流線形には逆らえない

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 昼間に海沿いを走る、健全なドライブ。  隣に乗せた君は無邪気にはしゃぐけれど、そこに座るのは最後だということをわかっているのだろうか。  勝手に自分の聴きたい曲を流し出して。なんてあつかましい、とはもう言わないほど、僕らは近くて親しい間柄だ。  お腹が空けば一行だけのメールで呼びつけ、夜中であってもお構いなしに眠れないからと電話をよこし、海が見たいのと車を出させる。気の向くままに、僕の都合なんて知らないふりをして、あれやこれやと付き合わせる。とんだ時間泥棒だ。しかし、抗えない。  いいように振り回されて、それでも嫌じゃなくて、めんどくさいなと言いつつ、心が弾むのだから仕方ない。 「潮のかおりをかぐのは久しぶりかも」 「前に来たときは真冬だったから、においとか気にする余裕もなかったしね」 「あれは寒かったねぇ」  例に漏れず唐突に、冬の海は星が綺麗なはずだから見に行こうと言い始めた彼女のせいで極寒の海にかりだされ、結局曇った空の下、二人して凍えたまま自販機のコーンスープを飲んだ。震えが止まらなくて、握りしめた缶はあっという間にぬるくなったが、最後は二人とも笑いながらひっくり返した缶をとんとん叩いて、空の星よりも缶の底のつぶに夢中になっていた。  僕らが過ごした記憶は、そんな意味のないことの繰り返しだった。だから心地良くて、手放したくない時間だった。 「そうそう、実家から野菜が送られて来たんだけどいる?」  話がころころ変わるのも、いつものこと。 「もうもらったからいいよ」 「え、いつ?というかなんで家知ってんの」 「おばさんからメールがあって、送るから住所教えてって」 「メル友なの?」 「メル友なの」  自分の娘の友達とメールしていることを、どうして本人に隠すのかね…とうなだれる彼女に、定期的に近況報告を求める連絡がこちらに届いていることは黙っておこう。まぁ、メールのやり取りがあると知った時点で薄々勘づいてはいるだろうけれど。 「いつの間に」  連絡先の交換なんて。そう言って苦い顔を押し殺せないのは、別に嫌いという訳ではなく。けれどなるべく連絡は取り合いたくないし、周囲の人間とコンタクトを取って詮索されるのも困る彼女の本音の表れだった。きっと、年齢的に必然とおとずれるプレッシャーのせいだろう。 「おばさんが上京して来た日、たまたま会って軽く挨拶したでしょ。あのタイミング」  母怖い、と彼女は額に手をあてる。 「本当油断も隙もないよ。野菜送るって電話きたときだって、またお見合いの話挟み込んでくるんだから。おっかないおっかない」  結婚はまだか。そんな親からの圧は形となって彼女のもとへと届いた。大きな写真を添えて。 「結局何人分?」 「三人目以降は数えるのを止めたからわからないや。全部見ずに送り返してやったけどね」  ふふん、と鼻を鳴らすけれど、娘を思う母親の本気の根回しを舐めてはいけない。 「で、今さらだけど。どこに向かっているの」  かれこれ二時間ほど経っているのに。ここまでずっと目的地に疑問をもたなかった彼女の思考は、今日も通常運転だ。 「珍しくそっちから誘ってくるし。もしかして良いところに連れて行ってくれるの?」  高級料亭や隠れ家的なフレンチを想像しているのか、期待の眼差しが眩しい。だから粧し込んで来るように言われたのか、と一人で納得し、頷いている。 「かもね」  誰にとっての、”良いところ”なのか。答えに困った僕は、曖昧な返事で戯けるしかなかった。  かかっていた音楽が最後の一曲を終え、少し開けた窓の隙間から風をきる音だけが鼓膜をうつ。穏やかな波を眺める彼女の横顔を盗み見ながら、そのまま車を走らせた。流線形に沿って空気を流し疾走する車体は、否応なしに速く進む。このときばかりはそのことを、苦々しく思った。頼まれごとの終着も近い。 「もうすぐ着くよ」  口を開いた僕に、彼女は視線を向ける。 「ご飯?」  一言も言った覚えはないのに、豪勢な食事をするのだと信じて疑わない顔だ。 「それは後でね」  そういう場だから、おそらく後々食事の席も設けられているだろう。 「やっぱり良い料理には良いお酒も欲しいよね。あぁ、でも車だから無理か。いっそ泊まっちゃえば飲めるーー」 「気にしなくていいよ」  食事の算段を膨らませる彼女を見ずに、静かに言う。 「相手は僕じゃないから」  開けた駐車場に入り、車のエンジンをきった。  不思議そうに首を傾げたのを気配で感じたが、まだ僕は彼女の顔を見られそうにない。だから、これから彼女が向かうあの場所だけを見据え、どうしようもなく虚しい三文字を足して、この台詞を言うのだ。 「結婚しておいで」  何も言葉はない。ただ、彼女が、僕の目線を追う。その先には、駐車場に併設する旅館の入り口の前で辺りを見渡す彼女の母親の姿があった。 「私は、怒ったらいいの?」  濡れたような声に、思わず隣を向いてしまう。動揺した。台詞とは裏腹に、彼女が泣きそうな表情をするものだから。 「写真見せてもらったけど、良い人そうだよ」  優しそうだし格好良いし経歴もしっかりしている、きっと素敵な人だ、そう取り繕うように付け足す。心にもないのに。 「幸せになってもらいたいんだ」  おばさんも、僕も。 「お見合いしたら…その人と結婚したら、私は幸せになると思うの?」  真っ直ぐにこちらを見る瞳が、揺れている。喉がつかえて、声が出ない。  唾を飲み込んだ僕は、小さく頷くことしか出来なかった。 「わかった」  数分が数時間に思えるほどの沈黙の後、彼女はおもむろにドアを開いた。ぎこちない足取りで、旅館のほうに向かい歩き出す。続くように外に出て、彼女の背中を見送る。何時間ぶりかに浴びる外の風は、海に近いせいか少し荒かった。  帰ったら、気のすむまで飲み倒そう。そう考えながら、車に体重を預け、遠ざかって行く後ろ姿を目で追いかけた。  すると突然彼女が立ち止まり、振り返る。何を思ったのか足早に戻って来た彼女は僕の腕を掴み、そのまま勢いよく引いた。  ふいな行動に、体が前屈みになる。一層強い海風が二人の間をすり抜けたとき、背伸びをした彼女は、そのまま僕に顔を近づけた。  丸みを帯びた中心から、端に行くにつれ細くなる、薄く、柔らかいそこが触れたのは、吹いた風よりも短い時間だった。 「私も。幸せになってほしいと思ってる」  あなたに。  優しく触れるだけのそれはあまりに一瞬で、駆け抜けた風によって、重なり合った感触は儚く消されていった。  流線形が走る。風を受けてどこまでも。窓を全開にして、空気に目一杯あたって。  来た道をなぞるように進むと、太陽が低くなり始めていた。  待ち合わせが昼間で良かった。でなければ、今度はこちらが星を見るのを言い訳にしていたかもしれない。夕暮れの海に引き止めて、夜になっても離れられなくなって。そうしたらきっと、見送ることなんて出来なかった。彼女の幸せより、彼女の隣にいたいという自分の幸せを選び取ってしまっていた。だからこれで良かったのだ。  ふたたび吹く海からの騒めき。少し痛いほどに強く、顔を纏う。  どうせ強い風ならば、いっそまとめて奪い去って欲しい。盗まれていた心と、落とされた口付けの感触ごと、全て。 完
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