第十二話 倦怠期?

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第十二話 倦怠期?

(嫌な予感がする)  エアリスの言うとおりに、 羽虫の記憶を見てしまったなら、 なんだか取り返しのつかないことに なってしまいそうな気がする。 しかしその一方で、 不意に思いつめた表情をするクラウドのことも気になるわけで……。 (あれって、やっぱり俺の所為だったりするんだろうか……?)   紫龍は唇を噛みしめた。 (えーい、なるようになれ)   紫龍が羽虫の記憶の封印を解くと、 羽虫の見た映像がそのまま頭の中に流れ込んでくる。  暗い部屋の中で、クラウドが泣いていた。 (え? なんであいつ泣いてんの?)   その衝撃に、紫龍は心臓を鷲掴みにされたような息苦しさと、 そして同時に腹立たしさを覚えた。 (なに? なんなわけ?  泣くほど苦しいことがあるなら、 俺に言えばいいのにっ、一応夫婦だろ?  一つ屋根の下に暮らして、同じ釜の飯を食って、 いっしょに笑って……)   そこまで思って心が引きつれた。 そうじゃないのだ。 夫婦だと思っていたのは自分だけで、クラウドは違うのだ。 クラウドは下腹部に手を伸ばし、 泣きながら、紫龍の名前を呼んでいた。 (あっ…あのっ、こいつ……なにしてんの?) 紫龍はその映像に凍り付いた。   (俺をオカズに……一発抜いてたってか?) 不思議な感情が紫龍の中を駆け抜けた。 怒りではなく、嫌悪感もない。 むしろ名前を呼ばれることが嬉しくさえあった。 (うわ~、あいつ、こんな顔すんだ) その顔があまりにも切なくて、 紫龍は思わずクラウドを抱きしめてやりたいと思った。 (だけど自慰(これ)って、一体どういう感覚なんだろう?) 龍の一族の血を引く紫龍は、 通常の人間であるクラウドとはその生態が異なる。 龍の一族は恋をすることによって 初めて性への欲求を覚えることができるのだが、 紫龍は未だ恋というものをしたことがなかった。 ゆえにクラウドを伴侶として大切に思う反面、 クラウドがしている自慰行為を理解することができなかった。 (教科書三十八ページをお読みなさい) 頭の中でエアリスの声がした。 紫龍はその声に従って、 『王宮出版 夫婦生活の営みバージョンⅢ』の三十八ページをめくった。 「自慰行為とは、自ら慰めること……って、 一体何のために? ああもう、さっぱりわからねぇ」 紫龍は頭を掻きむしった。 「いっそなかったことにして、生ごみの中に捨てちまうか……」 紫龍がそういって、エアリスから手渡された羽虫と本を ゴミ箱に捨てようとしたときだった。 「なんか、すごい音がしたけど、お前大丈夫だったか?」 いつの間にかクラウドがその背後に立っていた。 「おおおお、お前いつの間にっ」 驚いて後ずさった紫龍がバランスを崩した。 「ちょっ……危ねっ!」 そういってクラウドに腕を掴まれ、 その胸の中にすっぽりと抱きすくめられてしまう。 (心臓が……壊れる) その時、確かに紫龍の心臓は かつてない高鳴りを覚えたのだった。 (なんだろ? なんか……すげえ苦しい……) 「額、擦りむいてるぞ? 痛むか?」 そういってクラウドは紫龍の額にふっと息を吹きかけた。 「あ……あの、大丈夫だから、ほんと」 紫龍は慌てて、クラウドから身体を離した。 「お前のほうこそ、もう大丈夫なのかよ?  あっごめん、俺唐揚げ全部食っちまって……。 代わりに飯作ろうとしたら、失敗しちゃって……。 コンビニでなんか買ってくるよ。何がいい?」 「いいよ、あんまり欲しくないし。俺、風呂入ってくるわ」 そういってクラウドは浴室へと歩いて行った。 (なんか、避けられてる感じがする) クラウドの背中を見送りながら、 少なからずショックを受ける紫龍であった。 そして小さく溜息を吐いて、 ペラペラと教科書をめくってみた。 『倦怠期』と書かれた見出しが、 ふと目に留まり、紫龍は食い入るようにその項目を読み耽った。 (なになに? 『倦怠期』。 お互いに飽きて煩わしくなる時期……か。 って、これじゃね? 俺たちきっと今、倦怠期なんだよ!) 紫龍は、目から鱗が落ちたかのような衝撃を覚えた。 『「夫婦間の倦怠期の乗り越え方」 ふたりでいつもと違うことを経験してみましょう。 手を繋いで眠ることや、 一緒に入浴するなどのスキンシップも効果的です』 と書かれてある。 (よし、さっそく試してみよう) 紫龍は衣服を脱いで、浴室に突撃した。 「邪魔をするぞ! クラウド」 「ぶはっ」   クラウドは浴槽で足を滑らせ、強かに水を飲んだ。 「げほっ、ごっほん」 涙目になって咽ているクラウドの背を紫龍が心配そうに擦った。 「大丈夫か?  何か辛いことがあるのなら遠慮なく言ってくれ!」 「大丈夫じゃねえよ!  とりあえず出ていけ!  俺がお前に何かをしてしまわないうちにっ! 頼むから」 結局紫龍は、マジ切れしたクラウドに浴室から追い出されてしまった。 以後、事態はさらに悪化し、 クラウドは紫龍を避けて、 とうとう視線すら合わせてくれなくなったのである。 寝室も別にしようと言い渡され、 クラウドは書斎に自分の分の寝具を運び、 厳重に部屋に鍵をかけた。 (ああ、もういい。わっかんねえよ。あいつが) 一人で眠る寝室のダブルベッドがやたらと広く感じて、 紫龍はなんだかひどく悲しくなった。
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