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〇1ラフトラッカー
観客のほとんどは女性だった。その中にポツンと座っている里中慎太郎は、ジャケットの襟を軽く正し、不敵に笑った。
客席の声を拾う集音マイクは打ち合わせ通り、目の前にある。周りを見渡すと、知っている顔がある。番組観覧によく来ている女性、この手の常連客だ。
「間もなくタレントさん入られます。拍手でお願い致します!」
アシスタントディレクターの声がスタジオに響く。その声と同時に、テレビタレントやお笑い芸人が現れる。観客席に咲く歓声と拍手。里中は拍手をしながら、客席の温度を確認する。今日は上々だな――。そんな手ごたえを感じる。
里中がこの特殊な仕事を始めて、25年になる。まさかこの仕事一本で食べていけると思いもよらなかった。里中が自身の才能に気づいたのは、大学時代、とあるバラエティ番組の観覧をしてからだった。
それ以前からも自身の特異体質に薄々、気づき始めてはいた。しかし、確信には至らなかった。自分が誘い笑いの天才であるということに。子供の頃から、里中がいれば、周りが華やいだ。里中が笑うだけで、空気が変わるのだ。笑いは里中を中心に急速に伝染し、次々に人を笑顔に陥れていった。
それは大人になっても変わらなかった。飲み会の席でもそうだ。笑えば笑うほど、盛り上がり、笑いの熱が帯びていく。里中の笑いが撒き餌となり、水面に食らいついた鯉の群れのように、場は激しく熱狂した。
大学時代、たまたま当たった番組観覧に参加した。ただそれだけのことだった。里中はごく自然に振舞っているだけに過ぎなかったが、その収録は番組史上、稀に見る盛り上がりを見せた。
里中の誘い笑いが客席に火を付け、爆笑に次ぐ爆笑が起こったのだ。客席の活気に出演者たちの熱も上がった。いつも以上のテンションを見せる出演者と客席の相乗効果に、プロデューサーは興奮した。
「あの男をそのまま帰らせるな」
プロデューサーの一声により、里中はそのままスカウトされた。史上類を見ないであろう、プロの笑い師、ラフトラッカーとしてのキャリアをスタートさせたのだった。
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