ということもあって幼い頃から一緒に育ったらしい。けれど父にも私たちにも丁寧に話すのは、彼の性分だそうだ。 「このボルシチはミハイルが作ったね?」 「なんでわかった?」 「そりゃあわかるよ」  父は食卓を一瞥するなりミハルに言う。怪訝な顔をした息子に、彼はくすりと笑ってミハルの頬にキスした。 「いい子」 「ちょ、何すんの。やめてよね」  むっとして離れるミハルがかわいい。キスくらい幼い頃からたくさんしてもらっただろうに、最近のミハルは父に対してちょっと反抗期だ。 「あすちゃんで消毒―」  ミハルは私に抱きついてほっぺをくっつける。私はそれにくすくす笑って、しょうがないなぁと呟いた。 「いただきます」  四人でそれぞれの席についておもむろに夕食を始める。父は信仰心の薄い人で、面倒なことと判断したことは基本的に無視する。アレクに言わせると、昔母にたしなめられていただきますを言うようになっただけましなのだそうだ。 「今回は何日いるわけ?」 「明後日には経つよ。公演がミラノであるから」  父が嫌そうな顔をするので、私はごくんとじゃがいもを飲みこんで言う。 「父さんの恋敵がいるんだっけ」 「そうなんだよ。恋敵は世界中にいるけど、イタリアのあいつは一番嫌い。どうしてか妙に鉢合わせるし」  父はぷすっとむくれて日本語で呟いた。 「ハチに刺されちゃえ」  ミハルとアレクは一瞬だけ目配せして、私はなぜそこだけ日本語でダジャレを言うのだろうと不思議に思った。 「父さんもどうしてそのイタリア人にだけはやたらこだわるの?」 「初恋の彼にくっついて離れなかった嫌な奴だからだよ」 「父さん、アレクの前だよ」  奥さん同然のアレクの前で昔の恋話なんてするものじゃない。私がたしなめると、アレクは私に微笑みかけた。 「私もよく知ってますよ。彼のことも、昔のレオの恋愛事情も」 「でも、アレク」  テーブルの向い側から手を伸ばして、アレクは私の頭をそっと撫でる。 「いつも気にかけてくれてありがとう。いいんですよ」  私はアレクに頭を撫でられると照れて黙ってしまう。彼は幼い頃から本当のお母さんのように温かかったから私もつい甘えてしまう。 「なんですか二人とも」  ふと目を上げると、父とミハルが揃ってじぃっとアレクを見ているところだった。 「ずるい。アレクばっかりべたべたして」 「そうだよ。ずるいよ」  父とミハルは子供っぽく文句をつけた。  何だか子供が二人いるみたいだなと私は苦笑する。 「それで、明日その初恋の彼に会いに行くって?」  とりあえず父の関心を逸らそうと思ったら、彼はあっさり乗って来た。 「うん。彼は僕が日本に留学した時に初めて会ったんだけど……」  その辺りの経緯はもう何度も聞いて知っている。  父レオニード・カルナコフは十八の時に日本の音大に留学したのはいいが、言葉もほとんどわからず途方に暮れていたらしい。  友達もおらず、目に映る風景もことごとく馴染みのない全くの異国だった。今の明るい父からは想像もつかないが当時は内気な性格だったらしく、自分から話しかけることもできなかったそうだ。  その日、若き日の父は移動教室の場所がわからないまま構内をさまよった挙句、楽譜を派手に落としてそれを拾い集めていた。  なんでこんな国に来てしまったのかと、心細さに半泣きになっていたそうだ。  そんな父に話しかけて、一緒に楽譜を拾ってくれた男の子がいた。 ――専攻はバイオリンだっけ。君の音色は幻想的だね。  彼は片言ながらも父の母国語を話してくれたそうだ。  その辺をすべて私が口に出すのは恥ずかしいが、彼は細くつやのある黒髪、切れ長の澄んだ瞳、雪のような白い肌で、つまり父がせっかく拾ってもらった楽譜をもう一度取り落とした美少年だったということだ。 ――次の教室、近くだから。一緒に行こう。  その時の彼の微笑みには後光が差していたという。 「天使が舞い降りたと思ったね」  父はうっとりしながらため息をついて、ワインを喉に流し込んだ。  ミハルがどうでもよさそうに相槌を打つ。 「好きに会えばいいんじゃない。僕は行かないけど」  ミハルは最近時々、父に距離を置いた話し方をする気がする。 「本当はあすちゃんを付き合わせるのもどうかと思うけどな。せっかくの休日なんだし」 「しょうがない。ミハイルはお留守番か」  父はくすっと笑ってミハルに言った。 「パパの留守中はアレクと遊んでもらってなさい、ミハイル」  子供扱いした言葉にミハルがむっとして、私はそのかわいさに思わずぷっと吹き出したのだった。  初恋の彼には午後に会いに行くということで、私とミハル、父とアレクの四人は午前中の間一緒に遊ぶことにした。  父はゲームセンターで好き勝手にいろいろプレイするのが好きで、私たちもそれに付き合うことになる。  ちなみに父は、財布に入っている持ち金すべてを使ってゲームセンターのあらゆるゲームを片っ端から制覇というアバウトな遊び方をする。 「エンジェル、シューティングやろーよ」  ハンドガン型の機械を構えて射的をするゲームの前で、父が私にこいこいと手招きした。 「あすちゃんがんばれー」 「レオになんて負けないんですよ」  向かってくる敵を次々と撃ち落としていくゲームで、私はミハルとアレクに応援されながら意識を集中させた。 「……よし、できた!」 「えー、待って待って。僕まだだよぉ」  先にクリアしたのは私の方で、父はまだ半分ほどのところでつっかえていた。  父はシューティングが好きなわりにあまり得意ではない。狙う位置がいつもずれている。 「父さん、もうちょっと下だよ」 「もう! この敵がいやなの」 「なんで?」 「怖いんだもん。ゾンビってどろどろしてて」  その言葉に私が思わず笑ったのは、ミハルも以前同じことを言ったからだった。  横を見るとミハルも笑いをかみ殺していた。 「こら、ミハル。ミハルだって怖いって言ってたじゃないか」 「父さんが言うから笑っちゃうんだよ」  確かにもう四十過ぎだもんねと、私は同意を求めてアレクを見た。  アレクはこちらを見ていなかった。私たちに背を向けていて、私の視線に気づいたのか振り向いた。 「何かあったのか?」  私が少し首を傾げると、アレクは笑って財布を取り出した。 「いいえ。そろそろコインが足らなくなってきたでしょう? 換金してらっしゃい」 「お小遣いがあるから大丈夫だよ」 「まあまあ。言いだしたのはレオですし、ミハルだってレオの財布に頼ってるんですから。私は安樹の分を出しますよ」  アレクは私たちに甘すぎる。いくら父の恋人というか奥さんでも、私とミハルを甘やかしてくれなくていいのに、彼はいつも優しい。 「アレクが毎日頑張って働いて稼いだお金じゃないか。もらえないよ」  彼は日本で会社員をやっているが、私たちの面倒をみるためにいつも早めに帰ってくる。仕事をしながら家事全般をこなしてくれている。  だけどアレクは微笑んで、私の手に千円札を握らせた。 「たっぷりあげておかないと。お小遣いが足らないからと、夜のアルバイトなんてし始めるくらいなら」 「うー。アレク、まだ怒ってる?」 「怒ってますよ」  にこにこしながら、アレクの青い目は笑っていなかった。  二ケ月ほど前、私はミハルへのプレゼントを買うために夜のお仕事をしていた。その時に凄く苦手な人に会ったりミハルに彼女疑惑があったり……でも一番の問題はその後に控えていた。  バイトが終わったその日に家に帰ったら、アレクが正座して待ち構えていた。つまりお説教体勢万端だった。 ――アルバイトをするなとはいいませんよ。でも私に嘘をついていたのはいけません。  声を荒げることはないが一度怒るとなかなかその怒りを収めてくれない持続タイプのアレクに、たっぷりお説教された。  まあ私とミハルが完全に悪かった。私もミハルもしおらしく頭を垂れて、もうしませんと繰り返し誓った。  それにアレクに部活だと嘘をついていたのは心苦しくもあった。  私はミハルのことをいつだって守らなければいけないと気を張っていたけど、母は幼い頃に失ったし、父も留守がちだった。誰かに弱音を吐きたかった。 ――私の前でがんばることなんてありません。  私の弱い内面を一番察してくれて、守ってくれたのがアレクだった。 ――寝るまでアレクがお話してあげます。  母を亡くしたことをいつまでも理解できずに寂しがっていた私に、おとぎ話をたくさん聞かせてくれた。その大きな手と優しい声が私は大好きで、ゆりかごの中にいるように眠りについていた日々が今でも心に残っている。  ほとんど記憶が薄れてしまっている母より私の中で「お母さん」になっているアレクには、なるべく心配をかけてはいけないし嘘もついてはいけない。 「これで最後だよ」  仕方なく千円札を受け取って換金機まで向かう。  休日のゲームセンターは小さな子供から大人までごった煮で、あちこちで笑い声やちょっとした悲鳴なんかも聞こえたりする。  一番近くの換金機は並んでいていっぱいだったから、裏手にある少し離れた所まで向かうことにした。  小さい機械だから見つかりにくく、数度しか来たことのない人だと見落としてしまいそうな奥まった場所にある。予想通り、そこには誰もいなかった。  千円札を投入口に入れようとして、ふと顔を上げる。くぐもった声がUFOキャッチャーの向こうから聞こえた。 「ちょっと借りるだけじゃねぇか」 「いいだろ?」  柄の悪い声に眉を寄せて、千円札をポケットに仕舞った。  足早にUFOキャッチャーの横まで歩いて行くと、そこに三人の大学生くらいの男たちと、それに絡まれているカップルの姿をみつけた。 「財布出せよ」  楽しい遊び場のはずが、こういう輩がいるのがゲームセンターの悲しさだ。 「人の金を奪うなんて最低だと思わないか」  私が歩み寄ると、三人の男たちは同時に振り返って私を舐めるような目つきで見た。 「女じゃねぇか。今取り込み中なんだよ」 「カツアゲ中の間違いだろう。二人を解放しろ」  たぶん年は私と同じくらいだろう。絡まれていたカップルの驚いた視線を横に受け流しながら、私は腕組みをして睨みつける。 「お前が代わりに金を払ってくれるってのか?」 「まさか。人から金を奪おうとするような奴にやる金なんてない」  こちらに男たちが近づいてくるのを見計らって、私はカップルに目配せする。今の内に早く逃げるようにと合図する。 「だいたいな、自分の小遣いの範囲で遊ぶから楽しいんだろ?」  三人が完全にカップルに背を向けた時、カップルはさっと奥のゲーム機の後ろに姿を隠す。私は口の端に笑みを刻んだ。 「何笑ってんだよ」  どんと肩を突き飛ばされたけど、力を受け流して私は斜めに方向を変えた。  さて、多少痛い目に遭ってもらっても構わないかな。 「この喧嘩、買った」  構えを取ろうとした所で、私の目の前に割り込んできた影があった。  短い黒髪に飾り気のない格好、同年代でもがっしりしている体格がそびえたつ。幼い頃から見慣れたその背中に、私は一瞬で誰かを察してその肩を掴んだ。 「竜之介! なんでここにいる?」 「友達と来た。とりあえずお前はどこか行ってろ」 「なに人の喧嘩を勝手に買ってるんだ」  肩を揺さぶると、竜之介は黒々とした目を不機嫌そうに細めて言い放つ。 「お前こそ自分が女だってことをいい加減自覚したらどうだ。自分から厄介事に手を突っ込むのはやめろ」 「お前は女、女とうるさいんだ。これくらい私一人で何とかなる。お前こそどこか行ってろ」  どうしてこいつとはいつも行く先々で会わなければいけないのか。信仰心が薄い私が言うのも何だが、神様は私によほど意地悪がしたいのか。 「おい、お前ら……」 「黙ってろ」 「取り込み中だ」  私と竜之介は睨みあったまま、男たちに適当に声を放り投げた。天敵を目の前にして、他の用事に構っている暇はない。 「俺は怪我する前に止めてやってるんだろうが。感謝されこそすれ、なんで恨まれるんだ」 「怪我なんかするもんか。竜之介は私の邪魔がしたいだけだろ」  いつもだったら竜之介にいちいち反論するのも面倒になってきて、ひととおり文句を言って通り過ぎただろう。  ただ、私は竜之介に「守られる」ことだけは嫌だ。 ――あんじゅはおんなだぞ。てなんてあげるな!  幼い日、私は喧嘩に負けて、あろうことか竜之介に庇われてしまったことがあった。 ――おれがけんかかってやる!  確か小学校に入るか入らないかの頃、竜之介は私では手も足も出なかった相手を一人でノックダウンさせてしまった。 ――あれく。きょう、りゅうのすけにまけた。  ふてくされながら家に帰って、割烹着を着て夕食の準備をしていたアレクにしがみついた。 ――またまけた……! ――おやおや。それはくやしかったですね。  頭を撫でてくれるアレクの割烹着に顔を埋めて、ぐすぐす泣いたのを覚えている。  大丈夫、大丈夫。いつか勝てるようになりますよとアレクは言ってくれたけど、悔しくてたまらなかった。 「お前にだけは邪魔されたくないんだ」  私にはそれ以後絶対に竜之介にだけは守られないと心に決めていた。  私と竜之介は男たちを睨みつけて言う。 「どっちからだ」 「面倒だ。まとめてかかってこい」  正当防衛にしなければいけないから、自分から殴りかかったりはしない。それがルールだ。  掴みかかろうとする男たちに、私と竜之介が構えた時だった。 「……少々お聞きしたいことが」  いつの間にかアレクが、男たちの真後ろに立って首根っこを掴んでいた。 「こっちこっち。安樹と竜之介君はここで待っててください」  アレクは半ば引きずるようにして男たちをUFOキャッチャーの向こうまで連れて行くと、そこで何かぼそぼそと話していた。  数分くらいは、そこで話し込んでいたように思う。  いきなり三人の影が消える。私が驚いてUFOキャッチャーの向こうに駆け寄ると、そこでは三人が尻持ちをついて目を閉じていた。  そんな彼らの横には、なぜか缶ビールが転がっている。 「彼ら、酔っ払ってたんですよ」  アレクに言われて、確かに彼らから酒気が立ち上っているのに気づく。 「手を出さずに済むならそれに越したことはないでしょう? ちょっと宥めて飲ませればこの通りですよ」 「アレク、すごい……」  アレクの身の安全を心配していた自分が少し恥ずかしかった。  彼はおっとりと微笑んで言う。 「私はさえないおじさんですから。「説得」するくらいしか保身術がなくて」  叩いたら折れそうなほど細くて優雅な物腰のアレクが、なんだかとても頼もしく思えた。  一旦家に戻って父と着替えると、花束を携えて向かった先は都内のコンサートホールだった。 「初恋の彼に会いに行くんじゃなかったのか?」 「彼が演奏するの。エンジェルにもチケット取ってあげたからね」  渡されたチケットを見て、私は軽く目を見開く。  父と同期の音楽家というから、可能性を考えなかったわけじゃない。  だけど日本人で名の知れた人を百人挙げたらその中に入るような……つまり超一流のピアニストだとは思っていなかった。 「会えるの?」  思わず不安を口にしたら、彼は悪戯っ子のような笑顔で言った。 「普通にしてたらムリ。でも終わった後の面会に予約入れて、取れたから」 「父さんすごい!」  私もピアノを習っている身だから、ぜひお会いしたいところだった。珍しく父に尊敬の眼差しを送る。 「ふふ。でもエンジェル、パパと約束してね」 「なに?」 「絶対ユキに恋しちゃ駄目だよ」  彼は私の顔の前に指を一本立てて言う。私はそれにぷっと笑った。 「父さんと同い年の人に恋したりしないよ」 「だーめ。僕はエンジェルを敵に回したくはないの」 「敵も何も、ユキさんもう結婚してるんだろ」  父は途端に肩をがっくりと落とした。 「そうなんだよね……。ユキ、結婚しちゃったんだ」  本当に残念そうに呟くので、私は父の肩をぽんぽんと叩いて宥める。 「父さんの恋はいつもイバラ道なんだろ。それくらいで落ち込まないで」 「うん、うん……僕はユキが幸せならそれでいいんだ」 「よし、えらいえらい」  手を握って励ますと、父は私をぎゅっと抱きしめた。 「公衆の面前だよ。さ、入ろ」  よくあることなので引きはがして、まだ目をうるうるさせている父と手をつないだままホールに足を踏み入れる。  この調子だとユキさんに会った時も感極まって泣きそうだな。ほんと泣き虫なんだからと思いながら、私と父は受付でチケットを切ってもらって会場内に入る。  まもなく公演が開始された。席はそれほど前の方ではなかったのでユキさんの顔まではよく見えなかった。ただ心地よい声で曲の合間に紹介をしたり、雑談をしたりする様子を見ていると、穏やかな感じのいい人に思えた。 「変わったな」  途中、曲の合間に父がぽつりと言ったのを聞いて、私は顔をそちらに向ける。 「僕の知ってる頃のユキの音楽は、まさに天上の音楽だった。彼も人生を歩んでいく内に綺麗なだけの音でなく、人間の持つ強さを手に入れたんだろうね」  父は顎に手をやって、軽く頬杖をつく。 「時の流れだ。まあ二十年も経てば仕方ない」 「父さんには全然時の流れを感じないけど」  父は一瞬見せた大人の顔をくるりと変えて愛嬌たっぷりに笑う。 「だって汚く年食ったらモテないじゃない」 「違いないね」  くすりと笑い返して、私たちはまた舞台を仰ぎ見た。  バイオリンが一番好きだけど、ピアノの音にじっくり聞きいるのも心地よかった。父と曲の合間に他愛ないやり取りをしながら音に浸った。  終わった後、私たちはご馳走を食べたような満足感たっぷりの顔で控室へ向かう。  順番は最後だったから、まだ面会まで三十分近くあった。父と壁にもたれながら適当な話をしていると、ふいに声をかけてきた男の子がいた。 「あの、レオニード・カルナコフさんですか? バイオリニストの」  たぶん大学生くらいで、ちょっと幼い感じの小柄な子だった。父はにっこりと笑って返す。 「そうだよ。君みたいなかわいい子に顔を知っててもらえるなんて嬉しいな」  アクセントに偏りはあるけど昔よりはだいぶうまくなった日本語で軽口を叩いて、父は手を差し出す。  少年は父の手を握り返して嬉しそうに言った。 「すごい。旅行先で見に行ったことがあるんですけど、憧れてて。日本では公演はされないんですか?」 「僕はちょっとしたディナーショーとかで弾くのが好きでね。日本はそういう機会が少ないから」 「ユキさんとは同じ大学だったというお話を聞いたのですけど、お友達なんですか?」  私はちらりと父をうかがった。初恋の人をお友達かと問われたら父は困惑した様子を見せるだろうか。それとも笑って頷くだろうか。 「ううん。違うよ」  だけど父は私が想像したような反応をしなかった。 「ユキとは話したこともないよ」  さらりと返して、父は横目で前の順番の面会者が通り過ぎるのを確認しただけだった。 「君と話せて楽しかった。バイバイ、ボーイ」  父は屈みこんで軽く彼の頬にキスすると、硬直している少年の頭をぽんぽんと叩いて私に振り向く。 「さ、行こっか。エンジェル」  先に歩き出す父に遅れないようについていきながら、私はそっと尋ねる。 「嘘ついたのはあの子が好みじゃなかったからか? あ、でも父さん嫌いな人にキスしないよな」 「んー? 嘘ってほどじゃないよ」  父は私にウインクしてみせる。 「片思いなのはほんとだもん」 「まあそうだろうけど」 「あー、緊張するなぁ。ユキ、僕のこと覚えてないかも」  父はぶるっと震えてみせる。私はその肩を安心させるように叩く。 「大丈夫。父さんみたいな人が同期にいたら、私だったら絶対忘れない」 「二十年前だし」 「ほら、背筋伸ばして」  係員に面会証を見せて、奥の面会室の前に辿り着く。  ノックをしたら、どうぞという涼しげな声が返って来る。  扉を開くと、テーブルの前に座っている人の姿が見えた。細身のタキシードが似合う背の高い男性だ。  彼は挨拶をしようとしたのだろう。けれど彼は振り返ったまま目をぱちくりとする。  表情が花開くように変わる。 「レオじゃないか。久しぶりだね」  その微笑みには確かに後光が差していた。  黒々とした瞳が鮮やかで、整った目鼻立ちに均整のとれた体つき、指先一つまで上品な動作で立ちあがって歩み寄ってくる。 「……覚えててくれたの」  硬直している父の後ろから覗き見ていると、ユキさんは頷いて微笑んだ。 「友達を忘れるわけないよ」 「ユキ……!」  父は感動の声を上げてユキさんをハグした。ユキさんは日本人にしては背が高い方だけど、父はもっと高い。体格からいって、たぶん力も父の方が強い。 「君はレオの娘さんかな?」 「あ、はい」 「君ともいろいろ話したいけど、少し待ってね」  抱きつかれたままでも気を使ってくれるユキさんは、さすが大人の余裕を漂わせている。  ……って、ちょっと待て。父さん、ハグの時間長いよ。下心がばれるって。  ユキさんは不自然なハグの時間をあまり気に留めなかったようで、ほどほどのところで父と体を離した。外国にも行き慣れている人だし、その辺のあしらい方もわかっているようだった。 「で、レオ」  ユキさんは父の頬を軽く指先で引っ張る。 「君、私を避けていたね?」  顔は笑顔だけど低い声には押し殺した怒りがにじんでいた。 「卒業パーティに来なかったし、その後も住所すら教えなかった。こっちから出向こうとしても、君はコンサートさえ事前情報がないから全く捕まらない」 「だ、だってさ」  いや、父が会いに行けなかったのはひとえに恥ずかしかったからだろう。  今だって、ユキさんにタイを掴まれて視線をさまよわせている父は、好きな女の子に詰め寄られてどうしていいかわからない中学生のように顔を赤くしてもじもじしていた。 「二十年だよ。その間一度も現れないなんて、何かあったのかと心配したじゃないか」  軽く顔をしかめるのも、綺麗な人の顔だと絵になる。 「いや、ユキは忙しそうだったし……」 「レオ。言い訳はいい」  父のタイをぐいっと引っ張って、何かを待つように軽く首を傾ける。 「……ごめんなさい」 「よろしい」  さすが日本のトップに君臨する名ピアニストは、女王様並みの気迫を持つらしかった。 「元気そうで何よりだよ。かわいらしいお嬢さんもできたみたいだし」 「……かわ」  思わず私は変な声を出して慌てて口を覆う。 「どうしたの?」 「そ、そんなことないと思いますよ」 「かわいらしいの部分を指してるなら、私は率直に言ったよ」  ユキさんは私の顔を覗き込んで頷く。 「レオにもだけど、きっとお母様によく似てるんだろうね。お会いしたことはないけど、綺麗な方なのは君を見ればわかるよ」  外国の方はこういう褒め方をする人もいるが、日本の人では初めてだ。しかもこんな美人さんに褒められたのは完全に意表を突かれた。 「アンジュっていうんだ」 「なるほど。フランス語で天使だね。年はいくつ?」 「十九です。大学生です」 「私の息子と同い年だね」  ユキさんは笑って父をつつく。 「レオに私と同い年の子供がいるっていうのは驚いたな。君、結婚はしないって強がってたのに」 「ユキ。その辺のことはなかったことにして」 「はいはい。君、変わったね」  ちょっとだけ怒ったような声を出した父に、子供をあやすように返したユキさんだった。  椅子にかけて三人で他愛ない話をした。ユキさんは私にもいろいろ話しかけてくれたし、何より二人が旧来の友達だということが横から見てもよくわかったから嬉しかった。  ノックの音がして、ユキさんが不思議そうに首を傾げる。 「面会はレオと安樹ちゃんが最後だったはずだけど」 「係員の人じゃないかな?」 「そうだね。どうぞ」  ユキさんが扉の向こうに声をかけると、静かに扉が開く。 「失礼します」  入って来たのは、先ほど父に声をかけてきたあの男の子だった。  先ほどと目つきが違うように感じたのは、気のせいだろうか。 「どうしました?」  ユキさんが優しく声をかけると、少年は後ろ手に扉を閉めるとゆっくりと何かを取り出す。  その瞬間、私は心臓をわしづかみにされたように息を呑む。 「好きです、ユキさん。一緒に死んでください」  彼はユキさんに黒く細長い機械……拳銃を突きつけたのだった。  ユキさんは四人分の紅茶を淹れていて、それを私たちは神妙な顔で待っていた。  この状況は二言で説明できる。拳銃を構えて告白した少年に、ユキさんは一拍置いて言った。 ――お茶でも飲みながら話を聞こうか。  さすが大物は少年に告白されるという事態にも、その少年が拳銃を持っているという事実にも動じなかったらしい。 「お砂糖入れる?」  でも私の前に紅茶を置いた時、ユキさんは申し訳なさそうに少し頭を下げた。私はそれに、声には出せないながらも首を横に振る。  私は視線だけを動かして隣に座る父を見やる。父はなぜかむくれていた。ユキさんとのひと時を邪魔されたことに怒っているのだとしたら、父も相当落ち着いている。 「さて、どこから話を聞こうかな」  激しく動揺しているのは私だけだとしたら情けなくもあるけど、それが一番普通の人間の反応だとも思う。 「簡単なことです。僕はユキさんが好きで」 「君、なんでユキなわけ?」  なぜか言葉を挟んだのは父だった。むっつりと口を引き結びながら、軽蔑するように少年を見下ろす。 「さっき僕のこと好きって言ったじゃない。あれは嘘なの?」  この状況でも嫉妬に心を燃やしている余裕がある父が羨ましかった。 「レオニードさんも好きですけど、ユキさんは僕にとって音楽の神のようなもので」 「自分の言葉には責任持ってよ。ちょっと期待しちゃったじゃない」  こらこら父さん、そろそろ黙ったらどうだ。 「ミューズは撃ち落とすものじゃなくて優しくキスするものだよ。こんな無粋なものまで持って来て」 「ですから……って、ちょっと!」  少年と同時に私も目を剥いた。  父はいつの間にか少年が握っていた拳銃を手でぽんぽんして遊んでいた。 「え? これおもちゃじゃないの?」 「何言ってるんですか、当たり前でしょう!」 「なーんだ。ごめんね。はい」  私は心の中で叫んだが、時すでに遅し。父はあっさりと拳銃を少年の手に戻していた。  拳銃さえ奪えば人を呼んでそれで終わりにできたのに。妖精呼ばわりされる人に危機感などという気の利いたものは備わっていないのか。  差し当たってユキさんは紅茶に口をつけて、世間話をするように続ける。 「それで、君は私が好きで私を殺すの?」 「はい。自分もすぐに後を追います」 「私みたいなおじさんと一緒じゃ君がかわいそうだよ」 「いいえ。ユキさんは僕の神です」  機械みたいな受け答えだ。始めから決まっている答えをその順序通りに答えているような不気味さを感じる。 「だったら何で幸せを願わないんだ」  思わず私は反論を口にしていた。 「大事な人には元気でいてほしいだろ」  私は片割れのことを思いながら言う。  ミハルのためなら死んでもいい。ミハルが生きてるなら、幸せでいるなら私が全く真逆だって構わない。 「僕は違います」  少年はガラス玉のような目をして短く答えただけだった。そういえば彼は入ってくる時からこんな目をしていた。  でもそれに同情することはできなかった。 「人を殺すような理由にならないよ」 「エンジェル」  父が小さく声をかけてきた。あまり刺激するなというところだろう。  確かに私が変なことを言ってユキさんが撃たれたら、取り返しのつかないことになる。 「ごめんなさい」  父とユキさんに言って、困ったところで出てしまう私の安っぽい正義感を心の中でたしなめた。  馬鹿だな、私。人を殺そうとするような人間に何を説教しようとしたのだろう。 「まあ君がそう願ってるのはわかったよ。でもユキの意見は聞いたの?」  父は私の頭を軽く叩いて言った。気にするなという時の父の仕草だった。 「ユキが君と死にたいって思ってるならともかく、本人の裏も取れてないでいきなり押し掛けるなんてスマートじゃないね」  何かずれているような気はするが、言いたいことはわかる。  ポケットに手を突っこんだまま、父はぷくっとむくれて言葉をつらつらと並べる。 「ユキはみんなのミューズなんだよ。学生の頃からそうだ。言葉をかけてもらえただけでエデンの住人。そんな気分になれる華やかな世界の人なわけ」 「ユキさんと個人的に会えるような立場のあなたに僕の気持ちはわかりません。さっきは言葉を交わしたこともないって言ってたくせに」 「そんなこと言ったっけ?」  しらばっくれて、父はなお言葉を続ける。 「さっきから何なんですか、カルナコフさん。僕をからかってるんですか」 「からかってなんていないよ」  父は足を組みかえて、手を口元に持っていく。 「哀れな子羊に説教する宣教師のフリしてるだけ」 「あなたは……!」  怒りにまかせて少年が立ちあがり拳銃を父に向けると、父はひらひらと両手を上げて振る。 「残念」  父はため息を一つついた。 「君ともうちょっと遊びたかったな」  ふいに空気の流れが変わった気がした。 「物騒なことになってますね」  聞き覚えのある声が間近で響いた。  扉が開いた音を聞いた覚えはなかった。いつの間にか、すぐ側にアレクが立っていた。  驚いてアレクに銃口を向けようとした少年が、いきなりバランスを崩す。  チャンスだと思った。  私は踏み込んで一気に少年の懐に入り込む。  私は彼の手首に手刀を下ろして拳銃を叩き落とす。ガンと重い音が足元で響く。 「安樹!」 「エンジェル!」  アレクと父の驚いた声が同時に聞こえた。  少年はそれで怯まなかった。素早く私を突き飛ばすと、後ろポケットからナイフを取り出した。  思わず私が動きを止めると、少年は私を押しのけてユキさんに刃を向ける。  それを阻もうと手を伸ばしたら、大きな手が私の手を掴んだ。 「やめなさい!」  私を抱きしめるように壁に押しやって動きを封じたアレクに、私は対抗しようとしたけどびくともしなかった。  このままじゃユキさんがと焦ったけど、状況はころりと反転する。 「おっとぉ」  少年はユキさんの所に辿り着く前に見事にすっ転んだ。  アレクの肩越しに覗き込むと、父が足を伸ばしている。どうも父が少年の足をひっかけて、しかも少年のナイフも踏みつけていた。  ナイスだ、父さん。心の中で尊敬したら、部屋の外が騒々しくなった。 「警察だ!」  ユキさんが呼んだのか、紺色の制服を着た警官が素早く少年を確保する。  少年は信じられない顔をしていた。事態に全くついていけないようだった。 「ごめんね」  そんな彼に、ユキさんがきっぱりと言った。 「私は神じゃない。自分を守るためなら他人を踏みつける汚い人間だよ。君とは決して死ねない」  連れて行ってくださいと警察に促すユキさんは、まぎれもない大人だった。  私たちの前で扉が閉まり、一瞬の静寂が訪れる。 「レオ。君が会いに来なかった理由がわかったよ」  ユキさんは父に向きなおって言う。 「あの子に言ったように、私は自分を守るためには他人を踏みつける」 「……わかってる」  父が暗い顔をして頷く。 「だから安心して、これからも会いに来てね」  ぱっと父は顔を上げて目を瞬かせる。  父は神妙に、言葉を選ぶように迷いながら言った。 「いいの?」 「嘘をついてどうするの」 「じゃあ、その」  父は目を逸らしながらそっと言う。 「初めて会った時みたいに、握手してくれないか」  ユキさんは微笑んで父の手を取った。後光の差す、優しい笑い方だった。  父がこの人を好きになった理由がその笑顔だけでわかった。 「……やっぱキスも」  懲りずにユキさんの頬に向かう父を、私は何とか抑えつけて引きはがしたのだった。  扉の外にはミハルもいて、私はどういうことかさっぱり事情がわからなかった。 「遅いからアレクと迎えに来たんだよ。でも扉の向こうで変な話してるのを聞いたからさ、警察呼んで」  警察が来るのが早すぎるような気がしたけど、ミハルが言うならそういうことなのだろう。抱きついてくるミハルに、私は大丈夫だよというように肩を叩き返した。  ミハルとアレクは夕食の準備のために先に帰って、私は父とのんびりと町を歩いていた。 「アレクにあんなに怒られるなんて思わなかった」 「そりゃそうだよ。エンジェルが怪我するところだったじゃない」  私は少年の拳銃を叩き落としたことをアレクにみっちり叱られた。私だって護身術くらい覚えてるから大丈夫だと言っても、アレクはなかなか私を解放してくれなかった。 「あの拳銃、やっぱり玩具だったんだね」 「そうだよねー。騙されちゃったよね」  警察の話を聞いたところによると、拳銃は偽物だったらしい。けれど刃物を人に向けたことで少年はしばらく警察に捕まったままだろう。  既に日が暮れていた。空は紺色で、星もぽつぽつと見え始めている。  今日はいろいろ大変だったけどようやく家に帰れる。ミハルとアレクと父が揃った、私にとってどこより安心できるホームだ。家々の温かい灯に目を細めていた。 「エンジェル」  ふいに空気に溶かすような声で、父が言った。 「愛してるよ」  驚いて振り向くと、どこまでも真剣な眼差しがあった。 「いつでも、どこにいても、君を想ってる。君が幸せでいるなら、僕は地獄に落とされてもそこがエデンだと笑える」  光る碧の瞳に射すくめられたように、私は思わず足を止める。 「愛している」  もう一度言って、父は私の頭を抱いて頭のてっぺんにキスをした。 「今晩のご飯は何だろうねぇ」  それから体を離した父は、いつもの子供っぽくてかわいい年齢不詳の妖精だった。 「二日目だからアレクも手抜きするんじゃないか? あと父さん、水代わりにワイン飲むのはそろそろやめなよ」 「えー、やだぁ。ワイン大好きー」  そんな他愛ないやりとりをしてから、私は父の肩にこつんと頭を寄せた。  父は了解したように私の頭を撫でて、それから私の手を取って歩き出した。  星が瞬く綺麗な夜だった。
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