菖蒲

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菖蒲

 晴夜は駅から少し坂を登った閑静な住宅街に住んでいる。  5階建のマンションの最上階に住んでいて、窓から美しい街を一望でき青い海まで見える。高層ビルと高層マンションがないから遮るものがなく、輝く夜空を近くに感じる事が出来るのだった。  晴夜の言葉に甘えて、僕はよく遊びに行っている。  今日も大学の友達と行った旅行のお土産を持って、晴夜のマンションのエントランスに入った。部屋番号を押し、応答こそなかったがロックが解除されると、数週間ぶりに晴夜と話をするのを楽しみにしながらエレベーターに乗った。  エレベーターを降り、晴夜の部屋のインターホンを押すと、ドアがゆっくりと開いた。 「ひさしぶ…」  最後まで言い終わらないうちに、僕は衝撃で固まってしまった。  玄関のドアを開けてくれたのは、晴夜ではなかった。  そこには、紫色のワンピースを着た色白の美人が立っていた。横で一つに束ねられた艶のある美しい髪、くっきりとした二重を縁取るのは長い睫毛だった。  軽くお辞儀をしてくれると、彼女から優雅な香りがした。心を鎮めるような苛立った気持ちを落ち着かせてくれるような香りだった。  彼女は麗しい笑みを浮かべながら、玄関マットに置かれたスリッパをすすめてくれた。 「あ…お邪魔…します」  僕はそう言ったが、本当に邪魔をしてしまったのではないかと申し訳なくなった。  楚々とした美人にドキドキしながら、ぎこちない足取りでリビングへと向かった。  晴夜はソファーに座りながら本を読んでいた。何か調べ物でもしているのかテーブルには本が積み上げられ、珈琲とガラスのコップが置かれていた。  晴夜がチラリと僕の方を見ると、僕は晴夜の隣にドカリと座った。 「晴夜に彼女がいたなんて知らなかったよ。今日彼女が来るって言ってくれたら遠慮したのにさ。  あんなに美しい人は…初めてみたよ」   僕は台所にいる彼女に聞こえないように小さな声で言った。 「彼女?美しい人?」  晴夜は本を読むのをやめて、怪訝な顔で僕を見た。 「え?彼女だろう?」  僕達の間で不思議な押し問答が繰り広げられた。  僕が台所に立っている彼女の方に視線を向けると、晴夜もその視線の先を見つめた。 「あぁ、そうか。  一樹は、菖蒲に会うのは初めてだったな」  晴夜はそう言うと、手に持っていた本をテーブルに置いて彼女の名を呼んだ。  下を向いていた彼女は顔を上げると、ニコッと微笑んだ。  僕の分まで珈琲を用意してくれた彼女は、お盆に珈琲をのせて静々と歩いてきた。  見れば見るほど清楚で奥ゆかしい。歩く姿は百合の花という言葉を聞いたことがあるが、こういう女性をいうのだろう。その上品さは、同じ人間とも思えないほどだった。  彼女は腰を屈めると、音も立てずにテーブルに珈琲カップを置いてくれた。  僕はお礼を言うのがやっとだったが、彼女は優しい微笑みを浮かべてくれた。屈めていた腰を伸ばすと、すっとした立ち姿に目を奪われた。  彼女もまた晴夜の隣にそっと座ると、風で揺れる花のように少しだけ男の方に体を近づけた。  座るとスカートが少しあがるせいか、白い太腿が少しだけ見えた。 (おい!)  イケナイものを見せられているような気がして、僕はドキドキした。  しかし晴夜は隣に美しい女性が座っていると感じる様子もなく、テーブルの上のガラスのコップを手に取った。 「水はもうないか…」  と、晴夜は呟いた。  そして緊張が顔に出ているであろう僕の顔を見ると、コップの中に残っていた溶けかけの氷を優しく指でとった。  男は濡れた手で、水を滴らせながら、彼女の元へとソレを運んでいった。 「お食べ」  晴夜は囁くように言った。  彼女は男の瞳を見つめながら、ゆっくりと自らの瞳を閉じた。艶めく唇を少し震わせながらも、男の言葉通りにソレが入るぐらいに口を半開きにした。  男は水を滴らせながら、彼女の中にいれた。  艶めく唇が濡れていき、彼女の全身も濡れていった…  そう…彼女は濡れていったのだ。  いや、正確には彼女ではなく、人形型に折られた綺麗な色の濡れた折り紙がヒラヒラと床に落ちた。  口をあんぐり開けている僕を、晴夜は意地悪な目で見つめてきた。 「ガッカリしたような顔をしてるな」  と、晴夜は言った。 「ちがうわ!」  すっかり心を読まれていた僕が大きな声で言うと、晴夜は愉快そうに笑った。 「菖蒲は人間ではないし、折った私には大きな紙人形にしか見えない」  晴夜は静かに言った。  彼女は折り紙であって、人間ではない。  同じ人間とも思えないと思ったのは、間違いではなかったのだ。  晴夜が広げてくれた折り紙には、僕にはさっぱり分からない紫色の花が描かれていた。  彼女が着ていたワンピースと同じ色だ。目を惹く紫色の花弁は彼女の美しさを思わせ、すっと伸びた葉は髪と凛とした立ち姿を思わせた。 「美しい葉だ。  鬼が嫌う形をしている」  晴夜はそう言ったが、僕には分からなかった。 「嫌う形?美しい形としか思えないけどな。  でも…よく見ていたら…少し怖い気もする」  僕がそう言うと、晴夜の瞳が少し光った。 「刀だよ。  鬼を斬ることができる唯一の刀だ」  と、晴夜は言った。  その折り紙に描かれていた花が、菖蒲だった。  彼女の正体は「式神」のようなものらしい。   菖蒲の葉は鬼が嫌う刀の形をしていて独特の匂いもあり、鬼が逃げていく。そこにあるだけで鬼から守ってくれる力があるという特別な花なのだ。    鬼と戦う晴夜の『仕事』は『鬼喰い』という。  男達が持つ刀には、特殊な力がある。 「それって…陰陽師みたいなものかな?」  僕は以前そう聞いたが、晴夜は首を横に振った。それ以上は何も教えてもらえなかった。  月に一度、鬼喰いの会合があり、その時に仲間の1人が作ったものを晴夜ももらったらしい。  水を飲ませたり衝撃を与えたりすると元の大きさの紙に戻ってしまうが、改良を加えた事で人間がするような事までも出来るようになったと喜んでいた。 「なんで僕には女性に見えたんだろう?」 「私が、そうなるように願いながら折ったからだ。  折る私が願ったものになる。  一樹に綺麗な菖蒲の花を見せようと思っていたら、そうなったのだ。花に水をあげたら、少し気になる表情をしていたけれどな。菖蒲に魅入られたかな?」  晴夜がそう言うと、テーブルの上の濡れた折り紙がカサッと音を立てたような気がした。僕の脳裏に先程の美しい女性が浮かんだ。   「晴夜は恋人はいらないの?」  と、僕は聞いた。  「あぁ、そうだな」  晴夜はそう言うと、香り高い珈琲を口に運んだ。 「どうして?」 「人付き合いが、煩わしい」  と、晴夜は言った。それは、口癖の一つだった。 「そうなのかな…。  さっきみたいに誰かと一緒に過ごすのは楽しいと思うけどな。晴夜には紙としか見えてなかったかもしれないけど…それが愛する人なら、なおさら」 「まぁ、そうかもしれない。  だが、人それぞれだろう。  一人でいる方が、安心できる者もいる。  それに誰かと一緒にいることで、無条件に幸せになれるわけでもない。かえって不幸にする場合だってある」  晴夜はそう言うと、テーブルの上の濡れた折り紙を見つめた。その折り紙は、もう人型となることはないのだろう。僕達の前で動くことはないのだ。 「それと…そうだな。  私は鬼を仕留めそこなかったことはないが、これから先も絶対とは言い切れない。予期せぬ何かが、起こるかもしれない。  例えばだが…逃げた鬼は賢くて、私は家までつけられていることに愚かにも気付かないとしよう。  家には、私の大事な女性が、私の帰りを待っている」  晴夜はゆっくりと言った。    その光景を、僕は想像した。  音も立てずに晴夜の後をつけて行く鬼の顔は、怒りと憎しみに満ちていた。憤怒の感情は体の痛みすらも忘れさせ、自分が味わった屈辱以上の苦しみを相手に与えてやろうとする憎しみの炎で燃えていた。 「鬼は、私には勝てないと知っている。  しかし、己を傷つけた私を殺したいほど憎い。  木に登り、カーテンの隙間から見えるのは、私と愛しい女性が抱き合っている姿だ。  なら、簡単だ。  私を死ぬほど苦しめるために、大事な女性を殺す。しかも人間では考えられぬほど残忍な方法でな。  それが、鬼だ。  この仕事をしている限り、女性は愛さないと決めている。  幸せにできないのなら、自分の道に巻き込みたくはないんだ」  晴夜はそう言うと、濡れてクシャクシャになった折り紙を側にあった銀色の箱にいれて静かに蓋をした。  それは棺のように見えた。先程動いていた美しい女性の顔を思い浮かべると、僕は苦しくなった。  僕は珈琲を飲んで気持ちを落ち着かせようと思い、女性がいれてくれた珈琲カップを手に取った。しかしカップをソーサーから持ち上げる時に手が震えてしまい、カタカタと音が鳴り響いた。 「人付き合いは煩わしいが、一樹は特別だ。  ところで今日はどうしたんだ?気になる女性でも出来たのか?菖蒲が女性に見えたのなら、一樹はその女性の事を考えていたのだろう。  何か…気にかかる事でもあるのか?」  と、晴夜は言った。 「その…」  僕は晴夜に特別だと言われたことが嬉しくなった。  手の震えが止んだので珈琲を飲むと、いつも家で飲んでいるインスタントとは全くちがう味がした。   「あっ…美味しい…。  お店で飲むみたいだよ」  僕がそう言うと、晴夜は頷き笑ってくれた。 「大学のサークルで気になっている女の子がいてさ…由香っていうんだけど…。同じ大学ではないんだけど…」  僕はそう切り出した。
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