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SHOW TIME 1
(1)
最初は風の音かと、田村絵美は思った。
東北の険しい山林へ降り注ぐ夕陽の下、視界を阻む細い梢を抜けて、乾いた風が吹き抜けたのだろうと。
掠れて、妙に甲高い音の羅列。
人の声……いや、あれは唄だ。
性別不明で電子音に近い響きのそれは、太い杉の木陰で息を潜めて佇む絵美の所まで途切れ途切れに流れてきた。
てるてる坊主、てる坊主、あした天気にしておくれ。
小学校の運動会で使うお古の拡声器を通したような聞きづらい声音ながら口調は軽く、楽しげだった。
絵美も子供の頃から親しんできた童謡の調べ。でも、耳を澄ますと、覚えている歌詞と少し違う。
それでも曇って泣いてたら、そなたの首をチョンと切るぞ。
掠れた声に笑みが混じる。
笑うな、バカ!
何度か転んで強打した膝の辺り、ベージュのチノパンの下に履いたサポートタイツの泥を払い、絵美は毒づいた。
ああ、もう。折角、今日の為に買ったのに、大きな穴が開いちゃったじゃない!
こみ上げる恐怖を押さえ、冷静になろうとして、敢えて呑気な事を考えてみる。
泥だらけなのは、ショートパンツだけではない。お気に入りの青いウィンドブレーカーは肩口で破れ、白いトレッキングシューズは彼女の唇からたれた血の滴で赤く滲んでいた。
何時、唇が切れたのだろう?
車の中でアイツに殴られた時?
それとも、アイツを突き飛ばしてドアから飛びだし、山道を逃げる間にか?
何処もかしこも傷だらけだが、不思議と痛くない。恐怖で体が強張り、麻痺しているせいだと絵美は思った。
震えでまともに動かない指をウィンドブレーカーのポケットへ突っ込み、スマホを取り出す。
家に……それとも友達に掛けて、助けを求めた方が良いかな?
普通は彼氏とか頼るのだろうが、前につきあっていた男とは半年前に別れている。
そいつは彼女が非正規で働く旅行代理店の同僚で調子のいいチャラ男だった。
いずれ親に紹介するなんて言いながら、浮気癖が治らず、22才のバイトの子に手を出したから三行半を突きつけたのだが、次の恋は中々見つからない。
前の彼氏は職場でバイトとあからさまにいちゃつき、無視するよう心がけても、何かと肩身の狭い思いをさせられる。
学生の頃はあたしも結構モテたのに、アラサーになるとこんなもん?
そんな思いが押し寄せ、吹っ切りたい一心で29才の誕生日を迎えたこの日、頑張る自分へのご褒美に趣味の山歩きと秘湯を満喫する「おひとり様」ツアーとしゃれ込んだのだ。
今、彼女が潜む山林は宮城県北西部、奥羽山脈に連なる荒生岳の中腹にある。あちこちにぶなや杉の切株が目立つから、おそらく伐採場だったのだろう。
伐採後に植樹された苗木はまだ小さく、木材として使えるまで時間が掛かる為、山林ごと半ば放置されている状態だ。
あの耳障りな歌い手の他、人の気配は無い。
荒生岳は標高984mで登山家の言う初級低山にあたり、知名度も低目の地味な山だが、途中まで車で行けば女の足でも登れる山道があり、カルデラ地形特有の見事な展望を望める。
又、南麓は鬼蔵温泉郷の末端に接していて、間欠泉や通好みの秘湯もある。気分転換にはもってこいの筈。
まず山頂へ上り、隣接する栗越山の稜線を覆うまだ淡い紅葉を堪能した後、温泉目指してヒッチハイク、通り過ぎる車へ親指を立てている時は鼻歌混りだった。
いつもはこれで大体OK。若い女のヒッチハイカーは警戒心を招きにくく、しばらく続けていれば優しいドライバーに拾ってもらえる。
実際、十分も立たない内に新車の白いセダンが停まってくれた。
目的地の秘湯の場所を話すと、ちょうどそちらの方向へいく所なのだと聞き、安堵したのを覚えている。
運転手の見た目も優しげでおだやか。車の中でも楽しくおしゃべりしていたのにいきなり豹変するなんて……
理不尽な暴力への怒りが恐怖を追いやり、携帯電話を握る指先の震えを止めた。
やっぱり、こういう場合は警察しかない。
でも、三か月前に新型のスマホへ機種変更した際、キャリアの方も変えていて、そこは田舎の接続にあまりつよくないという定評があった。
荒生岳周辺は只でさえ電波が弱く、一応ダイヤルしてみるものの案の定、繋がらない。
それでも携帯でのSOSを諦める気にはならなかった。
荒生岳の南麓は鬼蔵環状盆地に属しており、鬼蔵温泉は宮城でも有数の人気を誇る温泉地だ。
絵美自身、過去に何度も訪れた事が有る。
携帯電話の機種変更をする前の話だが、風呂上りに友達へ電話を掛けた時、確かに電波は届いていた。山林の真ん中にいたら電波を拾えないとしても、車道へ出、温泉地へ少しでも近づけば通話可能になるかもしれない。
何とかあいつをまいて、車道に出よう。
そう腹を決めた瞬間、一度途切れた歌声がより近い位置で聞こえてきて、絵美は悲鳴を上げそうになった。
慌てて自分の口を押さえる。
不気味なフレーズを単調に繰り返し、そいつは小枝をかき分けて、こちらへ近づいて来た。
なめらかな感触を持つブナの幹の端から絵美は恐る恐る顔を出し、唄の流れてくる方向を眺める。
揺らめく姿が赤いのは、夕焼けの反射かと思えたが、目を凝らすとそうでないのが判った。
赤い、光沢のある服を着ているのだ。
素材はゴアテックスだろうか。子供が通学時に使うような安手のレインコートに似ている。最近はレインポンチョなんて言うらしい。
先程、車に乗せてもらった時、ドライバーはごく普通のカジュアルな装いだったから、何処かで着替えたのだろう。
真っ赤なレインコートは、来ている者の体型と比べて大きめ。袖も長く、両手の指の先まで隠れている。風が吹く度、コートの裾が大きく揺らぐ様子は大きなてるてる坊主を思わせた。
あいつ、何んで着替えなんかしたんだろ?
絵美は首を傾げたが、追跡を楽しむ狩人の表情は、彼女の位置から読み取れなかった。後頭部を覆うフードの下、シンプルな作りの丸い仮面を被っていて、顔が全く見えないのだ。
そう言えば、てるてる坊主って天気になるまで顔を書いちゃいけないんだっけ?
また場違いな疑問が錯乱した脳裏を過り、絵美は首を横に振った。
早く、早く逃げなきゃ。あんな恰好をしている奴だもん、絶対、イカレてる。
山歩き用のコンパスは持って来ていないが、夕日が落ちる方角から南へ向う大体の方角は判った。そちらを目指して走り出す前にもう一度、絵美は追跡者の方を見やる。
それでも曇って泣いてたら、そなたの首をチョンと切るぞ。
「切る」という下りで声を張り上げ、真っ赤なてるてる坊主は仮面の正面、目の位置に開く二つの穴をこちらへ向けた。
クスクス笑う声が風にのる。
とうに絵美の居場所に気付いていながら、知らない振りをしていたらしい。
瞳を覆う二つのレンズは黒く着色されており、その奥に揺蕩う精神の虚無を暗示して、絵美の全身を凍らせた。
最早冷静でいられず、しゃにむに走り出す。
南……南の方へ……
目の前に林道の分岐点が見え、そこから更に坂を駆け下りていくと、左右の景色が一変する。杉の伐採場を通り抜け、丈の低いブナの広大な林へと飛び込む。
ここにも伐採の痕跡があちこちにあった。木材搬出の際に引きずった跡も見え、それを辿っていくと木々の梢が疎らになって前方の視界が開けてくる。
やっと車道へ出た。
携帯をチェックしたが、まだ電波は拾えていない。
恐る恐る振り返り、背後から追ってくる人影が無いのを確かめて絵美は深い吐息を漏らした。
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