3人が本棚に入れています
本棚に追加
「なんで勇者から逃げる必要があるんだ」
「追って来るからに決まってんだろうが! オマエとお喋りしてる間にも――もういい、どきなっ!」
弾かれるようにして、ゴブリンが踏み込んでくる。異種族ながら、その険しい表情からは切羽詰まっているのが分かった。突然だったとは言え、ゴブリンの動きは予想していたよりも幾分か遅い。攻撃とも逃走ともつかない無鉄砲な突進を、型の練習通りの簡単な動きで軽く受け流す。
ぶげえ、と呻いて転倒したゴブリンは、やりやがったなあ、と吠えながらすぐに立ち上がった。
心臓の高鳴りが耳の奥を震わせる。
目眩がするほどの高揚は、もしかすると初めて体験する激しさで、しかしその根本にあるものを僕は理解できていた。
喜びか、これは。
今にも襲い掛からんとする鼻息荒いゴブリンに、僕は早くも勝ちを確信していた。今、受け流したその感触だけで分かる。この人外は、害獣である大トカゲよりも弱い。
僕の力は、勇者の戦う相手にだって通用するものだったのだ。
「やろうってんだな、ニンゲン!」
「そっちからかかって来たんじゃないか。戦うつもりだって言うのなら、手加減するつもりはないよ」
ようやく構えらしきものをとったゴブリンに、それでもこちらからじりじりと距離を詰めていく。頭一つ分は小さな相手。武器を持っているわけでもないので、大したリーチは無いだろう。
僕が自分の間合いを作っていくにつれ、ゴブリンが及び腰になっていくのが分かる。
「逃げたって良いんだぞ。村を襲う気が無いのなら、僕にはきみを斃す理由がない」
言いながら、僕はこのゴブリンが襲い掛かってくることを期待する自分がいることを自覚していた。
それなのに僕がそう言ったのは、避けられる戦いを避けようとする、そういう理性的で良識のある自分を演出するため――自分への言い訳だった。
勇者になりたいわけじゃない。勇者に並ぼうという自惚れなんか無い。だけど、ゴブリンという勇者伝説にしばしば登場する敵を、自分にも打ち負かすことができるのならば、それで胸が躍らないと言ってしまうのは嘘だ。
最初のコメントを投稿しよう!