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第三章
1
あれから十年近く時が流れた。
これまでずっとここに来ることは意識的に避けていたが、こうして足を運んでみると意外となんてことはない。
どうやら自分で自分のハードルを上げてしまっていたようだ。
店の扉を開けると、変わらず杏子さんが迎えてくれた。歳をとったなという印象は否めないが、それでも大きく変わった様子はない。
「珍しい、今日は一人か。今じゃすっかり大先生なんだろ?出世したもんだな」
揶揄うように笑う姿も以前のままで、僕は思わず苦笑をもらした。
「先生はやめてくださいよ。僕はただの駆け出し小説家です」
「そんな謙遜しなくても。ちゃんと夢叶えてデビューを果たしたんだから大したもんだよ。昔はほら、大我のやつがうるさかったから。名前を見た時は驚いたよ。デビュー作、面白かった。映像化もするんだろう?」
「そう聞いてます」
「やっぱり大したもんだよ」
お茶でも飲んで行くかと店の奥を示されたが、僕はその誘いを丁重に断った。
杏子さんはどうにも訳知り顔で僕を眺める。
「それで?今日はどういった用件?私に会いに来たわけでも、ましてや世間話をしにきたわけでもないだろう?」
僕はどう切り出すべきかを悩んでいた。
話をしにきたのは間違いない。
ただそれはただの世間話ではない。
「実は杏子さんにお願いしたいことがあって伺いました」
「なにかな?君が来たということはきっと大我絡みなんだろうけど、私に出来ることなんてあるかね」
「杏子さんにしか出来ないことです」
杏子さんはきょとんとした顔で僕を見た。
僕は鞄にしまっていた物を取り出す。
レジカウンターの上に、それを置いた。
紙袋に入れられた一冊の本。
「大我がこの店に来ることがあれば、これを渡して欲しいんです。もしも今月中に来なかったら古紙回収にでも出してください」
杏子さんの顔が困惑したように歪んだ。
「頼まれるのは構わないが、さっきも言っただろう?あいつは最近ここには来ていない。大事な物なら直接渡したらいいのに」
「それでは意味がないんです。これはそう、僕にとっての賭けだから」
杏子さんは僕と目の前の本を交互に見遣り、仕方ないなとでもいうように紙袋をレジ下に閉まった。
「ひとまず預かってはおくけどさ、捨てるのは忍びない。もしもダメなら取りにおいで。その時まで預かっておくから」
僕はそうですねと曖昧に返事をして、とりあえずそれまではよろしくお願いしますと頭を下げた。
杏子さんは可笑しそうに笑っていた。
「本当に、昔っからあんたら兄弟は変わんないね。バカがつくほど真面目でさ。大我もいつだったかぼやいてたよ。秀治も千利も真面目ちゃんだから俺が適度にガス抜きしてやんないといけなくて困っちゃうよ、まったく世話が焼けるって。世話してたのはどっちだって話だけどな」
この人の豪快な笑い方を見ていると昔に戻ったように錯覚して、懐かしさにちょっと泣きそうになった。
「まあいいや。たしかに預かっとくよ。そうだ、ついでにサインでも書いてって。店に並べるから」
「そんな大層な身分じゃないのに…」
「いいじゃないか減るもんじゃないし。大御所作家になってプレミア付くようになったら私も鼻高々だ」
「あはは、そうなるように頑張りますね」
店の片隅に申し訳程度にサインを残し、僕は杏子さんに見送られながら店を出た。
ひとまずはこれで、第一ミッションはクリアといったところだろう。
あとは僕の運次第だ。
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