第三章

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3 「まずはお前があの本を書いた経緯と杏子さんとこに置いていったわけから聞かせてもらおうか」 僕は食べる手を止めてすぐ近くに置いていた鞄から古びたノートを取り出し、大我に渡した。 「これは?」 「いいから、なか見てみて」 大我は訝しげな顔をしながらもノートを受け取り、パラパラとページを捲って手を止めた。 「これは、秀治の?」 「日記というよりは書きかけの小説。登場人物の名前はそのままだし、起きた出来事はフィクションなんかじゃないから、どちらかといえば自伝かな。そんなものがね、部屋を片付けてたら見つかったんだ」 「秀治自身、これの存在を覚えてるのか?」 「さあ?決別しようとしたのか、単に忘れていったのか、確認してないからそこはわからない。兄さんは大学進学以降うちには帰ってきてないし」 もう長いこと兄さんの顔を見ていない。 兄さんは僕のことを避けている、それは分かっていたから、今更僕が無理に距離を詰めるのも違うと思っていた。 「杏子さんとこに置いてったのは、これをベースに千利が筆を加えたものってことか?」 「そういうこと。だって、僕の考えも含めて大我に知っておいて欲しかったから。僕と兄さんの会話は兄さんにとって思い出したくもない記憶なんでしょ。そこだけ破り取られてたり黒く塗りつぶされたりしてたから、そこは自分で補完するしかなかった。だからそのノートを渡すだけじゃなく、こんなまどろっこしいことをしたんだ」 大我はじっと兄さんのノートを見下ろしている。 苦々しげな表情で顔が歪んだ。 「俺が、お前ら兄弟の仲を壊しちまったんだよな」 やはり大我はそう考えていたかと僕はため息をつく。当たり前といえば当たり前の反応だった。 大我は知っていたから。 兄さんが当時どれだけ思い詰めていたのかも、色々なしがらみに縛られて、自分を抑え込んで、いつ爆発するかも分からない状態だったことも。 僕は当時、大我からそういう兄さんに関する相談をずっと受けていた。本の貸し借りをしていたのもついでのようなもので、大概はどうしたら兄さんがもっと楽に生きていけるだろうかということを二人で話し合っていた。 大我が兄さんを遠ざけたのは、自分の存在そのものが兄さんを傷つけ苦しめてしまうんじゃないかと思ったからだ。 『180度ちがうタイプの親を持った自分にはきっとあいつの苦しみは理解してあげられない』 大我は当時ずっとそう言って悩んでいた。 だから、僕が階段から落ちて入院したと聞いた時、大我は何も言わなくても兄さんの様子を見て真実に気付いていた。 大我はそれを悔いていた。 『俺がもっときちんとあいつのことを支えてやれていたなら』 大我がそう言っていたのを僕は今でも覚えている。当時ただの高校生だった僕達にそんなことが出来るはずもなかったのに、大我は拳を握りしめてそう言った。 そのまま、兄さんは大我に別れを告げた。 僕と大我から逃げるみたいに受験勉強に専念し、両親からの期待と称賛を一身に浴びて、あの人はこの街を出て行ったのだ。 「僕がどうして勝手に兄さんのノートを持ち出してこんなことをしたのか、分かる?」 聞くと、大我は視線を上げて「いや」とだけ答えた。 「兄さんね、結婚するんだ」 大我の目が大きく見開かれた。 平静を装ってはいるものの視線が泳ぎ、落ち着かなさそうに飲みかけのコーヒーを口にした。 「そう、結婚か。千利は相手の人にはもう会ったのか?」 「うん、優しくて美人で頭もいい、兄さんにはもったいないくらい出来た女性だよ」 「そっか。あいつ、ちゃんと前に進めたんだな」 大我はひどく寂しそうな顔をした。 無自覚なのだろうが、その顔が今どれだけ僕を傷つけているかなんて、大我には想像もつかないだろう。 「兄さんは前に進んだんじゃない。ただ逃げただけだよ。過去や、自分や、後ろめたいこと、そのすべてから」 吐き捨てるようになってしまった言葉は自分でも驚くくらい刺々しい響きを伴っていた。 大我は深く俯いて、椅子の背にもたれたままなにかを考えているようだ。 「兄さんの結婚の話は本当につい最近知ったんだ。一度だけ実家に彼女を連れて挨拶に来たことがある。もちろん僕もその場に同席していたわけだけど、兄さんはとうとう僕の目を一度も見ようとしなかった。この人はこのまま一生逃げ続けるつもりなんだって思ったら、悲しくて、悔しくて、辛かった。だから、無理矢理にでも向き合わせようと思った。あの本を作ったのはそういう経緯だよ。大我に読んでもらうためでもあり、僕の中の記憶や考えを整理するための作業でもあった」 今でもあの僕を避けるような態度を思い出すと悲しみよりも先に腹が立つ。 昔だったら僕のせいでまだ苦しんでいるんだと繊細にも悩んだのだろうが、残念ながら僕は歳を重ねるごとに図太くもなっていた。 「でも、なんでそれを杏子さんの店に?杏子さんも言ってただろう?最近俺はあの店に行ってないって」 「それは、大我がこの国にいなかったからでしょう?」 大我は驚いたように目を丸くして僕を見ていた。 「どうしてそれを知って」 「ごめん、SNSで偶然見つけちゃったんだ。大我の近況はそれで知っていた。アメリカ、行ってたんでしょ?帰国すれば大我はきっとまっすぐ杏子さんのところに行くんじゃないかと踏んでいたんだ。だから帰国の旨を書いた投稿を見て、僕は杏子さんの店に行った。まさかこんなにとんとん拍子にことが進むとは思ってもみなかったけど」 「SNS見たんならそこから直接連絡してくれればよかったのに。なにもこんなまわりくどいことをしなくても」 「友達申請して相互にならないとメッセージのやり取りは出来ない仕組みだろ?」 「だから、見つけたなら申請してくれれば」 「今更僕に、大我のことを友達だなんて言わせるの?」 大我はハッと言葉につまった。 僕は大我が高校を卒業するその日に告白をした。兄と別れていたことは聞いていたし、失意の中にある彼を支えてあげたかった。 兄の代わりでもいいから、僕を求めてほしかった。 だけど、大我は僕を振った。 ごめん。 それだけ告げて。 「まあ、賭けでもあったんだ」 「賭け?」 「そう、僕が過去を断ち切るための。兄さんは今月の終わりに結婚する。だからそれまでに大我と連絡がつかなかったら、もうこれ以上何かするのはやめようと思ってた。兄さんのことも、大我のことも、全部割り切って諦めてしまおうと思ってたんだ。柄にもなく良くも悪くも変えられたらいいなんて思ってしまっていたからね」 大我はもうすっかり冷めてしまったコーヒーを口にしながら顔を顰めていた。苦々しいものを口にした時の顔。当然ながらそれはコーヒーのせいではないのだろうが。 「SNSの写真を見ながら思ってたよ。大我、未だに兄さんのこと引きずっているんでしょ?」 「そんなこと」 大我がムキになるのを見て、僕の胸はズキンと痛んだ。それは否定じゃない、あからさまな肯定じゃないか。 「意識的なのか無意識下なのかは分からないけど、大我の写真に写ってる友人はどこか兄さんに似てる人が多かった。女友達との写真もあったけど、そういう人達とはどこか線を引いてるようにも見えた」 「だから、そんなこと…」 「ないって、言い切れるの?」 真正面から覗き込むと、大我はふっと目を逸らす。 「兄さんも大我も、そろそろちゃんとケジメをつけなきゃだめだ。兄さんは義姉さんに対して良くないし、大我だって次にいけない。僕にしても、兄さんには言いたいことがある」 「だけど、今更俺が行っても」 消え入りそうな声で大我が言った。 それは十年前のあの日、兄に終わりを告げられて、僕の前ではじめて泣いた大我の姿を思い出させた。 「あのさ、大我」 僕は迷っていた。 言ってしまっていいものかどうか。 それでも、理性で蓋をするよりもほんのわずかに早く、言葉は口から溢れてしまった。 「僕は今でも大我が好きだよ」 大我は小さく口をあけて、虚をつかれたように僕を見た。 「僕だってもう大人になった。紛いなりにも作家になって、締め切りにだって追われる身だよ。いくら身内の為とはいえ、どうでもいい奴に割く時間なんてない。それでもこれだけ労力かけて、やってきたのは何故だと思う?」 大我は答えなかった。 だから僕の方から答えを告げるしかなかった。 「好きな奴に、幸せになってほしかったからだよ。このままじゃ大我はずっと兄さんを引きずったまま生きて行かなきゃいけない。そんなの絶対幸せになんかなれない」 「千利…」 「それに、僕だって今度こそ本気でぶつかりたかったんだ。振り向いて欲しかった。ちゃんと僕自身を見て欲しかった。この十年間、僕はずっと後悔してた。あの時もっと本気でぶつかればよかったって。兄の代わりなんかじゃなく、僕が一人の人間として、本気で大我を欲しいと思っていたこと、そういう大事なことをあの時なんでもっと強く言わなかったんだって。 だからこうして今、僕は過去にケリを付けるためここに来た。 全部に決着をつけて、その上で大我にもう一度気持ちを伝えるために。 もしもそこまでしてダメなら諦めだってつく。 このままじゃ僕だって諦めきれないんだ。 今度こそ、秀治の弟じゃなく千利として、ちゃんと僕のことを見てよ」 一息に捲し立てたせいで息が上がった。 大我は唇を引き結んだまましばらくの間俯いていた。 店のBGMだけがゆるやかに僕らの間を流れていく。 そして、ようやく僕の息が整ってきた頃、大我は決心したように顔を上げた。 「ごめん。そんなふうに思い詰めさせていたなんて思ってなくて、随分と…苦しめたな」 僕はあえて否定せずに頷いた。 「ありがとう、千利。ちゃんとケリをつけないといけないって本当は俺自身わかってたんだ。それでもどこかで理由を作って逃げ回ってた。俺は千利みたいに踏み込んでいく度胸がなかったから。でもそれだって、言い訳だよな」 大我は困ったように苦笑する。 「こんなに自分を想ってくれる奴がいた。その気持ちに応えないのは、ダメだよな。これだけ千利が頑張ったんだ。今度は俺が勇気を出さないといけない。だから千利、ひとつ頼まれてくれねえか?」 大我がじっと僕を見つめる。 その目に射抜かれたように、反射的に僕の体は熱くなってしまう。 やっとの思いで「なに?」と返した僕に、大我は覚悟のこもった声で言った。 「俺を秀治のところに連れてってくれ」
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