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筆頭の男
今も昔も、その手はとても小さくて、指はほっそりとしている。
ほんのりと桜色に染まった指先は、とても、きれいで、可愛らしい。
俺はぼんやりと、その手を眺める。
もうすぐ、俺の前から消えてしまう手。
その手の持ち主の横顔をちらとでも見たいのに、俺は、顔を上げることができない。
もし、その目が俺を見つめていることを、認めてしまったら。
俺は、彼女に、告げなくてはいけない。
ありがとう、さよなら、と。
一分でも、一秒でも長く、彼女の指を見つめていたい。
彼女の、息づかいを聞いていたい。
彼女の、隣にいたい。
それでもいつだって、時は止まってはくれないし、巻き戻らない。
できることなら、初めの人生のあの時から、やり直したい。
俺が茨を選んでしまったあの時から。
まだ、彼女の存在も知らないでいられた、あの時から。
でもそれがかなわないなら、せめて、昨日の夜に、時を戻してくれ。
そうしたら俺は、この場所に足を、踏み入れない。
いつものあの部屋で、彼女が戻って来るのを待つだろう。
そこまで考えて、俺は自分の思考のあまりのばかばかしさに、思わず息をつく。
人生を一言で表すなら、果てしない、取り返しのつかないことの連続だ。
俺は、自分の為したことの、報いを受けなくてはならない。
それは、あまりにも当然の理だった。
俺は深く息を吸う。
「薫子。俺は、もう、君と一緒にはいられない」
俺は、精一杯いつも通りの声を出す。
「どうして?」
すぐ隣から、静かな声が答えた。その声を聞くだけで、俺の頭はぐらぐらする。
俺は何とか、言葉を絞り出す。
「君が眠らされている間に、俺は、取り返しのつかないことをした」
「……何を、したの」
俺は目を閉じ、何とか息を整える。
「俺は、君を、斬ろうとした」
彼女は、黙っていた。目を開くと、彼女の手は、俺の視界から消えていた。
その手がふいに俺の手を握り、俺は情けないほどびくりとする。
もっと情けないことに、俺はその手を、振り払うことができない。
「源君。私は本当は、10年前に、死んでいたんだよね。あの時、あまねさんが、私を選んでくれていなければ」
薫子の声は、俺の背中をさするように響く。
「もし私が、本当に、鬼になってしまっていたなら、どうなっていたのかな。……あなたのしようとしたことは、どこか、間違っていたのかな」
「そういう、ことじゃない」
ただ座っているだけなのに、俺は、息苦しさを感じ始める。
「源君。もう、私を、愛していないの」
頼むから、やめてくれ。俺の息はどんどん苦しくなる。
「私と一緒にいなくなったら、別の、誰かを、好きになるの」
「そんなわけ、ないだろう」
思わず、俺は叫ぶ。
「……源君。私は、あなたを、愛してる」
彼女の声は、変わらず静かだった。
彼女は、俺の正面にまわり込み、俺の手を取って、俺の目をのぞき込む。
「……源君。私たちも、私たちの愛も、まだ、生きてるみたいだよ。……一緒にいようよ。ね?」
初めて会った時から変わらない、澄み切った、漆黒の瞳。
俺と彼女を包み込む、何の理屈もない世界。
俺は、彼女を、愛している。
俺は、自分の口から、唸り声のような嗚咽が漏れだすのを聞く。
頼光四天王筆頭、渡辺綱。これ以上ないほど、情けない男。
俺の震える手は、今、小さな優しい手に、包まれている。
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