我々は何処へ行くのか? 4

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我々は何処へ行くのか? 4

「先生、やっぱり……あなただったんですね」  愕然とする臨を静かに見下ろし、赤いレインコートの裾を翻して、来栖晶子は微笑んだ。 「何時から気付いていたの?」 「こっちは疑うのが仕事なんでね。高槻の周囲にいる人間を一通り調べた」 「私と隅亮二の関係、それに『タナトスの使徒』との関わりを示す痕跡は丁寧に消去しておいたのに」 「本当の所、最初におかしいと思った相手はあんたじゃなかったんだよ」  富岡は視線をずらし、臨の方を見た。 「え? あたし!?」 「能代さん、俺が初めて陸奥大学の研究室へ伺った時の事、覚えてます?」 「ええ……志賀の事件が起き、高槻君がラボを出た後ですよね」 「あの時、あなたはちょっとその、何て言うか、つっけんどんな感じだった。我々に対して心を閉じてる、関わりたくないって態度を感じた」 「あたし……子供の頃、色々あって警察の人に偏見を……東京で地下鉄に乗った時、お話しましたよね」 「ええ、覚えてます。だから違和感があったんです」  富岡の話の要点が掴めず、臨は戸惑い、赤い衣装の晶子は好奇心を漲らせた視線を二人へ向けている。 「俺の能代さんへの第一印象は繊細で内向的。心にトラウマを負い、それを引きずって生きる者特有の……俺と似た匂い、みたいなものを感じました」  匂い、と呟き、臨は一層困惑の表情を浮かべた。 「なのに時々、実に無茶な行動へ出る。例えば五十嵐さんのマンションで『赤い影』に扮する高槻を追いかけた時は常軌を逸してた。爆弾で脅されながら、変な理屈で走り出すんですから」 「ホント……すみません」  消え入りそうな顔で臨が言う。 「責めているのではなく、ただ酷くアンバランスだな、と感じただけですよ。俺自身、昔のトラウマを克服したつもりでいるのに、時々心のバランスが取れなくなる。内向きの気持ちが、何かのきっかけで、やたら前向きになったりね。感情のアップダウンが激しいんだ。こういうの、双極性って言うんでしたっけ?」  あ、と臨は声を上げた。 「俺の見方が当っているとしたら、能代さんが何故そうなってしまったか、ずっと不思議でした」 「でも、あたし、引きずる程の深いトラウマは……」  富岡は晶子へ視線を戻す。 「酷い事をなさいますなぁ、来栖先生」 「あら、何の事かしら?」 「実はね、陸奥大学で能代さんの過去について増田文恵さんと話す機会があったんです。そうしたら意外な事実が見えた」  思い返せば、今からおよそ六時間前……  陸奥大学のラボで幼少期の思い出を辿る文恵の声には、いつもの彼女らしくない重く、沈痛な響きがあった。 「八歳当時の臨が殺人事件の実況見分に遭遇し、その後、小学校へ行ったというのは事実と違います。あの子、ショックで熱出しちゃってね。当日は結局、登校できなかったんですよ」  となりにいる正雄も初耳らしく、ポカンとした顔で聞き入っている。 「自分が能代さんに聞いた所だと、解離性健忘で記憶が確かじゃないと……だから、思い違いをしていたのかも知れませんね」 「そんなの、あり得ないわ!」  富岡へ言い放つ文恵の口調に迷いは無い。 「そう言えば、姉さんと臨ちゃん、幼馴染だったんだよなぁ」  正雄が横から口を挟んだ。 「あの時の臨、今でも忘れられない。二か月間まるまる、一度も学校へ来れなかったんだから」 「警察官の立場からすると、少々意外です。実況見分は犯行現場で容疑者や被害者、証人の状況等を確認する任意の検証に過ぎません。普通は粛々と進みますし、見てしまった所で、それ程のトラウマになるとは……」 「臨がショックを受けたのは実況見分の最中じゃありません。それが終わった後、向井って人が護送される時です」 「あぁ、確か、パトカーの後部座席で泣く背中を見たって言う」 「そこが違うの。一番違う! 向井はね、パトカーの中で一度だけ臨を振向き、そして、笑った」 「笑った?」 「ええ、それまで見せていた悲し気な顔とは正反対。臨や、集まった近所の人を嘲笑ったそうです。悪魔に見えたって、当時の臨は教えてくれた」 「悪魔……」 「それであの子、大人と会うのを恐れ始め、一時は誰も……親さえ信じられず、自分の部屋へ閉じこもってしまいました」 「一種の対人恐怖症、ですね」  逮捕後、容疑者の表情、感情が目まぐるしく移り変わる様は富岡も何度となく目にしている。  反省から一転、邪悪さを見せたとして、罪を犯した者の混乱や絶望の裏返しに過ぎない場合もあるが、幼い少女にそこまで察するのは無理だったのだろう。  富岡は向井のその後を調べ、服役中に自殺、との記録を見つけた。もう当時の真意を探る術は何一つ残っていない。 「私、毎朝、臨の家まで迎えに行って、やっと玄関へ出てきた時は……まだ子供なのに、真っ青な顔で頬までこけちゃって」 「想像できません。あの、気丈な能代さんが」 「気丈って言うのもね、実は割と最近の傾向なんですよ」 「はぁ!?」 「確かにあの子、好奇心が強いし、首を突っ込んで火傷する、みたいな所は前からあったんですけど」 「今程の……イノシシ娘では無かった?」 「そう思います。高校までは凄いインドア派で、本ばかり読んで友達も多くない、むしろ内気なタイプでしたから」  富岡は考え込み、すぐに深く頷いた。それは朧気に抱いていた疑惑が明確な形になった瞬間でもある。 「そうか、『作られた』んだな、彼女も……」
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