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また、ダメだった。
何度目の光景だろう。胸をえぐるような痛みは、何度経験したって慣れることはない。むしろ回数を重ねる毎に痛みは増していく。僕はまた、里香(りか)ちゃんを救えなかった。
なんとしても、里香ちゃんが死ぬ未来を変えなければいけない。
「史(ふみ)くん、おはよう。」
戻ってきた瞬間は、息が止まりそうになる。いなくなったはずの里香ちゃんが、目の前で笑っているから。
「切り過ぎちゃってさ。」
昨日自分で切ったという前髪を右手で押さえながら、恥ずかしそうにそう話す里香ちゃん。この瞬間の里香ちゃんは、何度見ても可愛い。そして回数を重ねる程に愛おしくて堪らない。
また、ここから始まる。
電車に乗って、大学に向かう。3両目の後方扉から乗り込み、空いていた一席に里香ちゃんを座らせ僕はその前に立つ。小さなつむじと、窓の外を流れる景色を交互に眺めながら、里香ちゃんを失った瞬間を思い出す。今僕の頭に浮かぶ倒れた里香ちゃんの姿が、一体何度目の里香ちゃんなのかもう分からない。
―――史くん
初めて里香ちゃんを失った瞬間、頭から血を流す里香ちゃんを霞む景色の中にとらえながら僕は目を閉じた。すべての音が遠ざかる中で、里香ちゃんの声が聞こえた気がした。
目を開けると世界は真っ白だった。
何もない真っ白な空間が続く場所。そこにはポツンと置かれたスイッチが1つ。
‘2022 11 8 7:21’
里香ちゃんが死んでしまった日の日付だった。戻れるかもしれない。直感的にそう思った。だから迷わずそのスイッチに手を伸ばした。これはきっと里香ちゃんを救うために、神様が僕に与えてくれたチャンスだ。そう思わずにはいられなかった。
でも、未来はそれほど簡単には変わってくれない。
「じゃあまたあとでね。」
手を振る里香ちゃんと別れ、僕は隣の教室棟へ向かう。この行為も、もう何度目なのか分からない。
2階の教室の窓際に座る。里香ちゃんがいる教室が見える。お互いが窓際の席に座って、今日まで何度も授業中に手を振り合った。でも今、窓際に里香ちゃんはいない。いつもの窓際の席に座ってくれればその姿が見えるのに、今日はいない。もう何度も繰り返した今日のこの光景が、急に不安で堪らなくなった。
胸がざわつく。倒れた里香ちゃんの姿が頭をよぎる。どうすればあんな結末にならないのか、僕は今までも必死で考えてきた。でも未来を変えることは難しい。小さなことでも、何かきっかけが必要なはずだ。そのきっかけさえ見つけることが出来たなら、きっと僕達には幸せな未来が訪れる。そう信じて、僕はきっかけを探していく。
今、里香ちゃんが窓際の席に座ってくれていたら、もしかしたら未来は変わるだろうか。1つ1つ変えていくしかない。どうすることが正解なのか、まだ僕には分からないのだから。
『席、あった?』
授業が始まる直前、里香ちゃんにメッセージを送る。既読にならないまま、授業が始まる。里香ちゃんのスマホはバイブが鳴るはずなのに。あの授業の先生は、スマホを触っていても何も言わない。なのに里香ちゃんからメッセージが返ってくるどころか既読にすらならない。少し、苛立った。じわじわと沸き立つ焦燥感。窓の外に見える、里香ちゃんがいるはずの教室に目を向ける。本当に、里香ちゃんは今あそこにいるのだろうか。もしかしたら授業には出ずにどこか違う場所にいるのかもしれない。何かあったのかもしれない。
―――史くん
倒れた里香ちゃんの姿が浮かんで、心臓が大きな音をたてる。いても立ってもいられず、僕は立ち上がり荷物を持って教室を飛び出した。
走って、隣の教室棟へ向かう。授業中のためか、辺りに人は疎らだった。静かな廊下を走り抜けて、里香ちゃんがいるはずの教室の前に立つ。扉の小窓からでは、どこに里香ちゃんがいるのか分からない。息を切らしたまま、僕はその授業中の教室の中に入った。
空気が変わる。
一斉に僕に向けられた視線。思わず息を飲む。でもそれどころじゃない。無言で辺りを見回し、里香ちゃんの姿を探す。やっぱり窓際にはいない。窓際には空席もあるのに。里香ちゃん、里香ちゃん、里香ちゃん。ざわつきを聞き流しながら、必死に里香ちゃんを探した。
「···里香ちゃん。」
いた。
教室の真ん中辺り。右側には里香ちゃんの友達の女の子。左側には見たことのない男。里香ちゃんの両隣の2人と交互にしっかりと目が合う。なのにどうして。真ん中に座る里香ちゃんとは、目が合わない。僕に気付いていないわけがないのに。目を伏せて、こっちを見ない。
「里香ちゃん、」
駆け寄って行く。
「良かった。返事がないから心配したんだ。」
里香ちゃんの机の前に立って、その細い肩に触れようと手を伸ばした。その瞬間、里香ちゃんが勢いよく立ち上がる。
「ごめんね、史くん。一旦出ようか。」
机の上に広げてあった筆箱やノートを急いでバッグに片付けて、里香ちゃんは僕の腕を引っ張るようにして、教室の外に向かって歩き出す。
「里香ちゃん。」
そう呼ぶと、人気のない場所でようやく里香ちゃんの足が止まる。同時に僕の腕を掴んでいた手が離れていく。そして、里香ちゃんが口を開く。
「···―――」
*
また、ダメだった。
何度目の光景だろう。胸をえぐるような痛みは、やっぱり何度経験したって慣れることはない。むしろ回数を重ねる毎に痛みは増していく。僕はまた、里香ちゃんを救えなかった。
2022 11 8 7:21
戻ってきた朝。
「おはよう、史くん。」
前髪を押さえて笑う里香ちゃん。僕は里香ちゃんの左手を握る。
「可愛いよ。」
そう言うと里香ちゃんは笑う。恥ずかしそうに、でも嬉しそうに。付き合う前から変わらないその奥ゆかしさは、僕の心を掴んで離さない。
電車に乗って、大学へ向かう。学部は同じだけれど学科が違う僕達は、一般教養くらいしか同じ授業がない。今日もずっと違う授業を受けるのだ。
「じゃあまたあとでね。」
手を振って、僕と違う教室へ向かおうとする里香ちゃん。その後ろ姿を見ていたら焦燥感が湧き上がってきた。
「里香ちゃん、今日は授業に出るのをやめよう。」
離れかけた里香ちゃんの腕を咄嗟に強く引っ張った。
「どうしたの、史くん。ダメだよ、今日はレポート出さないと。」
驚いた顔で里香ちゃんは言う。
「大丈夫だよ。代わりに誰かに提出を頼めば。だから里香ちゃん、今日は一緒にいよう。」
里香ちゃんの表情が曇っていく。困らせていることは分かっている。でもダメなんだ。きっと、今離れてはいけないんだ。
「ほら、里香ちゃん。行こう。」
掴んだ腕を引っ張るようにして、僕は歩き出そうとした。なのに、里香ちゃんは動こうとしない。
「待って。離して、史くん。」
「ごめんね。でも今日はダメなんだ。こうしないと里香ちゃんが、」
抵抗された腕に、さらに力を込めて引っ張った。するとさらに強い力で抵抗された。
「もう、いい加減にして!」
僕の手を振り払って里香ちゃんは大きな声を出す。驚きで、僕は何も言えない。
「意味分かんないよ。」
睨むように僕を見る。
「史くんが、分からない。」
あぁ、ダメだ。このままではまた繰り返す。
あの時の、あの瞬間の光景が何度も何度もよぎる。
里香ちゃんの口が開いた瞬間。
里香ちゃんが倒れた瞬間。
何度も繰り返した光景が、ツギハギの記憶になって僕を襲う。
嫌だ。もう繰り返したくない。
もう、傷付きたくない。
もう聞きたくない。
もう、あんな顔見たくない。
―――史くん、
里香ちゃん。
―――史くん、あのね
ダメだよ、里香ちゃん。
―――私達、離れた方が良いと思うの。
そんなのダメだ。
―――私といると、史くんが壊れていっちゃう。
許さない。離れるなんて絶対に許さない。
―――ごめんね。分かって、史くん。
分からない。だって僕達は、
―――ずっと一緒にいるって約束したじゃないか!!
衝動的だった。傷付けたかったわけじゃない。ただ、そんなことを言う里香ちゃんの目を覚ましてあげたくて。気づいたら目の前には頭から血を流した里香ちゃんが倒れていた。どれだけ揺さぶってももう目を開けてはくれなかった。
里香ちゃんが死んでしまった。悲しくて悲しくて、僕は動かない里香ちゃんを抱きしめながら泣いた。
涙で霞む視界に映る里香ちゃん。悲しい。とても悲しい。何も見たくない。何も聞きたくない。もう、何も見えない。何も聞こえない。気付いたら真っ白な世界に立っていた。
そこには真っ黒なスイッチが1つ。
‘2022 11 8 7:21’
日付は今日。里香ちゃんがいなくなった日。時刻は朝、恐らく里香ちゃんの家の前で会った時だ。
やり直せる。そう、確信した。今日の朝、あの瞬間に戻れる。里香ちゃんを救える。僕は迷わずそのスイッチに手を伸ばす。沈んだスイッチがカチリと音をたてる。
そうやって、何度もあの朝を繰り返す。でも何度繰り返したって、どんな言葉をかけたって、何度だって里香ちゃんは僕を拒絶する。
―――離れた方が良いと思うの。
―――もう別れたいの。
―――史くんといるの、疲れちゃったの。
やり直す度に、里香ちゃんの拒絶の言葉は少しずつ変わっていく。
―――ずっと監視されてるみたい。
―――史くんが、怖いの。
より強く、より深い拒絶に変わっていく。
―――もう、自由になりたい。
嫌だ。
嫌だ。
嫌だ。
その度に僕は、里香ちゃんの目を覚まさせたくて、あらゆる手を使う。初めて里香ちゃんが死んでしまった時は、後ろにそびえ立ったブロック塀に、里香ちゃんの体を前後に揺らして頭を打ち付けた。そうすれば、おかしくなった里香ちゃんの目が覚めると思ったんだ。
僕は悪くない。だって里香ちゃんが約束を破ったから。ずっと一緒にいようねって言ったのに。史くんといるのが私の幸せだって言ってたのに。なのに目の前の里香ちゃんは僕を睨みながら言うんだ。
「もう嫌だよ。史くんと一緒にいるのが。」
軽蔑にも嫌悪にも見えるその表情は、僕の知らないものだった。どうしてこうなった?
どうして、どうして、どうして。
「里香ちゃん、どうして」
同じことを繰り返しそうになった手をグッと堪えて、里香ちゃんに詰め寄る。腕に触れようとした瞬間、里香ちゃんが僕の手を再び振り払う。
「触らないで!」
そんな怖い顔、一体どこで覚えたの?
「ごめん、もう···触って欲しくない。」
あんなに触れて、あんなに愛し合ったのに?
「史くん、」
何を間違えたのか分からない。
「普通じゃないよ。」
ただ愛していただけなのに。
「ずっと監視されてるみたいで怖いよ。」
大好きな里香ちゃんのすべてを知りたかっただけなのに。
「皆がなんて言ってるか知ってる?」
里香ちゃんが好きで堪らなかっただけなのに。
「‘彼氏じゃなくてストーカーみたい’って言ってるんだよ。」
耳を疑った。信じられない。僕が、ストーカー?
「ねぇ、史くん、」
僕のことを好きだと言ってくれた里香ちゃんはもういないの?
「気持ち悪いよ。」
心の中の、ざわざわとした波が一瞬消える。スッと何もない空間が現れたあと、何物にも例えがたい黒くて大きなものが心の中をいっぱいにしていく。
―――気持ち悪いよ。
反芻する声。何度も何度も何度も。
嫌だ、嫌だ、嫌だ。
「うわあぁぁぁぁぁ!!!!!」
逃げようとするその細い首に両手をかけた。力を込めると、二重瞼の大きな目がさらに大きく見開く。眉間に寄った皺。パクパクと動く小さな口。愛しかったすべてのパーツが、今憎らしくて堪らない。軽蔑の眼差しを向けるその大きな目も、汚い言葉を吐くその小さな口も、憎らしくて堪らない。里香ちゃんはこんな人じゃなかった。僕を好きだと何度も言ってくれた里香ちゃんはもういない。
また、未来を変えられなかった。
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