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第1話「よしなさいよ」
私立伊之泉杜学園には、巨大な桜の樹があった。
幹は大人が10人手をつないでも囲むには太過ぎて、盛り上がった根はベンチ代わりになるほど頑丈だ。夏は葉を茂らせて日差しを遮り、秋にはカラフルな落ち葉の絨毯を敷く。厳しい冬の寒さを生徒たちと乗り越えて、春には満開の花で門出と入学を祝う。通称『大桜』と生徒や教師たちに呼ばれている、学園生ならば誰でも知っているシンボルのひとつだ。
グラウンドの隅、体育館のすぐ近くの場所に、大桜は植わっている。今は緑の葉を大量につけて、風が吹くたびにざわざわと騒がしく音を立てている。その樹は人間に限らず多くの生物を惹きつけ、営巣する鳥や樹液を求める虫たち、リスなどの小動物さえもその恩恵を受けている。その根元、人を支えられる程度には頑丈な根のひとつに、牟児津 真白は腰かけていた。
高い位置で二つに結んだざくろ色の髪の下から大粒の汗が垂れる。半袖をさらにまくってほぼノースリーブにしたブラウスが、にじんだ汗を吸って肌にまとわりつく。牟児津は周りの目も気にせず、バサバサとベージュのスカートをあおいで、こもった空気を発散させていた。足元には丸々と肥えたゴミ袋が2つ転がっている。
その牟児津の隣で同じように根っこのベンチに座るのは、空色の髪を結んでポニーテールにし、半袖のワイシャツに七分丈のスカートを履いた時園 葵だった。牟児津と同じように汗だくで、満タンのゴミ袋を2つ持っている。
「よしなさいよ」
「だってあっちーんだもん」
牟児津のはしたない姿に、時園は苦言を呈する。牟児津はお構いなしにスカートをあおぎ続ける。時園はそれを止めるわけでもなく、ふうとため息を吐いて汗をぬぐった。
2人はクラスメイトであり、今週のゴミ当番でもあった。ゴミ当番とは、クラスで出たゴミをまとめて集積所に持っていく係で、クラス全員が輪番で務めている。高校の教室から出るゴミなので特別なものはないが、とにかく嵩張る上に量が多い。教室から集積所まで運ぶのは骨が折れる。
「さ、休憩終わり。早く持って行きましょう」
「待って待って。ちょっともう、さっぱりしたいから」
「え?」
そう言って、牟児津は懐をまさぐった。何が出てくるのかと思えば、小さな包みだった。半分は透明なビニール、半分は中が透けるほど薄い和紙でできた包みだ。その中には、ひとまわり大きくて透明な球体に包まれた黒い球体がある。どうやら和菓子のようだ。包みも菓子も透明感があるためか、なんとなく涼しげな印象を受ける。
「なにそれ?」
「塩瀬庵の期間限定新作和菓子『淡月』だよ」
「なにその日本刀みたいな名前」
「かっこよくない?」
「お菓子っぽくない」
小豆の風味を重視した甘さ控えめのさっぱりしたあんこが、清涼感あふれる透明度の高い寒天に包まれている。あんこ菓子には渋い緑茶と相場が決まっているが、この『淡月』は後味すっきりでお茶がなくても食べられることを目指して制作された。
というのが牟児津の説明だった。得意気に解説した後、牟児津は慣れた手つきで包みを開き、大口を開けて中身を放り込んだ。先ほどから所作のひとつひとつがはしたない。時園は、ふうんと鼻を鳴らす。
「もうパクパクいけちゃって。気付いたら買い置きなくなってるくらい」
「牟児津さん、そんなのいつも持ち歩いてるの?」
「うん。時園さんもいる?」
「……遠慮しとくわ」
この暑い中で牟児津の懐に入っていた菓子を口にする勇気など、時園は持ち合わせていなかった。牟児津は『淡月』をじっくり味わったあと、よし、と気合いを入れたように立ち上がった。その拍子に『淡月』の包みが地面に転げ落ちる。
「持っていこうか」
「ええ。あ、落としたわよ」
「おっと」
時園に指摘されてから気付いたのか、牟児津は自分の足下を見た。ゴミ袋の口を緩め、それを拾おうとしゃがみこむ。
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