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「大我、いい?押すよ?」
僕が振り返ると大我は緊張した顔で頷いた。
僕たちは今、兄の家に来ていた。
事前に知らせていたら逃げ出すかもしれないから何の連絡もせずに来た。
留守だったらまた来ればいい。
大我とはそういう話で合意していた。
手が震える。
それでも、今を変えると決めたから。
僕は指先に力を込めて呼び鈴を鳴らした。
「はい」
兄さんは家にいた。玄関の扉が開き、そして僕たちの姿を見るなり硬直した。
怯えたような表情で、兄さんは言った。
「今更…なに?」
振り絞るような声に兄さんの緊張が伝わる。
兄さんは気まずそうに目を伏せて扉を閉めようとしたが、それをガッと掴んで止めたのは意外にもついさっきまで引け腰気味だった大我だった。
「秀治、頼む。話をさせてくれ」
「大我、僕はもう結婚を…」
「それは千利から聞いてる。だからここに来たんだ。ずっと謝りたかった。喧嘩別れみたいになったから、本当は仲直りがしたかった。俺は…このままじゃダメなんだ。嫌なんだ。だから」
大我の勢いに圧倒されたみたいに兄さんはぽかんと小さく口を開けていた。
そして扉を閉めようとしていた力を緩めた。
「別に、大我が謝ることなんてないだろう。悪かったのは…僕の方なんだから」
しおらしく俯き、兄さんはドアノブから手を離した。僕と大我を交互に見て、くいと顎で部屋の中を示す。
「あがって。中で話そう」
僕と大我は顔を見合わせてほっと息を吐いた。
***
家の中は段ボールでいっぱいだった。
義姉とはまだ同棲前で、来月から一緒に住むことになっていると先日の顔合わせの時に聞いていた。
「引っ越し準備は順調?」
声をかけると、まあなとだけ返ってきた。
元々そんなに私物の多い人ではなかったから荷物整理といっても然程やることもないのだろう。
「そのへん適当に座って。ペットボトルの茶でよければストックあるから持ってくる」
今までの兄さんならそんな言葉は出てこなかったと思うが、これはきっと義姉さんのおかげなのだろう。大我もそう感じ取ったらしく、柔らかく笑って兄さんに声をかけた。
「なんか秀治、変わったな。奥さんの影響?」
兄さんは珍しく赤面しながらうるせぇと否定した。やはり大我の前でだけは、どれだけ時間が過ぎようと、そしてどんなことがあろうと、兄さんはいつもと少しだけ様子が変わる。
無理にでも大我を連れてここを押しかけたのは正解だったかもしれない。
僕は内心でそう思っていた。
「でも、本当にどうして二人揃って?」
兄さんに聞かれ、僕は事の顛末を説明した。
喫茶店で大我に話したことと同じ話を。
どんな反応を示すだろうかと怖くもあった。
大我だけではなく僕の方も兄さんとは久しぶりの対話なのだ。大我と一緒でなければ普通に話せる自信がなかった。
「懐かしいな。こんなもの、たしかに書いてたわ」
兄さんは思ったよりも冷静に受け止めていた。
あのノートは兄さんに返した。その上で大我に渡したあの本も兄さんに読ませた。
「あれから十年か、道理で懐かしいはずだ」
兄さんは本を閉じるなりそう言った。
穏やかな表情をしていた。こんな顔をする兄さんを僕は知らない。そこで、そうかと思った。
僕のこれまでを知らないように、僕もまたこの空白の十年間の兄さんを知らない。
お互いに避けていると思っていたから、お互いに目を向けないようにしていた。
触れなければ傷付けずに済むと同時に傷付かずに済むから。
蓋をして、目を背けて、逃げてきたのは兄さんだけじゃない。
僕も、大我も、兄さんも、みんながみんな過去からの逃亡者に違いなかった。
「別にさ、全部過去のこととして綺麗な思い出にしたいわけじゃない」
兄さんはそう言った。
「大我、ごめん。あの時はまだ若かったから、僕は自分で自分を追い込んで、どこにもいけないと思い込んでた。大我にはそれで酷いこと言ったし、振り回して、その挙句勝手に別れを突きつけて、逃げるみたいに大我の前からいなくなってさ。最悪だよな。僕のしたことは許されるようなもんじゃない」
「ちがう、何も出来なかったのは俺の方で。無神経なとこあるから、俺、お前にどう接したらいいか分かんなくて、だから…」
兄さんは大我を見て、昔みたいな顔で笑った。
大我の頬がふわりと赤く染まる。
「正直、合わす顔がなかったっていうのが一番だったんだけど。大我に対しての罪悪感から僕は距離を置いたんだ。それに、千利の気持ちも気付いていたし。
僕が千利にしでかしたことは取り返しのつかないことだった。
僕がいなくなって千利が大我のそばにいるようになったら、全部がうまく回るような気がした。必要なピースが必要なところにはまるみたいに思った。まあそんなのは後付けで、ただ自分を正当化したいだけなのかもしれないけどな。
なんにせよ、今日の今日まで二人に会うことを僕は恐れていた。避けていた。
それでもこうして二人で会いに来てくれたこと、驚いたけど…今は嬉しいと思ってる。ありがとう」
まさか兄さんの口からそんな言葉が出てくるなんて思ってもみなくて、僕は言葉をなくし、呆然と兄さんのことを見つめていた。
「…だから適度にガス抜きしないとダメだって俺何度も言ってたのにさ。本当にお前って人の話聞いてるようで聞いてねえよな」
大我が泣きそうな顔をして笑いながら悪態をつく。兄さんもごめんと言って笑う。
「秀治、俺はさ、お前のことが大好きだったよ。ずっと忘れることなんかなかったし、気がかりだった。この十年間、結局俺の中にはお前がずっと居続けたんだ。別れても、たとえ離れてしまっても、俺はお前をずっと想い続けてた」
兄さんは大我の言葉にじっと耳を傾けている。
大我は兄さんの方を見て、ちょっと悩んだ様子を見せてから、躊躇いがちに訊いた。
「…最後に、訊いてもいいか?」
「なに?」
「…お前は俺といて、幸せだったか?」
「うん」
「今、お前は幸せなんだな?」
「うん、僕は今、ちゃんと幸せになったよ」
「そうか」と言って、大我の頬に涙がつたった。
それが悲しみではなく幸せの涙だということは僕にも痛いほどよく伝わった。
「それじゃ、今度こそサヨナラだな。次会う時はもうただの旧友だ」
大我はゴシゴシと濡れた目のまわりを袖口で拭った。泣き顔を見られたくなかったのかもしれない。そのまま立ち上がった。
「そしたら俺はもう行くよ。なんかもう気恥ずかしくてここいられないから」
「だったら僕も…」
立ち上がりかけた僕を大我は制した。
「お前はまだ兄貴と話すことあるだろ?ちゃんとそっちもケジメつけてこい」
僕はうんとしか言えずに再び座る。
兄さんが駅まで送ろうかと言ったが、道はわかるから大丈夫だと大我はそれも断った。
「俺を振ったんだ。ちゃんと幸せになれよ。そんで、奥さんをちゃんと幸せにしてやれ」
大我はそれだけ言い置いて、じゃあなと言って出て行った。
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