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時盗
何も遺せない肉体の、最期の一雫まで盗まれたなら。私は、誰かの役に立てるだろうか。
◇◇◇◇
高価そうなふかふかの天蓋ベッドで眠る、1人の少女。その枕元、レースのカーテンがはためく大きな窓から、時間泥棒は現れた。
烏色の外套に、深く被った同色のテンガロンハット。口元はやはり漆黒のスカーフで覆われている。黒光りする革靴は、しっとりと音も無く床に張り付いた。――彼の仕事は、密かに『時間』を奪うこと。
此処でも少しだけ時間を頂くつもりで、時間泥棒は少女に手を伸ばす。すると眠っていたはずの少女がぱっちり目を開き、時間泥棒の手を強く掴んだのだ。それは病弱そうな細腕からは想像もできない強さだった。
「ねえ、貴方だれ? 何を盗むの?」
全く恐れず問い詰める少女に、時間泥棒は面食らって絶句した。
「ねえ、聞こえてるわよね、何を盗みに来たのよ」
あまりの迫力に観念した時間泥棒は、溜息を吐いて答え始めた。元より暴力沙汰を起こすつもりはない。
「私は時間泥棒だ、君の時間を少しだけ頂きに来たんだよ。……バレたからにはとっととずらかるつもりだがね」
ふーん、と興味なさげに時間泥棒を一瞥した少女の瞳に、ぱっと光が射した。嫌な予感がした時間泥棒は無意識に身を捩ったが、掴まれた腕はびくともしない。
「……ねえ、時間を盗むんでしょう。なら私のを全部持っていってよ」
「……君は何を言っているのかな」
「だって、そうしたら私は、今すぐ死ねるでしょ」
「……はあ?」
理屈は分からなくもないが、というか時間泥棒にとっては実際正しかったのだが、唐突に吐かれた死の欲求に、時間泥棒は酷く驚いた。
「……何でそんな」
「……言ったら叶えてくれるのかしら」
「約束はしかねるよ」
「いいわ、納得させてみせるから」
正直なところ話など聞きたくもない時間泥棒だったが、少女の勢いに圧され、それで落ち着くのならと承諾した。
「お兄ちゃんが、帰ってこないの」
「……お兄ちゃん?」
「そう、私が一番信頼してる家族なの」
「……へえ、そうかい」
そこで少女は唐突に話を止めた。
「ねえ、時間を盗むってどういうこと?」
「続きはどうしたんだ」
「いいから答えてよ」
有無を言わさぬ口調にまた溜息を吐いて、時間泥棒は渋々口を開く。
「文字通り時間を盗んで、適当なところにばら撒くんだよ。そうすれば世界の時間が増える。……世界は、そうやって続いているんだ。人間や物の時間を代償に。時折私も、自分の時間を使っている。盗むばかりじゃ申し訳ないからね」
「どうやって盗むの?」
「これを見てごらん、黒い石があるだろう」
時間泥棒が示す手袋には、指先や掌に黒耀石のような破片があった。
「これに少し触れたらいいんだ。触れたものの時間がある程度奪われる。何度も触れるほど、奪う時間は長く副作用も重くなる」
「誰のための仕事なの?」
「さあね、私はいつの間にかこうなっていただけさ。上司の顔なんか覚えちゃいない」
「……そう」
少しばかり納得した様子の少女は、漸くぽつりぽつりと語り始める。その横顔は、先程とは打って変わって物悲しく憂いを帯びていた。
「……私とお兄ちゃん、養子なのよ。私はお兄ちゃんのおまけで、嫌嫌引き取られただけ。私なんか、母さんも父さんもどうでもいいの」
「……それで?」
「……私には、お兄ちゃんが一番だった。なのに、旅行に行ってくる、ってそれっきり。母さんたちも心配してる。私には何も教えてくれないけど、全部知ってるんだから」
涙が滲むその眼には、最早何も映っていない。
「私がお兄ちゃんに何もしなかったから、ずっと甘えてばっかりだったから。もう何ヶ月も手紙が無いの。メールも電話も繋がらない。お兄ちゃんに逢えないのなら、私は今すぐ死んだっていい。幽霊になったら、お兄ちゃんを探しに行けるんだから。もし、もしもよ、お兄ちゃんも死んでしまっているのなら、ずっと2人でいられるの」
「……だからといって、自分から時間を盗めというのはね」
「……だって、連絡するって言ってたの。だから、ずっと待ってたら帰ってくると思ってた。手紙を出せば返事が来ると思ってた。でも駄目なの。全部駄目。罰が当たったのよ。私が我儘しか言わないから。私が遅すぎたから。嫌われたのかも、事故で二度と逢えないのかも分からない。お兄ちゃんがいないのに、こんな私がこれから生きていけるはずがない」
一気に吐き出して、少女はきっと時間泥棒を睨み付ける。説得というより泣き落としだと時間泥棒は思っていた。
「ねえ、だから、私の時間を盗んでよ」
「……君を殺せば、私は大罪人だよ。それに、君のお兄さんが明日にでも帰ってきたらどうするんだ」
言い訳がましく語る時間泥棒に、少女は尚も食い下がる。
「でもっ、」
「私には、叶えられない望みだね」
時間泥棒は憐れむように少女を一瞥し、何も盗まず空へ飛び去った。――意図せずひっそりと、たった一言を溢しながら。
「何でよっ、私には、何にもないのに……」
死に損ないの少女は噎び泣き、冷たい布団に突っ伏した。はためく外套を掴む隙さえ無かった。空虚な絶望の最中、時間泥棒の最後の呟きが静かに届く。
『俺にお前は殺せない』
耳に遺る懐かしい声に、はっと涙が止められた。それは、何ヶ月も焦がれた優しい響き。
「お兄ちゃん……?」
――遺された少女のベッドには、妖しく光る黒耀石が一粒。少女はごくりと唾を呑み込み、その闇にそっと手を伸ばしたのだった。
「……バイバイ」
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