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晴夜
「この世界には、鬼がいる。
人に見えないように、あるいは人に姿を変えて、鬼は存在する。
人を死に導き、人を喰らって、その生命を繋ぎ、鬼は生き続ける」
※
そう僕に教えてくれたのが「晴夜」という不思議な力を持ち、鬼と戦っている男だ。
いや、僕が晴夜といっているだけで、真実の名前は違う。この先も知ることはないだろう。
「名には、強力な力がある。
名とは血であり、道であり、力の全てが刻まれる」
晴夜はそう言うと、僕に微笑みかけた。
鬼と戦う男の場合、真の名(晴夜は「真名」と言っている)を知られると命取りになるのだという…。
だから僕は心の中で、男に相応しい名前を勝手につけて呼ぶことにした。
「鬼と戦う男」という言葉から浮かんだのは、有名な陰陽師である「安倍晴明」だった。実際どういう方だったのか詳しくは知らないが、僕の中で何故かしっくりきた。それが、いけなかったのだろう。
それから僕は、心の中で「晴明」と呼ぶことにしたのだった。
だが、いつの日か心の声は声に出てしまうのだろう。
何か特別な事をしていたわけでもなく、ただ晴夜が珈琲をいれてくれた時だった。
「ありがとう、晴明」
と、僕はうっかり口にしたのだった。
男の動きが止まり、怪訝な顔で僕を見つめた。
珈琲のいい香りが立ちこめてはいたが、僕達の間をそれ以上に濃い微妙な空気が漂った。
「あっ…ごめん。
僕の中で…勝手にそう呼んでいたんだ」
「偉大な御方と同じ名で呼ぶのは、やめて欲しい」
と、男は言った。
怒ってはいなかったが、僕は自分の浅はかさを酷く後悔した。人間から神ともなった唯一の方と、同じ名で呼ばれるのは畏れ多い。もし僕が親に同じ名前をつけられたら、重圧で押し潰されてしまう。
「ごめん、やめるよ。
初めて会った時…そう、公園での小鬼を思い出したら…鬼から…安倍晴明のことが浮かんでさ。
それで…なんとなく…ごめん」
「あぁ、懐かしいな」
男はそう言うと、珈琲を一口飲んだ。
口元に涼しげな微笑みを浮かべ、窓を開けてベランダへと出て行った。
夜の涼しい風が入ってきて、カーテンがユラユラと揺れた。
僕も立ち上がりベランダへと出て、男の隣に立ち夜空を眺めた。
夜空は美しく、幾億もの星が輝いている。夜風に吹かれる男もまた綺麗だった。
その瞬間、僕は光の世界に目が釘付けになった。
晴明の「晴」は残したまま、鬼と戦う男は夜に活動することが多いので「夜」を合わせ、晴夜という名がユラユラと浮かんできた。
「なら…セイ…ヤはどうかな?
この夜空を見ていて、急に浮かんだんだけど」
僕がそう言うと、晴夜は笑ってくれた。了承してくれたということだろう。
「あの時、あの場所で、小鬼がいなければ、こんな風に共に夜風に吹かれることもなかったのだろう。
私は、鬼を追い、殺しているというのにな。
それだけは、感謝しよう。
なんとも不思議なものだな」
晴夜がそう言うと、僕もあの頃に思いを馳せていった。
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