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ドアから出ると、里中は普段は行かない3階に上がった。3階には売店があり、緊張と笑いで乾いた喉を潤そうと思ったのだ。
売店に向かう途中の廊下で、八野と隼人が、301の部屋に入って行くのが見えた。せっかくだから、隼人にも挨拶をと思い、部屋の前へ向かう里中。
ノックをしようとしたが、不用心にも、扉は微かに開いていた。
「勇人くん、いいだろ」
八野の声が響いた。息子が褒められている――そう思い、里中は小さな隙間から中を覗いた。八野と隼人が白いテーブルを挟んで、向かい合うように座っている。
「はい」
隼人の返答に、八野は笑いながらこう言った。
「もういいよな、彼は」
もういい――? 里中は背筋を凍らせ、胸を掴んだ。
「里中さんも必要ない。君がいれば」
隼人はフフフと肩を震わせて笑うと、つられるように八野も笑った。
「君のラフトラッカーとしてのセンスは抜群だ。もちろん芸人としても……」
「ありがとうございます」
「ネタはたいしたことなくても、君が笑っているだけで、観客も笑うんだから」
「勇人とお父さんは?」
「親子ともどもお払い箱って感じかな」
「胸が痛みます」と隼人は、気まずそうに八野から顔を背けた。
「厳しい世界だからね、仕方ない」
八野は吐き捨てるように言い、椅子に深く腰をかけた。
里中は2階へ下り、208の楽屋へ向かった。もう勇人はいなかった。空っぽの楽屋に入り、椅子に腰かけ、テーブルに両肘をついて頭を抱えた。そして笑った。
笑って、笑って、笑ってやった。むなしい笑い声が楽屋に響く。これだけ笑っているのに、誘い笑いに応じてくれる人は、誰もいなかった。
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