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渡辺綱は、1000年の時空をつまみ食いした俺が知る中でも、多分、十指に入る剣豪だ。そして個人的には、俺はその沈着な性格も、とても気に入っている。
だが、あの時の綱の殺気は、ある意味、狂気に近いものだった。
綱には、いわゆる神通力は全くない。薫子さんが人のままであることなど、分かりようがなかった。あの時、綱の中での薫子さんは、鬼に犯され妖と化してしまった、なんとしても狩らねばならない対象だった。
まだ、武士道などという思想が生まれるはるか前に生まれたはずの男だが、彼の行動規範を簡単に表せば、多分それに近いものになるのだろう。綱は、自分の私情を力づくで押さえこみ、彼女に対して剣を抜こうとした。
多分、あと数秒でも俺の介入が遅ければ、薫子さんは、綱に一撃で斬り殺されていた。
あの性格の男が、責務を優先し恋人を斬り殺すことを選んだ自分に、その恋人と添うことを許すとは思えなかった。
薫子さんには、意識を取り戻して綱と顔を合わせる前に、何とか事情を説明しなければならなかった。だが、それは、部外者の俺にとっても、胸の痛む作業だった。
自分の意識がない間に、自分の身体は、見知らぬ人外の存在と通じていた。そして、自分の恋人は、そこに誤解があったにせよ、自らの責務を全うするために、自分を、殺すことを選んだ。
彼女は黙って静かに、その事実を受け止めた。
俺は話しながら、だんだん、自分の決断に自信がなくなっていた。二人を何とか不幸な結末から救いたいと考えたことだったが、あるいは二人は、黙って別々の人生を歩んだほうが、幸せだったことになるかもしれない。彼女は、何も知らずに、ただ、恋人に去られたと思っていられた方が、幸せな人生を、送れたのかもしれなかった。
「……大丈夫?」
話し終えた俺は、半分は自分に対して、この言葉を放ってしまっていた。
「……ええ」
彼女は、軽く唇をかんだ。それから、まっすぐに俺の目を見る。
「吉昌さん。……ありがとうございます。これから、私たちがどうなろうとも、それは、私たちが選んだ道です。私に、事実を知り、これからを選ぶ権利を与えてくださり、ありがとうございました」
彼女の瞳は、きれいに澄み切っていた。
降参だ。俺は、どうやらこの子の性根の座り具合を、舐めていたみたいだな。俺は、その顔を眺めながら、ぼんやりと思った。
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