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その時、彼の眉がピクリと動いた。
「またか」
次の瞬間、彼の姿が掻き消え、私は唖然とする。
しばらくして空中に現れた彼が小脇に抱えているものを見て、私はもう一度唖然とした。
「カピバラ……」
「……またも、面妖な名の生類を。大儀なり」
思わずというように彼がつぶやく。
「何とおっしゃったかな」
「……カピバラ、です」
かぴ、ばら。かぴばら。先ほどと同じ光景が繰り返される。
それにしても。名前といい、癒しポイントといい、絶妙なチョイスだ。よく分からないけど、わざとやっているなら、ここに動物を送り込んでいる人、かなりセンスあるんじゃないだろうか。
ただ。私は唇をかむ。
「アルパカは、アンデスの高原で飼育される家畜。カピバラは、アマゾン川流域の温暖な水辺に生息する野生のげっ歯類。生育条件が、全く違う……」
思わずつぶやく。
かぴばら、と反芻していた彼が振り返る。
「さらに面妖な地名が出てきたようだが、……あなたは、生類に、お詳しいのだろうか」
彼の右手は、おとなしくうずくまるカピバラの背中を撫でている。
「こやつらは、このままここに捨て置けば、早晩、弱り滅するのは自明。しかし私は、こやつらを健やかに保ってやる術に暗い。……何とか、ご助力を、たまわれないだろうか」
先ほどまでの余裕あふれる態度とは違い、彼の言葉には切迫した響きがある。
何というか、この人、多分いい人だな。私は思う。
彼は、クサブキ、と名乗った。
「あなたに見えている姿が、私の体を表している」
これまでの彼になく、持って回った言い方だった。
「物の怪、鬼、……何と呼んで頂いても構わないが。ここへ数百年、封じられ、周辺のムラびとからは恐れられ、供物を絶やさぬために禁術まで使われる類の妖だ。……ただ、私ももとは、人の子だった」
彼の声は変わらず柔らかく、何の感情も見いだせない。彼の目に浮かぶ色を読み切ることは、私にはできなかった。
「私は、咎人なのですよ。犯した罪により、見た目までこのように変わってしまった」
あまり、これ以上、話させるのは、良くない話題のようだった。
私は、彼の握られたこぶしから目を離し、真っ白な夜空に微かににじんでくる黒い靄を眺める。
夜明けが、近づいているようだった。
「……私は、贄だと、おっしゃいましたね」
彼の美しい瞳が私を振り向く。
「私は、これから、どうなるのでしょう」
その時、暁の光が一閃、私の身体を射た。
瞬間、光に貫かれた場所から、私の身体がみるみる崩れ始める。彼の見開かれた目の前で、自分の身体が煙のように消えていくのを、私はまるで、他人の身体のように眺めていた。
そして、ふいに、私の世界は暗転した。
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