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「はじめは、飢饉だと思っていたのですが、検めたところ、違っていました。供物を運ぶのにも難渋するほど、遠出の難しい時局となっていたようです。疫病退散の願のため、近年ではまれなほど、様々な術が試みられていたようで……。その一つが、今回、あなたや、かの生類どもがここへ送られることとなった、禁術です」
彼の唇に、苦い笑みが浮かぶ。
「私には、疫病を蔓延らせるほどの祟りの力も、祓えるほどの力もないのですが。民草にとっては、藁にもすがる思いなのでしょうね」
彼がそっと右手を差し出すと、カピバラがその手にとことこと歩み寄り、身体を擦りつける。彼の唇には、先ほどとは違う柔らかい笑みが浮いている。
「いずこよりお越しの方かは存じませんが、あなたは、この壁を抜けられる、稀有な性をお持ちの方なのです。そのため、禁術により見出され、贄として、私に捧げられようとしています」
彼の目が、私たちの周りを囲む白黒の風景を指し示す。今日は新月、壁に張り付いた景色は、初めの日と同じ、ネガの世界だった。
「……私も、私を封じるこの壁について、委細すべてを承知しているわけではありませんが」
そこで、クサブキさんの顔は私を振り向いた。
「おそらく、この壁の中で、中のものを飲み食いされれば、あなたは二度と、ここより出でることは叶わなくなるでしょう。あるいは、贄として私があなたを受け取れば、やはり、あなたは永劫、ここに住まうこととなります」
そう告げるクサブキさんの顔に、笑顔は全くなかった。
「……だから私に、飲食物を持ち込めと」
「ご明察です。あなたが外界から持ち込んだものには、そのような力は働かない」
たしか、初めの日、思いっきりお茶を勧められた気がしたけれど。
まあ、忘れることにする。
「……贄として受け取る、とはどういうことですか」
まさか、先ほどの話のように、取って食うということなのだろうか。
「……それは、私にはお答えしかねる」
クサブキさんの瞳がふと緩んだ。
「ただ、今、私にその意志はないことは、お伝えしておきます。あなたは、故なくここへ送り込まれた生類たちを、健やかに生かすために、今の私には無くてはならないお方だ。そして、自由にこの壁を行き来していただかなくては、それは成り立たない」
それにしても、あなたは心のきれいな方だ、クサブキさんの唇が再び笑みの形を作る。
得体のしれない微笑。
世間知らず、と暗に言われているようで、私の気持ちは落ち着かない。
相変わらず、肝心な時、彼の感情は全く読み取れない。私は唇をかむ。
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