58人が本棚に入れています
本棚に追加
序章/追憶
彼奴に初めて会ったのは、辺りに桃色の花弁が舞い散る、とある春辺の昼下がりだった。
場所は学校だ。なんとか入学できた学舎の広い敷地内を、探検よろしく彼方此方へ歩いていた、そんな時。不意に後ろから、声を掛けられた。
「……悪い、講堂へはどう行けば辿り着く?」
教えてくれと、そう言ったその声は、自分よりも低く、とても通る声だった。
その声に誘われるよう振り返れば、視線の先で、俺は真っ赤な炎を見つけた。――――それは、まるで宝石のように綺麗で、澄んだ紅い瞳だった。
「……? どうした?」
その瞳に思わず目を奪われていると、手前からおい、と声が落とされた。瞬間、我に返って一つ謝罪を口にする。
「っ、あ、ああ、ごめん」
そのまま、ちら、と目の前の男を不躾にならない程度に観察する。
ひどく困った様子で眉尻を下げていたその男の胸元には、自分と同じ黒の学章が。この学校は、学年ごとに違う色で学章が彩られているから、そこで俺はようやく気付く。
ああなんだ、彼も同じ一年生か。
「もしかして迷った? この学校広いもんなぁ」
ここは、国内でも特に校舎が広いことで有名の学舎だ。だから、新入生ともなると迷うのは仕方がないよな、と思って、俺は何の気無しにそう口にした。自分自身、学内を早い内に把握しようと思い探検していたから、気持ちは分かる。
だが、自分の『迷った』という言葉を聞くや、途端に目の前の顔が突然ぐぅっと嫌そうに歪んだものだから、思わず目を丸くする。
「……そう、だな。……恐らく、迷ったんだろう」
加えて、そうやって渋い表情を浮かべながらも続けられた言葉が、またひどく不服げで。それが明らかに、本心では迷子だという事実を認めたくない、なんて雰囲気をありありと感じさせるものだから、俺は思わずふはっと笑ってしまった。
「、く、……っ、ふふっ、お前、随分と分かりやすい奴だな」
「……なに?」
出会しなに俺がそう笑ったものだから、さらに彼がまた不機嫌そうに眉間に皺を寄せてしまった。それがまたひどく分かりやすくて、おかげで不躾だと分かっていても、ずっとくすくすと笑い続けてしまう。
初対面だというのに、これでは第一印象最悪だろう。
ここ最近はずっと、外面だけで人と付き合っていたから。入学早々こんなことになるなんて、正直思ってもみなかった。
こうやって、声を出して笑うのなんていつぶりだろう。
「あー、ごめんごめん。なんて言ったら良いのかな……滅多に見ない素直な奴だなぁって思ってさ。悪気はないんだ、突然笑ってごめん」
仕切り直そうとこちらが謝罪を口にすれば、すぐに向こうも気を取り直した様子でハッと目を瞬かせた。
「あ、ああいや……こっちこそ悪い。尋ねている身で、この態度は失礼だった。……その、実を言うと、さっきから思った場所に辿り着けなくて……苛々してたんだ」
つまりは八つ当たりしていた、そう零す彼に、今度は面食らってしまう。
まさか、これほど真っ直ぐな気質の人がまだこのご時世にいるとは。
つくづく珍しい奴もいたものだな、なんて思いながら、それならと『じゃあ、笑ったお詫びにさ』と前置きして、俺は一つ提案を口にした。
「良かったら一緒に行こうか。案内するよ」
口で説明しても良かったのだけれど、なんとなく、口頭での案内だけで彼が辿り着けるようには思えなかったから。という、言ってしまえば失礼なことを思っていたが故の提案だったのだけれど。そんな俺の考えなんて気付いちゃいないのだろう、彼はそれを聞くや、見るからにぱぁっと表情を明るくした。
「良いのか! 助かる」
つい先程までの不機嫌な顔は何処へやら。そうして彼が、何の含みもなく素直に感謝の言葉を口にして、しかも頭を下げてきたものだから、また目を瞠ってしまう。
そんな彼に、俺は気付けばまた、ふふっと小さく笑いを溢していた。
「……本当、面白い奴だな。俺は千草、よろしく」
「ん、俺は燐だ。……面白い、か? 自分で言うのも何だが、俺ほど面白みのない奴もいないと思うぞ」
可笑しな奴だな、お前は。そう言う彼、燐を先導するように俺は、早速講堂へと続く通路へと足を向けたのだった。
今まで出会ったことのない性質の相手に、初めはただ、物珍しさで近寄っただけだった。不思議なことに、燐の隣はひどく居心地が良かったから。
そう最初に燐に抱いた印象は、一緒にいる時間が長くなっていっても変わることはなかった。燐はどこまでいっても素直で、いつだって真っ直ぐで……それから、格好良い男だった。
いつからだったろう。そんな燐へと抱く感情が、自分の中で徐々に変化していることに気付いたのは。
半年か、一年か……いや、もしかしたら、それよりももっと早かったのかもしれない。いつしか俺の心臓は、燐の、誰よりも眩しい、まるで太陽のような笑顔を向けられるだけで、壊れてしまったんじゃないかと思うくらいドキドキと高鳴って仕方がなくなった。
だから俺は、そんな自分の想いに気付いたその時から、これ以上の関係を望んでしまうことのないように、自分で自分を律する事にした。
親しい友人として、一定の距離感で傍にいられるように。そのほうがずっと、傷付くこともなく、長く側にいられると思ったから。
不変のものなんて、この世の中に存在しない。それを俺は、つい最近身に染みて理解させられた。
だからまた、大切な人が離れていくあの感覚を味わうのは、臆病な自分にとってはあまりに怖くて。それならいっそのこと、初めからなければ。その一心だった。
ただ、それがまさか、十年の月日が過ぎた今、向こうから自分が引いた境界線を飛び越えて迫って来られるようになるなんて、この時の俺は全く想像だにしていなかったのだけれど。
最初のコメントを投稿しよう!