我々は何処へ行くのか? 11

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我々は何処へ行くのか? 11

(36)  足を止めてはいけない、と来栖晶子は思った。  木造の古い校舎は階段も木製で、彼女の体から流れ落ちる血が下へ溜まると滑りやすくなる。転倒して転げ落ちたら、もう上がる気力は無いだろう。  何より、ギャラリーが白けてしまう。  廊下と階段と、要所に固定されたライトとビデオカメラを意識し、表情にも気を配らねば。  ショー・マスト・ゴー・オン。  できれば死ぬ直前まで、良い顔をファンへお見せしたいものね。  滴る血の量が徐々に増えていく。  今にも薄れそうな意識を奮い起こし、晶子は手すりを頼りに階段を上り終え、二階の廊下を更に進む。  この「徐々に」という辺りが重要だ。  サイトの視聴者へ切迫感を伝え、尚且つ、途中で力尽きないバランスが必要。高槻守人のメスで受けた傷はお誂え向きだった。    人体の急所を逸れ、痛みも程々でありながら、太目の血管を傷つけ、出血多量で確実に死へ近づいていく。  ふふっ、良い感じよ。高槻君、思いやりのある教え子ね。  インターネットを介する形ではなく、初めて直接出会った時の高槻守人を、晶子は思い出していた。  まだ十三才になったばかりで内在する『赤い影』の人格も未だ消滅するか、否かの瀬戸際を彷徨っていた頃である。  当時、隅亮二は肺癌の治療を一切せず、痛みのケアだけ行う生活で医師から告げられた余命より長く生き延びていたが、体力の衰弱は著しく、守人を直接教え導く事が困難になっていた。  その苦境を見兼ね、晶子は自ら進んで守人と、その胸中にある『赤い影』のケアを引き受けている。  隅亮二の死後、彼女の負担は飛躍的に大きくなった。    ダークウェブ経由で届く『スポンサー』からの指示、追加要求される非人道的な心理実験依頼に対応する事、サイコパス・ネットワークの維持と『タナトスの使徒』サイトを使ったメンバーへの広報……  どれも面倒で煩わしい反面、生前に隅が残した指示通り行う高槻守人の『教育』はむしろ喜びに満ちていた。守人の中の種子が育てば、いずれ生まれ変わった隅亮二の魂と再会できるのだから。  しかし『赤い影』の人格が定着し、守人本来の人格との併存が安定した後も、シリアルキラーとして目覚めさせる実験の方は遅々として進まなかった。  催眠療法を応用して隅が過去に行った犯行を疑似体験させ、精神を刺激してみても、すぐ揺り戻しが起こってしまう。  隅が五十嵐との『契約』を守って自分の手を汚す殺人は行わず、守人に手本を示せなかったのも一因かも知れない。    プラン全体の後ろ盾である『スポンサー』が実験の遅延に苛立ちを見せ、計画中断を仄めかしてきた時、晶子は途方に暮れた。  或る程度まで進んだプランの、成果部分だけ横取りし、不要になった要素をとっとと廃棄。オール・リセット後は、彼らが望む新たなビジネスの為にデータ活用する腹積もりなのね。  毎度のことながら、なんて貪欲な奴ら……  『スポンサー』の意図をそう推し量った後、晶子は最後の賭けに出た。いや、出ざるを得なかった。  故人の代りに守人を犯罪現場まで連れ出し、目の前で人を殺して見せたのだ。  過去のシリアルキラーの手口を再現したのは、勿論、コピーキャットだった隅の模倣なのだが、同時に晶子の経験不足を補う為でもある。  それまで彼女に殺人を犯した経験など無かった。  反社会的な傾向は隠し持っていたにせよ、サイコパス、或いは境界性人格障害等と明確に言えるほどでは無い。  つまり、彼女は「普通の人」に過ぎなかった。  サイコパスに心惹かれ、サイコパスになろうとした、できそこないの模倣犯だ。    気仙沼と荒生岳、どっちの現場でも必死で隅の役割りを代行し、ネットワーク・メンバーを使いこなそうとした。  血に狂って、隅亮二との一体感を得られた瞬間もある。だが、脳裏に残る被害者達の断末魔は、結局、晶子を苦しめただけだ。  これで、やっと重い使命から解放される。  守人の行く末を思うと、気掛かりな部分は残るが、 「これほど見事に私を殺せるのだもの。君……もう大丈夫よね?」  ある意味、高槻守人は晶子と隅の間に生まれた嫡子なのだ。幾つか想定外はあったものの、やれるだけの事はやったと思う。  能代臨の面影も浮かんだ。  晶子と対極にありながら、何処か共通点を感じる娘。実際、あの極端なまでの理想主義には、愚かしさ以上に危うさが滲む。  ゼミ加入当初の臨は、晶子にとって単なる守人の生贄に過ぎなかったが、今や実験の対象と言うより作り上げた最高傑作とも言うべき存在。  恐ろしく歪んだ形ではあるが、深い愛情を感じてもいた。  時には年の離れた妹、いや娘のように感じられ、交した会話の一つ一つが強く胸に刻まれている。  あぁ、殺さずに済んで良かった。  イベントで守人に殺害させ、完全な覚醒を『タナトスの使途』メンバーへ告知する計画を立てた上、緻密な段取りで進めて来たのは晶子自身なのに、何処かでそう思い、心から安堵し、我ながら度し難いと自嘲してもいる。  理想と感情の矛盾、私も能城さんを笑えないわ。  もう、うまく逃げてくれたよね? これからあの二人、私とあの人の子供達は、どうなっていくのかしら?  見届けられないのは残念だけど……  守人が臨を殺せなかった場合の『プランB』。一応、準備しておいた備えがどうやら役に立ちそうだ。  ふらつき、倒れそうになる寸前でようやく晶子は目指す場所、二階の通路の奥にある校長室へ辿り着き、重い樫の扉から中へ一歩踏み込む。  部屋の窓際に校長用の机があり、プラスチック爆薬へ信管を差し込んだシンプルな造りの爆弾が載っている。  遠隔操作でコントロールできる仕掛けだが、スイッチボックスを奪われ、今は備え付けのスイッチを手動で押し、爆発させるしかない。    それで良い。いや、むしろ、それでこそイイ。  机に近づき、黒革張りの椅子の背凭れへ手を掛けてゆっくり回転させた。  椅子へ深く腰を沈めている隅亮二がこちらを向く。  黒く開いた眼孔と見つめ合い、白骨に限りなく近い状態で蝋化した彼の顔を晶子は優しく撫でた。    早いもので、隅の死はもう四年も前の事だ。  臨を幽閉したあの洋館で晶子は隅と共に暮らし、最後を見取った後、丁寧に亡骸を保存している。   「どう、先生。あなたの残した願い、私が叶えたよ。向うへ……地獄へ行ったら、褒めてくれる?」  そう、誰が何と言おうと来栖晶子は幸せだったのだ、あの時も、今も。
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