蛹は一度泥になる

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 冷えた制服に袖を通す。大人達と違って専用の服を持っていなかった私はあの日もこの制服を着ていた。あの日も、あの時も、この冷えた制服に袖を通し、震える身体をなんとか抑えてただそこに立っていた。あの日からずっと、好きだった音楽も膜が張ったようにくぐもって聞こえづらい。甘くて好きだったホワイトチョコレートも、連絡を受けた時に食べていたからか、あの日以来一口も食べることが出来なくなった。窓から見える、まだぼやけている冬特有の濃いオレンジ色の朝焼けも、四角く切り取られた何かの素晴らしい絵画のようにしか見えない。どこまでも他人事で、美しいということすら当たり前のように受け入れてしまうから、これっぽちも新鮮なんかじゃなくて。  世界でたった一人の大好きな人を亡くした私の世界は、全てが腐ったまま「美しい」を保っていた。至って当たり前の美しさを保ったまま、臭く汚く腐り果てている。少しも代謝のない、世界だった。  綾芽(あやめ)ちゃんと初めて出会ったのは、母親同士の井戸端会議の傍で半分不貞腐れながらスマホを弄っていた時だった。なぜこんな所に同席しなければならないのか。ああ、気まぐれにゴミ出しを手伝ったのが間違いだった。それとも一人で行けば良かったかな。一応の世間体を気にして溜め息もつけずにスマホに目を落とし続けていた私には、そこにいる小さなもう一人に気づく余裕も無かった。この日のちょうど一年前に亡くなった私の小学校の時の担任、八重ちゃん――八重垣京子(やえがき きょうこ)――の話で持ち切りの母親同士は、私の気持ちを少しも考えずに大きな身振り手振りで話題だけを膨らませていく。 「ちょうど一年、よね」 「あんなにいい先生だったのにね。卒業式も見せてあげられないなんて……本当にあと少しだったのに、本当に惜しいわよね。そう言えば、有宇(ゆう)ちゃんも昔担任を受け持ってもらってたのよね、ねえ、そうよね有宇ちゃん」  何故私の名前を知っているのか分からない、よく知りもしない誰かの母親が急に話しかけてきて、私は無駄にスクロールしていた手を止め顔を上げた。朝起きてから初めて出す言葉に、声は篭ったまま口の中で泳いでいく。そんな情けない声を必死に大きくさせ、慌てて返事をする。 「あ、はい。5・6年生の時に」  簡素で無愛想な受け答えに一瞬相手の眉が動いたが、そんなことは私には関係ない。また手元のスマホに目を落としその場から自分の存在を消した。 「うちの綾芽もね、担任の先生だったのよ。ちょうど有宇ちゃんと同じように5・6年生の担任だったんだけどね。あともう少しで卒業だったのに、本当に惜しいわよね」  惜しい、そう簡単に並べられる単語が酷く嫌だった。例え若くして死んだ優秀な人間にかける言葉として合っているのであっても、単に私が耳にするのが嫌だったから。そんな言葉から目を逸らそうと一歩だけ下がろうとしようとした時、話し込んでいる大人達の影から線の細い何かが一歩前に出るのが分かった。こちらに差し出されるようにして肩を持たれ、少し前に出された小さく細身の女の子は下を向いたまま足元をずっと見つめて黙っていた。ふわふわの黒い髪が風で揺れ、静かに彼女を隠している。そこに半分隠れている口元はぎゅっと一文字に結ばれ、両手はしっかりと握りしめられていた。 「ほら、綾芽、ご挨拶しなさい」  促されてもびくともしないその子は、一度だけ顔を上げて私を睨みつけ、また下を向く。反抗的な目の奥には真っ黒な空洞があるみたいだった。 「この子、今中一なんだけど、あのことがあってから塞ぎ込んじゃってずっとこの調子なのよ。全然人とも喋らなくなっちゃったし。ねえ、有宇ちゃんなら同じ境遇だし何かいいきっかけをくれるんじゃないかって思うんだけれど、どうかな。うちの綾芽と少し遊んでやってくれない?」  中一には見えない体躯だった。小学生、それも低学年と言われても分からない程に小さなその女の子は、必死に何かから耐えるように手を握りしめたままで、この場を、この世界を、その小さな身体で呪っているみたいだった。もう高三にもなる私に急に差し出された、酷く幼く見える中一の女の子。しかも第一印象は最悪で、強く私を睨んできたような子だ。そんな子を、ましてや少しの中身も知らない相手に対して何をどうしろと言うんだろうか。第一、私だって八重ちゃんの死をまだ受け入れられたわけじゃないのに。それにこの子だって、こんなこと迷惑だろうに。 「有宇もあれからだいぶ塞ぎ込んでるから丁度いいんじゃないかしら」  そんな私の杞憂なんてお構い無しに親達はいつも勝手に物事を決める。私物のように私達のことを決めては、押し付けてくる。親のことは嫌いではないけれど、そういう所は少し苦手だった。 「よろしくね、綾芽ちゃん」  さっき知ったばかりの名前を口にして交わす挨拶。 「はい。よろしくお願いします」  定型文の一番上に出てくるであろうその言葉に含まれた意味を、私は察することを辞めてしまった。  二週間が経って、あんな口約束なんて忘れ去られていると思っていたある日、不在がちな綾芽ちゃんの母親の代わりに家の留守を頼まれることになった。二週間前にたった一度顔を合わせただけの女の子と二人きりで一体何を話せばいいのか。しかし、そんなことを迷っている暇もなく、私は案外近くにあった綾芽ちゃんの家のインターホンを押した。これだけ家が近いのだから、子供同士の交流が無かっただけで母親同士の交流はある程度盛んだったのだろう。それとも、八重ちゃんのことがきっかけで仲が深まったのだろうか。どちらにせよ私達に関わりは無く、今日が二回目の顔合わせの日だった。「どうぞ」とぶっきらぼうに放たれた言葉と共に開くドア。自然とつられてこちらも同じトーンになってしまう冷めた声で「お邪魔します」と告げ、靴を揃えた。二人分しか体温のない玄関は静かで、冷たかった。  案内されたのは意外にもリビングではなく子供部屋だった。一気に香る子供の甘い匂いに、眩みそうになる。予想もしなかった距離感の詰め方に戸惑っていると、ジュースとお菓子を載せたトレイを持った綾芽ちゃんが慎重に部屋へ入ってきた。形だけ見れば同級生が部屋に遊びに来た、といったふうだけれど、そうでないことはこの部屋のなんとも言い難い空気が示していた。どちらともが言葉を口に出さずに、ただ座っている。子守りにはなっているかもしれないが、交流の形としてこれで合っているのだろうか。こんな空気の中、、ベッドに腰掛けた綾芽ちゃんの隣に座るわけにはいかず、小さなテーブルの置かれているラグの上に座って当たり障りない会話を探した。 「あ〜、えっと綾芽ちゃんって佐山中なんだっけ」 「はい」 「竹中先生ってまだいる?」 「……分かりません」 「あ、うんそっか、ごめん」  途絶えた会話の間に飾りとなっているジュースの中の氷が溶けて、合いの手を入れた。これだけ沈黙が膨らんでしまったこの部屋ではそんな些細な音だけが頼りで、救いだった。やけに大きく聞こえる時計の秒針の音が私達の間を急かす。でも、もうこれ以上話すことなんて。 「……八重ちゃん――京子先生のこと、好きだったんだね」  これ以外無かった。時期尚早だとは思った。馬鹿な質問だとも思っていた。けれどこの空気のままあと数時間居られるほど私は優しくも穏やかでもないから。そんな私の身勝手な言葉を浴びた綾芽ちゃんの身体は、ピクリと動いてまた固まった。そしてゆっくり瞬きをした目は私をしっかりと見据え、睨みつけるような強さで私を捉えた。 「はい、好きでした」 「えっ、あっ、それってどういう好き?」  あまりにも素直に好きと言う綾芽ちゃんについ怯んでしまった私は、思いがけず芽生えた嫉妬心に少し心が曇った。 「……話さなくちゃいけませんか」 「あ、ううん別に無理にとかじゃないんだけど」 「じゃあ話したくないです」  小さな身体が部屋の真ん中に置いた大きな拒絶。分かってはいたけれど、ここまで頑なに拒絶されてしまえば後はもう大人しくしているしかない。会話をすることを諦め、私はイヤフォンを取り出した。一応留守を頼まれている身だし、何かあっても大丈夫なように片耳だけ。そんな私の勝手な行動を見た綾芽ちゃんはじっと私を見つめ、私に届くか届かないかの小さなため息をついた後に互いのすべきことを察して本を読み始めた。私が中一だった頃、こんなに察しが良かっただろうか。お行儀よく大人を演じてみせる綾芽ちゃんのことを考えることで頭の中にはノイズが走り、片耳から流れてくるお気に入りのアルバムも上手く聴き取れずにそわつく身体をニセモノのリズムで隠して過ごした。昨日配信されたばかりの新曲も、一切耳には入ってはきてくれない。横目で見る綾芽ちゃんの横顔は幼いまま、していることだけが大人だった。あ、でも、大人はもう少し角が立たないような言い方をするかな。なんて、本当の大人ってものを分析してみるけれど私だってまだ子供だ。どんな振る舞いが正しい大人なのか全く分かってなんかない。不完全な音楽を聴いたままつい、その横顔をぼーっと眺めているとページを捲る所作がやけに綺麗な綾芽ちゃんの手が止まってぎゅっと握りしめられた。 「なんですか、じっと見て」 「あっいやごめん。綺麗に本読むな〜って思って」  そう言えば八重ちゃんも綺麗に本を読む人だった。放課後の教室でなんとなく物思いに耽っていると、それに寄り添うように八重ちゃんは教卓で一ページ一ページゆっくりと綺麗に捲っては物語に入り込んでいた。それを、思い出した。チリチリする胸の中が相手に見えるような生態じゃなくて良かった。そんな馬鹿げたことを思ってしまうくらいには、この胸の痛みは酷いものだった。自分のことで精一杯で気づくのが遅くなったけれど、綾芽ちゃんも私と同じような表情をした後に慌てて視線を逸らしていた。ああ、そっか。担任が同じ八重ちゃんなんだから、本を読む所作に関して何か思い出でもあったのかも。八重ちゃんとのあの思い出が決して私だけのものではないということを突きつけられ、露骨に不機嫌になる自分に笑ってしまう。これが、きっと子供なんだ。 「……時間までお互い関わらなければいいはずですよね」 「ん、そうだね。ごめん」  私はこれ以上綾芽ちゃんに自分を掻き回されるのが嫌でもう片方のイヤフォンを付けた。きっちりと正解の音楽になった好きなアーティストの曲。それでもまだ走る頭の中のノイズに私はどうしようもなく苛立ってしまう。隣で無関心を装ってページを捲る綾芽ちゃんのその手も、どこかうわの空のような、ただページを捲ってるだけの形だけのものに見えた。  この日、綾芽ちゃんの母親が帰ってくるまでの数時間。世界で一番長い時間だったんじゃないかと思うくらいには退屈で、そして憂鬱だった。この時間がまた別の日に続くのかと思えば、その憂鬱もさらに増してゆく。なんでこんなこと、引き受けたんだろう。まあ、あの状況じゃあ引き受けるしか無かったんだけど。一口も口をつけられていないままのジュースはコップの周りに結露が溜まって溢れかえっていた。まるで二人が持て余した時間が可視化されたようで、見ていられず、手が濡れるのを厭わずコップを握りしめて中身を飲み干してから「ごちそうさま」とだけ言って部屋を出た。気にしていなかったけれど、中身はオレンジジュースで、甘みよりも酸味が強く、全てが今のこの状況の比喩に思えてげんなりする。律儀に玄関先まで着いてきた綾芽ちゃんに形だけの手を振り、綾芽ちゃんの母親と共に別れの挨拶をした。ああやって着いてくるってことは嫌われてはない、のかな。それともあれも大人の真似なのだろうか。  ドアが閉まる直前に見えた綾芽ちゃんの些細な表情の変化が気になったまま、私は家へと帰った。  次に部屋へ招かれた時には一切の言葉を交わすことなく時間が過ぎ、そしてそのままに終わった。ただ共に時間を過ごすだけの、それだけの仕事。回数を重ねる毎に、その日に選んだアルバムを何周かして聞いていればいいだけの簡単で酷く退屈な仕事となっていく。あれ以来口を聞いていない綾芽ちゃんのことは何一つ知ることができないままで、気づけば一ヶ月が経っていた。  そして今日。なんの気の迷いか、ふと、なんとなく気が向いて、そう、ほんのきまぐれで。今日は話しかけてみようと思ったのだ。今まで頑なに拒まれ続けてきた会話をこちらから持ちかけてみようと思った。そうしなければならないような気がして、口を開いた。 「あのさ、京子先生ってどんな先生だった?」  しばらくこちらを見ずに、無視されたのかと思うほどの無言を貫いた後、綾芽ちゃんはこちらを見て答えた。 「どんな、って。有宇さんだって京子先生が担任の先生だったんじゃないんですか」  初めて呼ばれる名前にドキッとする。ぼーっと過ごしていた授業中に急に当てられた時のような、焦りにも似た感情。 「ん、そうなんだけど、綾芽ちゃんから見た京子先生はどんな先生だったのかなって」 「それ知って何になるんですか」  相変わらず口が達者な綾芽ちゃんは私の全てを受け入れようとはしない。若干苛立つ気持ちを抑えながら、それでも今日はイヤフォンに手をつけずに会話を続けた。 「話すことで楽になることってあるし、みたいな」 「適当な見切り発車で話しかけないでください。それに」  流れる沈黙。それに、の後を言おうとしない綾芽ちゃんは私から目を逸らしたまま言葉をぽんと置いた。 「それに――話すことで楽になりたいのは自分の方ですよね。有宇さん、京子先生に恋してたんですよね。それもわたしに被せて言わせたかったですか。好きだった人が死んで悲しいって、人の口から聞くことで楽になりたかったですか」  咄嗟のことだった。ベッドに座っていた綾芽ちゃんに向かって大きく手を振りあげていた私はあと少しのところで我に返りその手を静かに下ろした。図星すぎる言葉を浴びせられて慌てたとはいえ、今、私は何を。慌てて綾芽ちゃんを見ればいつもの取り繕った顔ではなく、くしゃくしゃになって今にも零れそうな涙を抱えた年相応の顔をしていた。しまった、やってしまった。耐えきれなくなりぽろぽろと涙を零しながら声を抑えて泣く綾芽ちゃんに私は触れることも声をかけることもできず、そしてそんな私を濡れた目で睨む綾芽ちゃんは一言「もう帰ってください」とだけ言って布団に入り込み、背中を向けた。  言われるままに荷物を纏めて綾芽ちゃんの部屋を出た私はリビングに置き手紙を残して家を後にした。家に帰り出くわした母親には適当な理由をつけて部屋へと逃げ込み、私も布団に入って背を丸めた。もう少しで手を上げるところだった。大きく振り上げた右手が震え続けている。もしあのまま冷静になれていなかったら。考えることが怖くて、目を閉じて黒く深い海の底を想像して気持ちを落ち着かせた。大丈夫、大丈夫、そう繰り返しているうちに私はいつしか意識を手放していた。  もう呼ばれることはない、そう思っていた。綾芽ちゃんがきっと嫌がって綾芽ちゃんの母親に話すだろうから、会うのはこれっきりで部屋に行くのももうおしまいだと思ってた。なのに。 「次の日曜日、また綾芽ちゃん見ててほしいってお願いされたんだけど有宇大丈夫そう?」  夕食中に聞かれたその言葉を思わず聞き返してしまった。 「え?家に行くってこと?」 「最近ずっとだったし、有宇が無理なら断ってもいいのよ、有宇だってその、ほら、まだ折り合いもついてないだろうから。無理しなくても――」 「――行く。行くよ、大丈夫」  会いたくて返事をしたわけじゃない。謝りたくて、とかでもない。手を上げそうになったことは謝りたいけど、でも綾芽ちゃんだってあの言い方は良くなかった。だから一方的に謝りたくはなかった。じゃあなんで。なんで私はこんなに強く、行くだなんて言っているんだろう。不思議そうな顔をした母親が食器を片付けながら私の様子を伺っていた。 「綾芽ちゃんともう少しで仲良くなれそうだから」  私は大きな嘘をついて、リビングを出た。リビングを出てすぐの廊下でしゃがみ込み、はあ、と大きくため息をつく。行くとは言ったけれど、どんな顔をして会えばいいのだろうか。何を話せば、どこから話せば。頭の中にあるたくさんのどうしようを必死に嚥下して、思考でふらつく身体をようやく部屋まで運びきった。 「どうぞ」  下を向いたままの綾芽ちゃんはドアをゆっくり開けて私を出迎えてくれた。無言。ドアを吹き抜ける風だけが雄弁に私たちの間を通り抜けていく。いつものオレンジジュースとお菓子を持って部屋へ入った綾芽ちゃんは、いつもなら置いたままのオレンジジュースのコップを私に差し出し目の前に置いた。 「あ、ありがとう」 「……この前はすみませんでした」 「えっ、いや私こそ手、上げようとしちゃったし、年上のくせしてごめんね本当」 「いえ」  おそらく精一杯歩み寄ってくれた綾芽ちゃんのこの行動。それを無下にはできない。今日は置いてきたイヤフォンに頼りたくなる気持ちを抑えて、私からも少しだけ歩みよってみる。 「綾芽ちゃんがさ、言ってたじゃん。京子先生――八重ちゃんに恋してたんじゃないかって。あれ、当たりだよ。私ずっと好きだったんだよね、八重ちゃんのこと。だからさ、同じように八重ちゃんが担任だった綾芽ちゃんのことが気になって、しかも「好き」とかあんなふうに真っ直ぐに言うしで、なんて言うかモヤモヤしちゃって。なのに綾芽ちゃん全然話したりとかしてくれないから苛ついちゃったりしてさ、で、図星なこと言ってくるから、つい」 「怖かったです」 「うん。ごめんね」 「有宇さんは、京子先生のどんなところが好きだったんですか」  そして久しく思い出していなかった八重ちゃんとの思い出を、そっとページを捲るように振り返った。 「どんなところだろうね、気づいたら好きになってたし、そしたらもう全部が好きでさ。ちょくちょく八重ちゃんに会いに小学校にも行ってたし、元教え子の中で一番可愛がってもらってたと思うんだよね。だからかな、八重ちゃんが亡くなったあとも独り占めしたくて、そしたら急に綾芽ちゃんが目の前に現れてさ、なんかもどかしくて」 「わたしは、こんなんだからクラスでも浮いてたんです。だけど京子先生、ずっとしつこく話しかけてくるんですよ。嫌がってるし無視してるのにずっと。いい加減わたしの方から折れて話したりしてるうちに仲良くなって、両親以外の人であそこまで心を開いていたのは京子先生くらいだと思います。あ、でも有宇さんみたいに恋愛感情は無かったですけど」  今まで溜め込んでいたものを吹き出すようにして話し始めた私たちは、それぞれがゆっくりゆっくり咀嚼していくように八重ちゃんのことを話し合った。そのうちに、留守を頼まれているだけの関係から、普通の友達のようになるまでそう時間はかからなかった。それは、お互い無言だったとはいえ過ごしてきた時間は長く、それなりにお互いのことを知っていたからなのかもしれない。 「私さ、結構最近までお花屋さんになりたくてね」  この日は留守を頼まれた訳ではなくただ招かれて、部屋にいた。ベッドに上がることを許された私はようやく綾芽ちゃんの隣に座ることができた。そしてなんとなく話し始める自分のこと。 「お花を持ってる人ってみんな喜んでるように見えてさ、それって素敵だなって思って、それを八重ちゃんに伝えたら次の週から窓際にお花を飾ってくれるようになって、嬉しくってさあ。小学生のころは本気でお花屋さんになろうって思ってたし、高校に入ってからも漠然と、お花屋さんになりたいなって思ってたの」 「なんで全部過去形なんですか?」  少しずつ縮まる距離感と共に実際に近くなっていく距離は、綾芽ちゃんと私の物理的な距離をも縮めていった。気を抜いてくれるようになったのか、布団に寝転んで話を聞く綾芽ちゃんは腕を私の足の上に乗せたまま話を聞いていた。 「お葬式とか、お墓とか、そういうところで花を持つ人の顔ってみんな悲しそうだったから。なんか、浅はかだったなって。そう思ったら夢とか言ってられる場合じゃなくなっちゃった」 「でも、そのお花があるから時間が経ってから笑えたりする人もいると思います」 「綾芽ちゃんは大人だね。そんなふうにはその時は考えられなくてさ、ただただ吐き気がするだけで」  ゴロン、と寝返りを打った綾芽ちゃんは私にさらに近づいて相槌を打つ。そして私をじっと見つめたまま何も話さず、小さな口を尖らせた。 「綾芽ちゃん、どうしたの?」 「……わたしも夢がお花屋さんだったことあるから、一緒だな〜と思って。へへ」  恥ずかしがってた、のかな?不覚にも可愛いと思ってしまった私の心臓はいつもより少し早く動いていた。え、なんで今ドキドキしてるの。触れる綾芽ちゃんの手や身体、小さな唇。意識し始めれば全てに目がいってしまう。好きだった相手を亡くして早々に好きな人ができるわけが無い、そう言い聞かせて必死に目を逸らす。違う、違う。八重ちゃんへの好きと同じなんかじゃない。だってあの時はもっと心臓が――いや、でも、それと同じくらいに高鳴っているこれは、何なのだろう。しかも、ましてや相手は小学生から中学生になったばかりのこんな華奢な女の子で。 「有宇さん?」 「あ、えっと、なんだっけ。ごめんごめん」 「大丈夫ですか?体調とか悪いんじゃ」 「違うの、大丈夫だから」  慌てて否定するのは、何に対してか。火照る身体を悟られないように少しだけ距離を置いた。この気持ちは一体、この火照りは、鼓動は、一体。 *  有宇さんがわたしを好きになった瞬間を見たわけじゃないけれど、それでも、あっ、って分かった。態度とか表情とかで。それが嬉しくて、身体を近づけてみたり距離を詰めてみたりした。最初こそこんなふうに会うのは嫌だったけど、気づけば有宇さんのことが気になって、気になって、仕方なくなっていた。だから好きになってもらえて嬉しかった。でも、先生みたいな「大切」をまた失うのはもう嫌だった。だったらそんなの作らない方がいいと思った。けど、ずっと好きでいてほしいとも思った。ぐちゃぐちゃになったこの気持ちをどうにかしてほしくて、有宇さんに少し意地悪をしたくなっちゃったんだ。だから今日はいつもと違って素直に、可愛いって思ってもらえるように、振る舞うんだ。 「有宇さん」 「ん、なあに?」 「有宇ちゃんって呼んでもいいですか?」 「あ、いいよいいよ全然」 「やった」  あ、また目を逸らした。いつもと違う様子のわたしに調子を狂わせてる有宇ちゃんを見ているのが楽しい。可愛い。もっと、もっと。 「有宇ちゃん、ここが苦しい」  そう言って胸を指したわたしの言ってることを察した有宇ちゃんは、ベッドの上でわたしと向かい合うように座った。いつも有宇ちゃんが付けてるイヤフォンはここにはなくて、外で鳴くカラスも今日は静かで、時計の秒針の音だけがわたしたちの間に流れていた。カチ、コチ。でも有宇ちゃんの方がカチコチになってて、なんだか面白くて笑ってしまった。 「え、なんで綾芽ちゃん笑ってるの?」 「なんでもないです。ただ、有宇ちゃんがあんまりにも固まってるから面白くて」 「え、あっ、いやなんか緊張しちゃってさ」 「変態ですね」 「はぁっ?違うから、なにそれ、違うから」  同じことを2回も言う有宇ちゃんがおかしくて、また笑う。そうすれば今度は有宇ちゃんがつられて笑って、時計の音も気にならなくなる。 「綾芽ちゃんさ、そこ、見てあげようか」  でも、また静かになった。有宇ちゃんの目の色が少し暗くなったように思えて、ドキッとする。 「うん」  雲間に太陽が隠れて、部屋に射し込む光の量が減って部屋が暗くなる。こんなことをするのに光なんていらないと言われているみたいで、なんだか納得してしまった。 「口、開けて」  言われるがままに口を開けた。真っ直ぐにゆっくりと口の中に入ってくる有宇ちゃんの人差し指と中指。こんなことしても胸の苦しさなんて分からないのに、そんなことお互い分かりきってるのに、その上で行う茶番。私の口の中を指で押し込むように弄る有宇ちゃんの目はとろんとして、それを見るのは何故だか少し気持ちが良かった。それと相反して段々と苦しくなっていく口の中と呼吸が嗚咽を呼んで音になる。 「っおぇ」  気づけばわたしは泣いていた。苦しさと、有宇ちゃんへのいつから芽生えたのか分からない好きの気持ちのやり場のなさに泣いてしまっていた。それを見た有宇ちゃんは慌てて背中をさすり、息を整えるのを手伝ってくれる。息を整えたわたしは有宇ちゃんの濡れた指を手で掴んだ。ぐちゃ、という音がしてこの部屋の静寂を破っていく。 「綾芽ちゃん、汚いよ、ほらやめなって」 「元はわたしのですから」  鳴り響く指先の水音が部屋を埋めつくし、それに耐えきれなくなっていく有宇ちゃんは顔を赤くして目を閉じていた。 「何もわかりませんでしたね」  そう言うわたしに有宇ちゃんはようやく目を開いて、声を上ずらせて一言だけ零した。 「そう、だね」  この日からわたしと有宇ちゃんは触れ合うことが増えた。わたしのお母さんが有宇ちゃんに留守を頼む時だけの、子供部屋でだけの秘密の触れ合い。有宇ちゃんの少し拡張したピアス穴を見せてもらったり、体育で転んだ足の傷を見せたり。お互いの色んな場所を見せあった。でも、服を脱いだりだとかそういうことはしなかった。それがわたしたちにできる精一杯の触れ合いだったから。そんなふうに不器用に重ねる秘密がわたしには心地がよくて、有宇ちゃんを離したくない、そう思わせるには充分な時間だった。でもこれが京子先生に向けていたような、ただ独り占めしたいだけの感情なのか、有宇ちゃんが京子先生に抱いていたような恋愛感情なのかは、自分でも区別がつかなかった。それさえ分かればもっとちゃんと楽になれるはずなのに。  わたしはそれを探るために、有宇ちゃんのことを見るし、有宇ちゃんに見せるんだ。端から端まで、全部。全部。 *  今日は綾芽ちゃんと母校の小学校へ行く約束をしていた。先日、話の流れでなんとなくそうなって、じゃあ行ける日に行こうかなんて流していたらその日は案外早くやってきた。あまりにも思い出が詰まりすぎているこの校舎に、できれば来たくはなかった。思い出すだけで頭が眩み、懐かしい匂いでさえも喉元を締め付ける。一階の職員室から大きく手を振って私を出迎えてくれる八重ちゃんはもういないのだから。 「有宇ちゃん」 「ん、ごめんね、ちょっとぼーっとしてた」 「大丈夫、ですか?」 「大丈夫だよ、ごめんね、ありがと」  僅かに震える手を綾芽ちゃんがそっと握ってくれる。初めて見る綾芽ちゃんのセーラー服姿に、そして少し余っているその袖口に、いつもよりもさらに華奢さが際立つのが分かった。これが綾芽ちゃんの優しさなのだとしても、それでも、握られたこの手を握り返すことが八重ちゃんへの裏切りになってしまいそうで、私は握り返せなかった。私の手を小さな手がただ掴んで離さない。細く長い指先で必死に私に縋るその様は、お腹の中をぎゅっと熱くさせた。違う、駄目。  八重ちゃんへの恋慕と綾芽ちゃんへの劣情が入り交じったまま踏み入れた校舎の入口は、相変わらずギシギシと情けない音を立てて私達を出迎えた。今日顔を出すことを事前に伝えてあったからか、校長先生が下駄箱の横で待っていてくれた。先生の手は私達二人の頭をゆっくりと撫で、そこに言葉は必要がなかった。 「今日はもう授業もないし、会議で使ってる部屋もないから好きに見てくるといいわ。ゆっくりしてってね」  先生はそう言うと職員室の重たくこれもまた音の鳴る扉を開けて戻っていった。 「どこ、行こうか」  私の問いかけにしばらく頭を悩ませたあと、綾芽ちゃんは気まずそうに、けれど半ば強引に案を出てきた。 「私達の教室、行きませんか?」  握りしめられるその力が少しだけ強くなる。反論は許されない。増していく動悸が全身を打っていく。この振動は、目眩は、綾芽ちゃんにも伝わってしまっているのだろうか。 「……いいよ、行こっか」  たくさんの言葉を飲み込んだまました返事は、誰もいない廊下の冷たさに飲まれて消えていった。  クラス数の少ない私達の学校にはクラス替えという概念がなく、皆が皆、等しく一組だった。だから担任の先生も二年間は変わることなく、同じメンバーで卒業まで過ごせるのだ。毎年の春にクラス替えでソワソワしていた他の学校の友達のような真新しさは無かったけれど、親しみのある仲間や先生と一緒に丸々二年間過ごせたことは私にとってとても大きな宝物になった。けど。綾芽ちゃんはそんな当たり前の日々を最後まで八重ちゃんと過ごすことなくここを卒業していったんだ。  三階の角の教室。ここはよく陽が当たって、午後になると眩しかったんだっけ。眠気を誘う温かさに重なる八重ちゃんの声が心地よくて、また瞼が重くなっていく。そんな毎日だった。強く西日の差す目の前の教室を見て、もう二度と戻れはしないあの頃のことを思い出した。  教室のドアを開ければ懐かしくて幼い香りが鼻腔を擽った。掃除しきれていない床の砂埃の匂いと、まだ残っている給食の匂い。全身があの頃へと引っ張られていく。 「懐かしいなぁ」  教室をゆっくりと歩きながらそう呟く私を見て、何を思ったのか綾芽ちゃんは一気に距離を縮めて抱きついてきた。小さな綾芽ちゃんの顔が私のお腹あたりで微かに動く。私の身体に顔を埋めたままの綾芽ちゃんの頭をそっと撫でれば、張っていた気が緩んだのか、抱きつく力がふっと弱くなった。 「死にたいです」  聞き返すことなくしっかりと理解出来た言葉。理由なんてものも、聞かずともに分かってしまう。だからだった。私は八重ちゃんが死んだと聞かされた時から今の今まで死にたいだなんて思えなかった。そんなこと、頭に浮かびもしなかった。だから悔しかったんだ、綾芽ちゃんのその感情が。その死にたいという気持ちそのものが、八重ちゃんへの愛の証みたいで嫌だった。それに、勝手に仲良くなれたと思っていたから、だから寂しかった。もう私なんて要らないと言われてしまったみたいで。行き場のない感情は体を突き動かした。 「じゃあ死ねばいいじゃんか」  駄目だと思った時にはもう手が動いていた。私の手に収まる細く柔らかい綾芽ちゃんの喉元に手を置き、ゆっくりと力を込めていく。ガタン、と机がズレる音がして綾芽ちゃんはその机の上に寝転ぶ形になった。身体を倒した際にどこかぶつけたのか、歪む顔。こひゅ、と漏れる息が段々と弱くなっていく。滲む手の汗が私とその皮膚とを溶け合わせていく。絞めているのか、溶け合っているのか、だんだんとわからなくなってくる。無造作に倒された小さな身体がピクピクと動いては、必死に藻掻く。ひゅっ、と鳴るその首は自分の言った言葉を後悔しているようにも聞こえた。けど今更遅い。私は、酷く冷えた頭の芯で考える。これは今、何をしているのだろう。私は今、一体何を。 「死んだら八重ちゃんに会えるかもね」  何も言わずに全てを受け入れる綾芽ちゃんに苛立ち、言わなくても良い言葉をまた突き刺した。そんな言葉を浴びせられた綾芽ちゃんの首が大きく脈動して心音と同期する。何かドロドロしたものを堰き止めているかのような感覚を手で感じながら長く長く感じたこの時間をどう終わらせたらいいのか、私は迷っていた。今更この手を緩めたところで何か好転するわけじゃない。  途端、嬌声にも似た声が一つ上がり、ハッとして手を離す。ぐるぐると巡らせた頭の中、それでも気づけば手の力は弱まり足元にしゃがんだ綾芽ちゃんが激しく咳き込みながら息を整えていた。強い西日が私達を照らし、これら全てを綺麗なものへと変えていく。考えていることも、そこから芽生えた行動もなにひとつ綺麗ではないのに、そのオレンジと温い砂埃の匂いは、私達を嫌でも肯定してしまう。 「……二度と私の前で死にたいとか言わないで」  再び尖った声と言葉でその身体を刺した私をじっと睨みつける目が、初めて会ったあの頃の目に似ていて一瞬たじろいだ。優位に立っていたと思っていた高い場所から、一気に膝の力が抜けて転がり落ちていくのが分かる。じっとりと残る手の感触にジリ、と後ずさりをすれば、久しぶりに踏み入れたこの教室の床が嘲笑うように鳴る。砂で、軋む木の板で、私で、感傷で、鳴る。 「痛い」  綾芽ちゃんはようやく一言、それだけを言って乱れたセーラー服を直し始めた。彼女の身体にはまだ少し大きいセーラー服は、乱れることによって正しさを内包できなくなっていく。閉じ忘れられた窓からは冬の冷たい風がみっつほど流れて入り込んだ。そのうちのひとつが、私と綾芽ちゃんとの間を嘲笑うかのように通り抜けていった。その間、綾芽ちゃんが丁寧にセーラー服のリボンを結び直すのを、私はただ見つめる。とても綺麗な所作だと思ったから。ただそれだけの理由で、今さっきまで首を絞めていた相手の指先に見惚れてしまう。  すこしだけ日が傾き、窓と窓の間にある柱がちょうど綾芽ちゃんにだけ影を落とし始めていた。強いはずの西日も、何かを察したように綾芽ちゃんを避けて差している。ひゅう、ひゅう、と音を鳴らして未だに息を整えている綾芽ちゃんの目は今にも溢れそうな涙でいっぱいだった。あの時、子供部屋で。胸の苦しさを確かめるために行った行為の果てに見た涙とはまた違う涙。じんわりと滲む汗で背中に制服が張り付いて、気持ち悪い。噎せ返るほどのあの頃の匂いと、綾芽ちゃんの甘い匂いが私を全力で責め続けている。分かってる、悪いのは私だって。 「痛かったです」  もう一度綾芽ちゃんから出た言葉は叱責でも呆れの言葉でもなく、ただそれだけだった。ふと力が抜けて後ろにあった机にもたれかかった私の腕を呆れ顔の綾芽ちゃんが引っ張り、ぐっと自分の元へと引き寄せた。 「……好きな人に痛いこと、しちゃダメですよ」 「ごめん……っていうか、別に綾芽ちゃんのこと好きじゃないし」 「嘘つき」 「……うるさいな」  引っ張ったままの手を離さない綾芽ちゃんは大きく口を開けて腕に噛み付いた。一瞬、刺すような痛みが腕に通って後からじんじんとした甘い痛みへと変わってゆく。これが、報いってことなのかな。だとしたら、こんなに鈍くなっていく痛みでいいのだろうか。私がしたことはもっと良くないことで、もっと、きっと苦しいことだったはずなのに。ああ、なんでこんな時に八重ちゃんの言葉を思い出すかな。「なんでもいいのよ、なんでも」って、八重ちゃんは口癖のようにいつも言ってた。だからって今は別になんでもいいわけじゃない。考えなければいけない。なのに、頭の中で反響する八重ちゃんの言葉が、私の都合の良いように私を肯定してしまう。  脈絡もなく再び私に抱きつく綾芽ちゃんのことが今度こそ分からなくなってくる。自分に手を出した人間に二度も歩み寄るものだろうか。意味が分からない。分かろうとしても、するりと手をすり抜けて消えていってしまう理解という言葉。 「なんで泣いてんのさ」 「分かんないです。分からないことだらけです」 「……私もなんも分かんないや」  好きではないと言ったのは確かに嘘だった。八重ちゃんを亡くした後なのに、こんなにもすぐ好きな人を作ってしまった。それでも、今ここにこうして抱きついている綾芽ちゃんへの感情は確かに恋、だった。ぐちゃぐちゃな感情のままに撫でるその手は、自然と力が強くなり、ふわふわの長い髪の毛がゆったりと左右に揺れる。 「おーい、まだ誰か残ってるのかー?」  教頭先生の声が聞こえて咄嗟に綾芽ちゃんの腕を引いて教卓の下へと潜り込んだ。別に、許可は貰っているのだから隠れずとも名乗れば良かったのだけれど、何故だか今はそうしたく無かった。綾芽ちゃんと私の間に何かが入り込むのが嫌だった。  顔と顔が近くなるこの狭い空間で、私は臆することなく綾芽ちゃんのおでこにキスをした。 「え、なにこれ」 「うるさい、黙って」 「……なにそれ」 「痛くないでしょ、これなら」  互いに逸らす視線。重なることの無いおでこ以外の他の部分。じっとりとかく汗に、潜めた息ふたつ。  何一つ解決しないまま、前だって向けないままに、私達はきっとこれからもいろんなものから目を逸らし続けて生きていくんだ。そう思った。  しばらく教卓で息を潜めてから教室を出た後、校長先生に挨拶をしてから学校を後にした。振り返る校舎は今までの思い出よりもさっきのたった数十分の行動で塗り替えられてしまったような気さえする。切ないような、これで良かったような、相反する気持ちを抱えながら帰り道を踏みつけた。隣で黙って歩いている綾芽ちゃんの少し皺になったセーラー服を見て、胸が痛くなる。それにつられて火照る身体は偶然だろうか。 「ごめんね」 「……お互い様ですから、大丈夫です」 「うん」  すっかり傾いた日の中に閉じ込められた私達二人は、かつ、かつ、とローファーを鳴らしながらじきに夜になるこの街を歩いていく。 「好きだよ、綾芽ちゃんのこと。なんでか分からないけど」 「わたしも好きです。どうしてだかは分からないけれど」 「そっか」  マンホールをひとつ飛び越えて、何か解決した気になってしまう浅はかな自分の手をぎゅっと握りしめる小さな手がまた。私を揺らして、目を逸らさせて、いく。  風で冷えた制服が、またあの日を持ってくる。けど今は隣で小さな手が震えるから。私は庇護欲をさらけだしてこの子を抱きしめよう。自分の寒さには目を閉じて、膝を着いて、抱きしめよう。ずずっと鼻を啜って泣くのを我慢する綾芽ちゃんの愛らしさについ頬が緩んだ。凪いだ瞬間。香る甘さ。愛おしさに任せて右手で綾芽ちゃんの目を塞いだ。こぼす涙はぬるく、穏やかで。 「帰ろうか」  泣き続ける綾芽ちゃんを抱き上げ、抱えたまま歩く。    長く伸びた二人の影は溶け合って、ひとつだった。
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