如月 満月 月下の笛

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「……アマネ殿」  クサブキさんの声は、予想と違って平静だった。  ただ、微かにひそめられた眉と、青白い顔色が、彼の心労を物語っている。 「クサブキさん。新しい生き物は、どこですか」    指し示されたのは、初めの日に私が座らせてもらったのと似た、毛皮の敷物だった。  その上に、その動物は、ごろりと横たわっている。 (やっぱり……! 良かった)  その愛嬌のある丸顔を見て、私は胸を撫でおろす。  そして、沈んだ顔のままのクサブキさんを振り向いた。 「これは、ナマケモノです」 「……」  クサブキさんの眉がこれ以上ないという程寄せられる。 「……アマネ殿。今は、戯れにお付き合いする猶予はない」  初めて聞く、トゲのある声だった。 「ええと、違うんです。そういう名前の生き物で……。多分、この子は、ミツユビナマケモノです」 「……」  いまいち合点のいかない様子で、眉を寄せたまま、クサブキさんは黙って私とナマケモノを交互に見る。 「この子は、基礎代謝がとても低い変温動物で、無駄な動きもないので消費カロリーが極端に少なくて……簡単に言うと、無駄に動かないから、お腹が減らないんです。ほとんど食べないし、ほとんどフンもしません。すべての動きがゆっくりで、心臓の動きも、ゆっくりです」 「……ふむ」  心臓の説明のところで、初めて得心がいったように、クサブキさんがうなずく。 「住んでいる場所は、南アメリカや中央アメリカの熱帯林……多分、カピバラの住んでいるところと似た環境で、良さそうです」 「ふむ」 「一生のほとんどを、木にぶら下がって過ごすので、枝のある木を、用意してあげるといいみたいです」  私は、集めてきたナマケモノの生育環境の写真を指し示す。 「……なるほど、かぎ爪でぶら下がり、自らの力はほとんど使わないのだな。……確かに、怠け者なり」  若干愉快そうに、クサブキさんがつぶやく。 「とりあえず温めてはいたが、そこは是の対処だったようだ。……ひとまず、温水(ぬくみず)の場所に、移すとしよう」  パチリと指が鳴り、ナマケモノは、熱帯エリアの木の下に移される。   「食べ物は、一日あたり10gくらいの野菜……葉っぱ一枚くらい、らしいです」  私の言葉に、クサブキさんが目を見開き、ふふ、と笑った。 「何と珍妙な生類(しょうるい)か。……これは良い」  目を細め、ゆっくり、ゆっくり、木に登っていくナマケモノを眺める。 「この世に、これほど数多(あまた)の奇怪な生類(しょうるい)がいようとは」  ぽつりとつぶやく。それから深く、ため息をついた。 「……アマネ殿。この度も、大変、世話になった。……見苦しいところをお見せして、面目ない」  私は首をかしげる。  先ほどの、焦った様子のことを言っているのだろうか。   「いいえ。……昨日は、お一人で、心配でお辛かったでしょう」  クサブキさんの目がゆっくりと瞬く。  それからどこかが痛むように、微かに苦く微笑んだ。
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