第三章

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「相変わらず忙しないやつだな」 苦笑しながらも大我のいなくなった扉を兄さんはしばらく見つめていた。 僕が兄さんと二人きりで話をするのはいつぶりだろうか。 「二人だけで会話するのは、この前の電話以来だな」 兄さんは僕の考えを見透かしたようにそう言った。僕もそうだねと返し、目の前のペットボトルを見下ろす。 「こういう買い置きしたり、お客さんに何出すか気にかけるようになったり、本当に義姉さんのおかげで兄さんは随分と人間らしくなったよね。感謝しなくちゃ」 「お前それ嫌味か?」 「もちろん嫌味だよ。人のこと盛大に石段の上から突き飛ばすような兄だもの、ちゃんとまともに生きていけるのかと弟はずっと心配だったんだから」 兄は驚きを通り越して呆れたように僕を見ていた。 「お前もすっかり大人になったというか、言うようになったなぁ」 「そりゃね、これくらいじゃなきゃ生きていけないし、あの家も、この業界も」 僕の言葉に兄さんは黙り込む。 兄さんが僕を突き飛ばした時、僕は全ての責任を自分が被ると決めていた。 兄さんの夢を本当は僕も知っていたから、兄さんが僕のために自分の道を捨て、生きようとしているのなら、僕はその生き方を守らなければならないと思っていた。 たとえそれが間違っていたとしても、当時の僕は兄さんを庇うことがイコール兄さんを守ることなのだと思っていた。 しかしそれが兄さんを余計に苦しめた。 あの手記を読んだ時、僕は泣いた。 兄さんが出て行ってからというもの、一人残された僕への両親の風当たりは冷たいものだった。出来のいい兄と出来損ないの弟、その関係値はどう足掻いたところで今更変わるものでもなく、僕も高校を卒業したら家を出ると決めていた。 大我は高校卒業と同時に音信不通になり、僕には本音で頼れる相手がいなかった。 兄さんがいなくなったことで、僕が兄さんの関わりの中で得ていた幸せもなくなった。 孤独だった。 その孤独は僕に課せられた罰なのだと思っていた。まさに生き地獄だった。 僕が高校を卒業する間近のこと、腕試しと思って公募に出していた小説が小さいながらも賞を取った。 僕は作家になることを決め、家を出た。 細々とではあるが活動を続け、その後に書いたものが別の賞をとった。 辛いことは仕事をする上でごまんとあるけれど、それでも紛いなりにも兄さんと夢みた小説家という仕事になんとか就くことができたから、僕は僕なりにそれを幸せだと思っていた。 「この業界、か。千利の書いた小説、最新作がこの前書店に並んでた。お前本当になっちまうんだもんな作家に。嫉妬したけど、驚いた。しかも読んでみたら面白いんだから腹立つわ」 「読んだの?僕の書いた小説」 「当たり前だろ、そんなの」 兄さんは照れくさいのか僕から視線を逸らし、頑としてこちらを向こうとしなかった。それがおかしくて僕はクスクスと笑った。 「なんだよ笑うなよ」 「いや、なんか嬉しくて」 「まあ、懐かしいよな。僕達がこんな風に喋るのは」 「うん、本当に」 テーブルの上に置かれたスマホが鳴った。 兄さんのものだ。通知には義姉さんの名前が表示されている。メッセージ通知のようで、今日これから会えるかという旨のメッセージが来ていた。 「ねえさん?」 「ああ、このあと夕飯でもどうかって誘われてて。千利も来るか?あいつ、喜ぶと思うけど」 「いや、せっかくだけどまだ仕事あるから。そろそろ僕もお暇するよ」 兄さんはそれ以上無理に引き止めるでもなく、そうかとだけ言って立ち上がった。 「そういえばさ、お前ら今付き合ってんの?」 唐突に兄さんは僕に訊いた。 僕はちょっと意地悪がしたくて、どう思う?と聞き返してみる。 しかし兄さんはとても真面目な顔をして答えた。 「わからないけど、そうだといいと思ってはいる」 「兄さん…」 スマホがもう一度鳴った。 どうやら今度は電話らしい。 ごめんと言って兄さんは電話に出た。 「ああ、うん。いま家。これから出るところだから店で待ち合わせよう。すぐ行くよ。じゃあまた」 電話をしている横顔は愛おしそうで、かつて大我に向けられていたそれと同じ類のものだった。 兄さんがそのような表情を向ける相手はもう大我ではないのだ。そう実感した。 「僕が言えた立場じゃないけど、大我のこと頼むよ。僕はあいつを幸せになんて出来なかったけど、千利はいつだって僕にできないことをやってきたんだ。大事な人なのは…今でも変わらないから。あいつは幸せにならなきゃいけない。そしてそれは千利、お前にも言えることだと、僕は思っている。謝っても許されるわけじゃないけど、あの時のことは本当にごめん。あんなことがあっても、まだ俺のことを兄と呼んでくれて…ありがとう」 「当然だろう、僕らは兄弟なんだから」 そう答えると、兄さんは嬉しそうに僕の頭をクシャクシャと撫でた。久しぶりの兄さんの手の感触はくすぐったくもあたたかかった。 僕たちは二人で家を出て、駅に向かう途中の道で兄さんは義姉さんと会うために僕と別れた。去り際に兄さんは僕に言った。 「書店に並んでるやつも、さっきのやつも、すごくよく書けてた。千利はやっぱりすごいやつだ。本当に、自慢の弟だよ」 じゃあと手を振って、僕は兄さんと別れた。
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