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そんな訳で、晃嗣は翌週の木曜日の夜に、指定された渋谷のファストフード店に赴いたのだった。自宅のある日暮里から、敢えて離れた場所に設定してくれたらしい。渋谷はあまり良く知らないが、ここで待ち合わせをして、この辺りに固まっているいずれかのホテルに行くのだろう。
ストローでオレンジジュースを吸いながら、見つけてもらえるのかと晃嗣は心配になった。なるべく入口に近い席に座っていてくれと神崎からメールが来て、その通りにしているものの、誰かに見られないだろうかという不安もあり、落ち着かない。
次々に出入りする客を見るともなく視界に入れていると、すっとした背の高い若い男が店内に入ってきたことに気づいた。晃嗣はあれっ、と思う。確かあれは営業課の……。
彼は待ち合わせをしているのか、レジに並ばずきょろきょろと首を動かした。同じ会社の人間に姿を見られるのはまずいと思った晃嗣は、顔を俯けてトレイに敷かれた紙に書かれた宣伝を見る。すると自分の横に誰か来て、空気が動いた。
「柴田晃嗣さんですね?」
耳に快い声で言われて、晃嗣はえっ、と咄嗟に顔を上げる。そこに立っていたのは、誰かを探していた営業課の若い社員である。晃嗣は目を見開き、頭の中がクエスチョンマークで埋められていくのを感じた。
「えっ、えっ、は、はい、柴田は私です、が」
「こんばんは、初めまして」
グレーのマスクをつけた彼は、失礼しますと言ってから、身軽に晃嗣の前に座る。そしてバッグから名刺入れを出し、薄青の小さな紙を一枚抜き出した。
「さくです、今日はよろしくお願いします」
嘘だろ……。晃嗣は言葉が出なかった。美しい色の名刺には、神崎綾乃のそれと同様、ディレット・マルティールの店名と、ひらがなで「さく」と書かれている。
晃嗣は彼の名を知っていた。――高畑朔。営業課の期待の若手だ。つまり桂山営業課長の部下にあたる人物だが、まさか……皆で自分を嵌めようとしているのだろうか? あ然としたまま、差し出された名刺を受け取った。
「あらためて、ご縁をもたせていただくこと、ありがとうございます」
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